1章ー5

 千春が指定してきた場所は、車で十五分ほどの場所にある海浜公園だった。公園と言っても、遊具があるのは一部分だけで、約五キロほど海に沿って歩く道が続いている場所だ。休日には散歩をする老人やペット連れの家族、もしくは自らを鍛え抜こうとジョギングに勤しむバイタリティーに溢れた人々が途切れ途切れに並んでいる。砂浜が広がっているわけでなく、一部コンテナが積み上げられており、港としての役割も備えている。泳ぐための海ではなく、工業用としての役割が強いため、平日はコンテナを運ぶトラックや特殊な車両が行き来していたりもするが、休日には人口密度に余裕があるところは密かに気に入っている。


 駐車場に車を止めて、遥かに続く水平線を眺めながら、目的地まで歩いた。離れ小島と国道を結ぶ橋が海浜公園の上を通っているため、橋の下に続く道を進んだ。橋の下を抜けると、辿り着くのは行き止まり。もしかしたらさらなる散歩コースを整備する計画があったのかもしれないが、新たに道を作ることを断念したようで、家が一つ建つくらいのスペースがあるだけだ。草は生い茂っており、誰かが休憩用に置いていったのか、大きな丸太が横たわっているだけだった。


 千春が海浜公園の、しかもこの場所を指定してきたのには、理由があるはずだ。というか、俺自身にも心当たりがある。


 ここは、俺と千夏が学校外で会う理由がある時、待ち合わせにしていた場所の一つだ。一般人を超えた一般人、いわゆる超一般人な俺と違い、千夏はその容姿と外面で学校内外共に注目を集めやすい。もし校外で俺と同じ空間にいることを目撃されて、根も葉もない噂を流されるのは嫌だったので、こうした人気のないところで会うことにしたのだ。


 横たわっているだけの丸太に腰を下ろした。ただ待つことしか出来ないので、海を眺める。忌々しいくらいにキラキラしてやがるな。


「お待たせして申し訳ありません。待ちましたか?」


 背後から声がしたので振り返る。懐かしさを覚える制服姿で、千春らしき人物が立っていた。いやこの場に来て俺に声をかけるのは千春以外の可能性は皆無に近いだろうが、俺はその人物を千春だとは言い切れなかった。


 なぜならそれはね。


「……いや、般若面を着けた女子高生風の子を待ってた覚えはないんだけど」


 千春らしき人物は、般若面を着けていた。般若面を着けていたのだ。無駄に二回も考えてしまうほどに戸惑いが大きいのだ。


 あれ、俺は割とシリアス気味な雰囲気で、真面目っぽい話をしにきたつもりなんだけどな。


「それで、今日来ていただいた理由なのですが」


「平然と進めるなよ! 千夏のことについては気になってるけど、身につけてるその般若面のほうが気になるわ」


 千春は嫌そうな顔をして(多分)、一度黙った。本題に入れないことは俺も不本意なのだが、この疑問を解消しないことには、気になって話も進められそうにない。遠回りな言い回しだったり、気遣うような言葉を選ぶべきかとも思ったが、さっさと本題に移りたかったので、ストレートに疑問を投げかけた。


「なんで般若面を着けてるの?」


「プライバシー保護のためです」


「プライバシーも何も、待ち合わせしてたんだから、もう相手が誰かわかってるのに意味なくないか?」


「最近女子高生の間で流行中のマストアイテムです」


「女子高生どころか、般若面を着けた人を見ること自体初めてだわ」


「実は風邪気味でして」


「マスク、それなら現代の医療グッズの一つ、マスクをつけりゃいいだろ」


 埒があかない。俺は別に女子高生とコントの練習をするために来たわけじゃないのだ。


 一度沈黙する。伊達や酔狂でそんな格好をしているわけじゃないと思いたいが、嫌な方向での初めての経験であったから、うまく頭が働かない。というか頭痛がしてきた。


 今日の本題は般若面にツッコミを入れることではなく、千夏の失踪の件について話をしにきたんだ。話を元に戻そう。


「まあいいや……いや決して良くはないけど。女の子を立ちっぱなしにしておくのも気分良くねえし、とりあえず座ってくれ」


 腰をかけていた丸太から立ち上がり、一応持ってきたハンカチを敷いた。喜べ量販店のハンカチーフ。お前は女子高生の尻に敷かれる運命を背負うんだ。


 千春は、一瞬躊躇いつつも、ハンカチの上に腰掛けた。


「お気遣い感謝致します。これでやっと本題に入れそうですね」


「……そうだな」


 俺がツッコミを入れて話の流れを遮っていたから話が進まなかったのだと、まるで抗議でもされているような含みある発言だった。腹が立つ。腹が立つけどこの件に関しては一旦保留にしよう。消化しきれなかったら、この件の恨み辛みを交えてノートにでも書き出してしまえばいいさ。


 我慢だ。


「まずは、どこからお話しをすればいいのか難しいですが、とりあえずいなくなった日のことからお話しをしましょうか。覚えていることをお伝えしますので、何か質問がありましたら、随時お願いしますね」


 俺は頷いた。ようやく入ることができた本題に、自然と気持ちが引き締まるのを感じた。これから行われる話は、俺の知らない水崎千夏の話になる。高校を卒業してから、ただの一度もこちらから連絡を入れていない。逆に水崎千夏の方からも連絡は一回もなかった。電話どころかメールの一本もよこさないのだ。まあ、お互いの連絡先を知らないこともあり、知ろうとしなかったことは完全にお互い様である。そもそも終わったような関係であるはずなのに、今になって、今更になって関わりが出来かけていることに、縁というものの不思議さを感じる。


 人生は物語であるのかもしれないが、エンディングは自分で選べない。エンドロールは流れずに、抑揚のない展開だとしても、観客がいなくても、平等に、無慈悲に、続いていく。


「姉がいなくなったのは、五日前です。六日前は普通に家にいましたね。夕飯も一緒に食べているので間違いはないです。その日は姉と二人きりの食事でしたね。両親は共働きなので、休日を含めても両親、姉、私と家族全員が揃うことは滅多にないです。その時の様子ですが、いつもより口数が少なかったように思います。今になって思えば、あの時に何か考え事をしていたようでしたね。考え事をするなんて、誰にだっていつだってあることですから、その行為に別段意味があるとは思わなかったですね」


「まあ、それはその通りだろうけど。普段はどんなことを話しているんだ?」

「他の家庭がどのような会話をしているのかはわからないですが、私と姉の場合は、私が話しをすることが多いですね。内容は他愛もないことです。その日にあった出来事だったり、最近学校で流行っていることだったり、その時その時で変わります」


「特に変わったことはなさそうか。それで、今の千夏のことを何も知らないから教えて欲しいんだけど、千夏はいつも何をしているんだ?」


 千春は、少しの間沈黙していた。言うべき言葉を考えているのか、言わないべき言葉を考えているのかは、般若面に表情が隠れているせいで、読み取ることが出来なかった。


「姉は、昼間は仕事をしていたので家にはいないですね。しがない会社員ですよ。仕事の忙しさは時期によってまちまちみたいなので、帰ってくる時間にばらつきはありましたが、朝帰りをすることはありませんでしたね。遅くとも日が変わる前には帰ってきていましたよ。ただ、それももう過去の話ですが」


「というと?」


「姉はもう仕事を辞めました。一か月前くらいですかね。詳しいことは教えてくれませんでしたが、大まかに言うと、人間関係について嫌気がさした部分があるみたいですね」


 仕事をしていたというのなら、個人事業主でない限りは、当然仕事上であらゆる関係が発生するのは避けられないということは、俺も実感していた。良い奴もいれば悪い奴もいる。そんな単純な話ではなく、ちょっと良い奴やちょっと悪い奴もいるし、良いと見せかけて悪い奴、悪そうに見えて良い奴。さらに言えば特定の場面においては有用な奴、無能な奴。仕事の場、社交の場、会議の場、あらゆる場面においての役割や、こなさなければいけない仕事の分量はその日その時によって変化していく。複雑な場面にその人ごとの思惑や意図が絡み合うというのが社会生活だ。答えのわからない問題を、正しいのかどうかもわからずに解き続けていく、そんな日々に苦しみを感じることは無理もない話だろう。よくある話だ。


「人間関係、ね。学生時代ですら悩むことだろうし、社会人になると尚更面倒くさいことだしな。悩みってものの大半は、突き詰めれば自分と他人のことについてだし、まあそう珍しいことじゃ」


 そこまで言ったところで、千春は割り込むように言った。


「姉が仕事を辞めることは、今回が初めてじゃないんですよ。たしか……三回目ですね」


「それは……」


 少し多いのかもしれないという感想を噛み殺した。今までの仕事がどのくらい続いていたのかはまだわからないが、まだ今年二十五歳の身の上にはなかなかの回数だ。俺が高校を卒業と同時に施設に就職しているので、勤続年数は六年経ち、七年目の真っ最中だ。別に俺が普通だと言うつもりはないし、人の働き方や事情はそれぞれ違っているから、良い悪いということではないんだが。


 もし何らかの問題を抱えているのであれば、異常な事態だと言えてしまうかもしれない。


「確認なのですが、高校を卒業した後の姉については、明大さんは何も知らないんですよね?」


「ああ」


 素直に頷いた。質問の意味がわからずに。質問の意図も知らずに。


「ではもしかしたら勘違いをなさっているかもしれないので付け加えますと、姉は高校を卒業した後、地元の大学に通っていました。成績は問題なかったので四年で卒業し、就職をしました。ですので、わずか二年と少しの間に、三回も離職しています」


 今度こそ俺は完全に言葉を失った。さすがにこれは異常だと言わざるを得ない。いずれのケースにも事情があったことだろうが、いくらなんでも辞めすぎている。


 高校生時代の千夏は、皮肉屋ではあったけれど、厭世的な様子はあったけれども、表面上はうまくやっていたはずだ。嫌なことがあってもニコニコと笑って、その張り付いたような笑顔を見せながら、笑顔でいることのストレスを俺に対して遠慮なくぶつけていたものだった。本当の友達だとか、永遠の友情とかいう耳障りの良い言葉に、唾を吐きけるような物言いをしていたが、それでもうまくやっていたと思っていた。今でも思っている。


「私たちに気を使ってなのか、姉は色々な出来事に対しての恨み辛みは、家庭内では全然話をしませんでした。そういえばいつだったか、珍しく酩酊して帰ってきた日がありましたね。その日の姉はいつにもなく饒舌でした。かといって会社の愚痴とかを漏らしてたわけじゃないですよ。ねぇ、どんなことを言っていたと思います。明大さん?」


 表情も、色素も、テンションも読むことの出来ない般若面がこちらを向いた。怖い。ああ、やだ、怖い。


 胃がキリキリとするという表現を実感として味わった。暑さを感じて流れる汗とは、明らかに質の違う湿気を背中に感じた。痒い。気持ち悪い。心臓の鼓動が早くなってきたことを今更ながらに感じた。呼吸も浅くなり、うまく息が吸い込めない。悪戯が見つかって、叱られる寸前の子供のような心境だ。


 あまり考えたくもなかったが、予測はつかないでもなかったが、決定的な一言を自分から言ってしまいたくなくて、とぼけたような言葉を返した。


「さあな……どんなことを言ってたんだろうな?」


 般若面の中は視認できないが、千春は、鬼の首を討ったかのように、笑った気がした。


「あの日こなかった明大なんて、死んでしまうべきです。そう言ってました」


 この時になってようやく、千春が俺と話をしに来た理由を理解した。姉を探すための手掛かりを得るという目的も当然あるのだろうが、第一の目的はきっと。


 きちんと交わしたわけでもない約束をすっぽかした。


 クソ野郎への断罪だ。

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