5章ー3

 ノートに纏めてある、特にムカついた出来事のページを千切る。


 黒一色のカプセル(黒球)に詰める。


 怒りの一言を叫びながら、棒状の物で窓の外にかっ飛ばす。


 ルールはシンプルかつ短いほうが伝わりやすいと考えたので、このような説明を行うが、千夏は不満気に口を尖らせた。


「なんでそんなことをしなくちゃいけないのか、納得のいく説明を求めます。それと、呪いの書を私にも見せてください」


「見せることについてはもちろん、やだよ。別に嫌ならやらなくていいんだが、この行為に意味があるとすればただ一つ。ストレスの解消だ」


「ストレスの、解消」


 そう。サンドバッグを殴ったり、美味しい物を食べたり、大声を出したり、ストレス解消には様々な方法があるけれど、本質はそれらの行為と変わらない。自身の欲求を満たすことだ。バットで物を打ち付けることでの解消は、スポーツで体を動かすことによる発散の効果は期待出来る、と思う。それに、恨みや不満を書いた物をかっ飛ばすことで、内側の鬱憤を形として吐き出し、破壊衝動も満たせる、かもしれない。過去の出来事を窓の外に飛ばすという行為で、自身の過去を断ち切る効果もある、といいな。


 全てにおいて曖昧であることは否めないが、何事もやってみなくてはわからないという決まり文句で、言い訳をさせてもらおう。


「勝手に遠くへ行くことも、呪いの書を見ることも、俺を殺して自分も死ぬってことも、とりあえずやってみてから考えてもいいんじゃねえか。球は合計二十球あるから、十球ずつな」


 そう言って、呪いの書を開き、特にムカついた記憶のあるページを千切り、丸めて黒球に収めた。千夏が首を伸ばして、呪いの書の違法閲覧を試みていたが、体でブロックした。


 窓を覆っていた網戸を開け放ち、元研究会室と外界が繋がる。地面に転がっていた、旗を丸めた棒を拾い、念のためハンカチで拭いてみたが、ハンカチが一方的に埃まみれになった。仕方ない、これでいいか。


 ブレザーを脱ぎ捨て、窓の外に向けて、旗バットの先端を突き出した。呪詛の言葉と怒りを込めた、執念のホームラン予告。


 記念すべき第一球は、我が友、松澤友樹についてだ。


「たくさんの女子と仲良くしやがって」


 黒球を左手で宙に放り出す。旗バットを両手で持ち直し、左足を振り上げ、力を込めて踏み出すと同時に腰を捻る。繋がった両腕を僅かに後方へ捻り上げ、反動を利用して勢いよく振り出した。


「リア充死ね」


 旗バットは黒球を捉えた、がしかし旗バットの下方部分に当たったため、打球は上空へは伸びずに、重力に従って、飛距離は伸びずに落ちていった。カス当たりだ。


「かっこ悪いです。発言内容から結果まで、もう何から何までかっこ悪いです」


 うるせえ。


 少し力み過ぎたのか、テイクバックが一瞬遅れたのかもしれない。次こそはうまく打ちたいという、挑戦的な気持ちが湧き上がってきた。不完全燃焼の感じは否めないが、ワクワクした気持ちが生み出されていくのを感じた。


「ほれ、千夏の番だ。案外楽しいぞ、これ」


 旗バットを手渡す。渋々といった様子であったが、受け取ってくれた。両手で持ち、感触を確かめている。


「まあルールはわかりました。今度こそ明大とはもう会うこともないでしょうし、くだらない茶番に付き合ってあげますか。もっとも、体育の授業時のソフトボールくらいでしかこういった経験はありませんが、明大よりは上手く出来るでしょうね」


 挑発的なセリフを吐きつつ、千夏はノートを千切ってカプセルに収めた。俺に中身を見られないように体でブロックされていたため、内容は確認出来なかった。


 千夏は黒球を握りしめ、構えた。


「色んな男をとっかえひっかえ。恥を知りなさいあのアバズレ」


 千夏は女子であることが勿体無いくらいに芯の通ったスイングで。


 見惚れてしまうくらいに華麗な動作で見事に、空振りした。


 ぼとっと、黒球は床に落ちた。


「わははははは」


 俺は爆笑した。


「……少し練習が必要なようですね。素振りをしましょう。それっ」


「うおっ」


 殺意すら込められた千夏のスイングは、頭部をかすめて空を切った。咄嗟に反応してしゃがみこんだおかげで、直撃は免れた。


「危ねえだろうが」


「たまたま素振りをした先に、明大が居ただけじゃないですか。邪魔をするのはやめてくれませんか」


「その理論だと、車で走ってたら人の方からぶつかってきたから私は悪くないって言ってるようなもんじゃねえか」


 奇襲が失敗したことで、直接殴打するのは諦めたのか、ブレザーを脱ぎ、もう三回ほどスイングの練習をして、黒球を拾った。


「明大死ね」


 セリフが変わっていた。


 旗バットは見事に黒球を真芯で捉え、放物線を描いてグラウンドに消えていった。ヒット級の当たりだ。


「けっこう楽しいですね、これ」


「今言うな今」


 別の旗バットを持ち出して、直接殴り合ったほうが 早いんじゃないかとすら考えてしまったが、なんとか堪えた。この怒りは、黒球にぶつけるべきだ。


 二球目、三球目、四球目と回を重ねるごとに、暴言の内容は多岐に渡ってきた。高校生時代のクラスメイト、教師、職場の人間などなど、お互いよくもまあ不満が出てくるもんだと思いながら、黒球を旗バットで叩きつけ、心の重みを軽くしていった。


 後半に入ると、社会だとか、ルールだとか、概念めいた物に対する怒りも湧いてきた。人一人ではどうしようもない圧力。人の手ではどうすることも出来ない大災害。力が及ばない、無力でしかないことを改めて実感させられるような出来事にも、嘆きにも似た怒りを感じた。


 どうしようもないことはどうしようもないのに、何も出来ない自分に、また怒りを感じる。そんな不毛でしかない思いも、いざ吐き出してみると心地よく感じた。


 普段やらない動きをしているためか、両肩が張ってきた。おそらく明日には筋肉痛に悩まされるのだろう。千夏の方もダメージは受けているようで、スイングの調子が最初よりも悪く、ジャストミートは出来なくなっていた。


 それでも、一球、また一球と打ち出すうちに、表情は明るくなっていき、口数も増えてきた。言葉では耳を塞ぎたくなるようなことを吐き出しながらも、笑顔を見せるようになっていった。


 蘇ったのは、研究会室でくだらない諍いをしていた時のこと。


 教室や廊下では、人がいる場面では会話もしなかったし、他人が見当たらなかったとしても、長時間話しをすることはなかった。


 人目が一番つかなくて、好き勝手喧嘩出来る場所というのが、この部屋だった。


 春夏秋冬、思えばいつでもここに思い出の欠片は散らばっていた。タイ焼きの食べ方でもめて、人格否定にまで発展し、キレて途中で帰ったこと。生徒指導の教員が、職権を濫用して女子生徒にセクハラ紛いのことをしているという話に、一緒になって憤慨した。珍しく泣いているところを目撃したら、好きだった漫画のキャラクターが死んだという展開に対する不満と嘆きを、一時間にも渡って聞かされた。勉強していると、答えを先に言われてドヤ顔をされた。千夏がムカついて、俺もイラつく。千夏が笑う。怪しい表情で、陰な笑顔で。ジュースが当たったくらいで喜ぶ。陰口が聞こえてきたことに凹み、不満をぶちまける。居眠りをしていた時なんかは、大人しくて美人だな、なんてトチ狂ったことを、俺は考えた。


「ほら、次は明大の番ですよ。もうへばったんですか? 心だけでなくて体の方も老化が著しいようですね。さっさと終わらせて、私に代わってくださいよ」


 旗バットを差し出されて、思い出の世界から帰ってきた。


 二十五歳になった水崎千夏は、まだ十八歳だった頃と、同じ笑顔をしていた。

 黒球は残り四球。お互いに残されたのは、後二打席。


 旗バットを受け取り、呪いの書の最新のページに、新たな文章を書き足し、黒球に入れ込んだ。


 旗バットを構え、呼吸を整える。


 いつかの卒業式、入ることが出来ずに研究会室の扉の前で佇む、自分自身の姿を幻視した。


「千夏を見つけなかった」


 黒球は浮かぶ。テイクバック。一本のネジのように真っ直ぐに、捻る。反動に身を委ねる。針の穴に通すように、真芯を当てる。


「真中明大の、バカヤロウ」


 完璧に捉えられ黒球は、勢いよく夜空に消えていった。今までの中で、一番うまく当てることが出来た。


「ほら、次だ」


 千夏は、無言で旗バットを受け取った。


 現代社会哲学に、何かを書き足している様子だったが、俺がいる場所からは、何を書いているのかは見えなかった。


 しっかりと様になってきたポーズで、旗バットを構えていた。


 千夏の顔が、一瞬強張る。


 憂いを帯びた、その表情。


「水崎千夏の、大バカモノ」


 黒球は飛ぶ。お互いにしかわからない思いを内包し、一瞬にして闇夜と同化し、溶けるように消えていった。


「千夏」


「納得は出来ませんし、おそらく一生残り続けていくんでしょうけど、とりあえずはこれでチャラにしましょう」


 こちらの顔は見ないで、拗ねたようにそっぽを向いていた。素直じゃねーと責める資格はないのだろうけど、これが水崎千夏らしさなんだ思えば、何もいう必要はないのだと思えた。


 黒球は残り二球。俺に残された最終打席。


 さて何を最後にぶちまけようかと考えたが、特定の誰かや社会に対する不満なんてものは、品切れ状態だった。呪いの書はまだまだ健在だが、どれもこれも最終打席に持ち込むには、相応しくないように思えた。


 俺は放り投げたブレザーのボタンを引き千切り、黒球にしまい込んだ。


 最終打席から見た光景は、懐かしい景色が広がっていた。友樹や正音、絵衣美に高階良子。凍矢先生は、今よりもう少しだけ化粧が薄かったような気がする。ヤンキー先輩やカフェラテ先輩、考えたくはないがアルコールジジイだって、当然学生時代があって、良いことも悪いことも経験し、一度きりの青春を自分なりに謳歌していたんだろう。今の生活は全然知らないが、千春は、日々どんな風に今を過ごしているんだろうか。今度機会があったら訊いてみようと思った。


 一瞬、千夏の方に視線を向け、気づかれないうちに窓の方へ向き直った。


 万感の思いを込めて叫び、渾身の力を持って旗バットを振り切った。


 ジャストミート。


 黒球の行方は知れないが、最高のスイングを持って、最高の当たり具合。それだけの事実で、もう充分だった。


「なんですか、そのセリフは。とても青臭いですね」


 千夏はクスクスと笑っていた。喧嘩腰でも、挑発が目的でもない、穏やかな笑顔だった。俺のセリフが、可笑しくってたまらないらしい。


「笑ってんじゃねえよ。さあ最終打席だ。キッチリと決めてくれよ」


 すっかり手に馴染んできた、旗バットを渡す。何を思ったのか、千夏も俺と同様にブレザーのボタンを外し、黒球に詰め込んだ。打者の構えをとり、大きく深呼吸していた。


 千夏は何を考えているのだろう。俺との思い出は大半が暴言のぶつけ合いだったが、俺の知らないところでは、きっと水崎千夏の別の面で青春があったのだろう。全く同じ景色なんて見る必要はない。


 俺は俺で、千夏は千夏。


 水崎千夏は叫ぶ。


 思いの丈を押し込めて。


 叫ぶ。


「青春の、バカヤロウ」


 千夏は、自ら青臭いと表現した言葉をもって。


 この日一番の、大きなホームランを決めたのだった。

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