1章ー4

 神川家からの最寄りコンビニは徒歩七、八分ほどの距離にある。川を挟んで向かい側にあるため、橋を渡ってさらに国道沿いを歩き、細い路地の住宅街をつっきり、コンビニに辿り着いた。絵衣美は某コンビニにおける高級アイスの、しかもクリスピーサンドを頼みやがった。約三百円也。俺は食感が取り柄の安価なアイスを購入。そのまま絵衣美の家に戻るのもなんだかつまらないので、川沿いの道を歩き、少し遠回りすることにした。


 高校生時代、絵衣美に連れられてよくこの川沿いを歩いた。川と言っても、歩いて十分もかからないうちに、海へと繋がる。絵衣美は、川から海へと繋がる場所をよく見つめていた。何を思っていたのかはわからない。設定上にいる、裏切りの姉妹への怨嗟かもしれないし、かつて設定上王妃であった頃のことを、懐かしんでいたのかもしれない。


 日は沈みかけていたので、辺りは薄暗く、川と海との境界線はさらに曖昧となっていった。世界の見え方が変わっている時、実は本当に世界は不安定となっていて、そんな時にちょっとした偶然から、異世界なんてところに行けたりするのかもしれない。俺もそのくらいなら妄想する。あればいいなって思うよ、異世界。あることを否定出来ないが、無いことも否定出来ない。ただ少なくとも、現実的と言えるような体験しかしていない俺には、今を生きていくしかなかったのだ。物理法則と独自の倫理に縛られた世界。俺の生きる場所。今の絵衣美も生きる場所。きっと楽しかったであろう空想の世界から帰ってきた絵衣美は、一体何を思っているのだろうか。


 不安、郷愁、精神を不安定にさせる感情が去来した。友樹が、クラスメイトで友達が結婚するということが、水崎千夏がいなくなったということが、わずかに胸を掻き乱す感情を、生んでいるのかもしれなかった。


「なあ絵衣美」


「なんですか、改まって」


「お前は、大丈夫なのか?」


 絵衣美は目を丸くした後、くくく、堪えきれず息を漏らすように笑った。


「どうしたんですか先輩。ただ優しく心配するだけなんて、先輩らしくないですよ」


「うるせえ。たまに優しさを見せるとこれだから嫌なんだ」


 いたたまれなくなり、右手で頭を搔く。絵衣美というと、俺の様子がおかしいのか、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。奢ってやったアイスを奪い返してやろうかと思った。


 絵衣美は川の先、海と繋がるであろう境界線を眺め出した。口元は綻んでいて、今に限って言えば、どこか昔を懐かしんでいるような気がした。


「先輩と初めて会ったのは、確かここでしたっけ?」


 川沿いの堤防には桜が植えられている。絵衣美は、長年雨風に晒されていたせいか、枝があちこちの方向に伸び、いつ倒れてもおかしくない老いた桜の木に腰をかけた。曲がった枝が地面すれすれまで伸びているので、椅子のように座ることが出来る。


「そうだな。今みたいにその枝に腰掛けてたな。まさか居眠りしているとは思わなかったけどな」


 思い返す。初めて絵衣美と出会った日は、なんてことはない普通の日だった。今みたいにコンビニに寄った帰り道、堤防の桜並木を眺めながら散歩していると、桜の枝に腰掛けた少女がいた。制服姿だったから、同じ高校の生徒だということはすぐにわかったが、日本の高校生には不釣り合いな金髪姿が、幻想のような荘厳さを生み出していた。


 思わず歩みを止めた。桜の木、艶のある滑らかにブロンドの髪、息をしているのか、そもそも生きているのかもわからなかった。陳腐な表現だが、俺に絵画の嗜みがあれば、絵にしたくなるくらいに、心が高鳴る光景だった。


 しばし見つめていると、少女の瞼がわずかに動き、口に手を添えて、上品に欠伸をした。


 見ず知らずの少女を眺めていたことが恥ずかしくなって、この場から離れようとしたが、少女が俺の姿を捉えるほうが早かった。そして、言った。


 そなたは、ワタクシの姿が見えるのですか?


「うんそうでしたそうでした。そうでしたからもうこれ以上思い出すのはやめにしましょう。ね」


 いつも以上に早口だった。自分から過去の話を振った割には、絵衣美の中で自分が一番イキっていた時代の出来事は、過去ではあるが、まだ思い出になっていないらしい。ちなみに象徴的だった金髪は、ただのカツラだったらしい。


 残念だ。水崎千夏ともまあ思い出せるくらいのエピソードは色々あったが、絵衣美とのエピソードも、俺たちの青春には欠かせない一ページなのに。


「たまには思い出話に花を咲かせるのも悪くないだろ。特に印象的だったのはあれだ。確か当時は、紫色の聖戦とか呼んでたな。あの時はほんと大変だった」


「今すぐ黙りやがって下さい。さもないと、先輩の下卑た表情が、すぐさまキャラメルの香りとともに破壊されることを約束しましょう」


 絵衣美は食べかけのクリスピーサンドを、地面と水平に構えていた。幕末を乗り越えた剣客が得意とする、刺突のポーズに類似していた。というかそれを意識しているんだろう。やると言ったらやる女、神川絵衣美。


「ちっ」


 舌打ちで返す。負け惜しみだ。


 しかし本当に残念だ。紫色の聖戦の話は、高校生時代の事件の中でも、特に印象深かったのに。あの結局誰が得したのかよくわからない事件は、語り出せばそれこそ一冊の本に出来るくらいだ。あーもったいないもったいない。絵衣美が忘れた頃に、絶対どこかで語ってやろうと思った。


 そこからはお互い無言だった。何か話したいけど、どんな話題なら話していいものか判断が難しかった。今の話しでもすればいいのかもしれないが、これは語るべき話なのかと考え、結局話すのをやめにしてしまった。


 こうして絵衣美との関係は今でも続いているのだが、どこか高校生時代の延長のように感じていて、面白くもなんともない仕事だとか、しがらみだとか、そんな話は相応しくないように思う。


 青春の残骸。完結している物語の蛇足。終わりの続き。


 生温い風が吹き抜ける。梅雨も明けて、本格的に夏の気温が迫り来るのを感じた。今年も暑くなるらしい。


 絵衣美の自宅前まで戻ってきた。絵衣美は玄関の前に立ち、俺を見送ろうとしていた。金髪のカツラはしていない。上品なのか高貴なのか判然としない、浮世離れした言葉遣いももうしていない。当時は短かった髪も、肩に触れるくらいに伸ばしている。それでもこいつは、神川絵衣美。


「じゃあまたね、先輩。水崎先輩のことはそこまで知っているわけではないですけど、無事に見つかることを祈ってます」


 ぺこり、という擬音が似合いそうな、悔しいことに可愛らしいと認めざるを得ないお辞儀だった。


「ああ、ありがとな。じゃあ、またな」


 一往復、二往復と手のひらを振って、絵衣美宅を後にした。一人で歩く帰り道。ポケットからスマホを取り出し、アプリを起動する。映し出される名前は、水崎千春。


 正直、まだどうするべきなのかわからないけど、何かしら進まなきゃいけないという決心はついた。


 なんて返事をすればいいか思いつかず、三、四行ほど書いて、あまりにも何が言いたいのかわからなくて、白紙に戻した。書いては消し、書いては消しの工程を繰り返した。自分自身の優柔不断さに嫌気がさしたが、どんなに言葉を重ねても、現時点では何もわからないのだと開き直る。


 明日の朝から昼過ぎくらいまでなら空いてるよ。


 シンプルにそれだけを送信した。細かい取り決めは返信があってからでいいだろう。幸い、明日は夜勤なので夕方までは時間が空いている。


 まあ前向きに考えれば、女子高生と休日に会う約束なんて、ただの冴えない社会人としては、過ぎたるイベントだろうよ。

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