2章ー5

 俺が当時水崎千夏について抱いていた感情を、どのように表現してよいのかは未だに判然としないのだが、少なくとも好きだとか嫌いだとか、ゼロかイチかみたいなものじゃない。好きであり嫌い。他の人のことは知らんけど、相手のことを何から何まで好きだなんて、そんな非現実的なことはないだろう。逆に全力で嫌い、相手のことが憎すぎて周りのものがすべて憎くて嫌いだ、なんてことも現実的でない。好きだからこそ嫌いな部分があり、嫌いなところがあるが、認めがたいが好ましいところがあるってのが、人の人に対する大抵の評価だと思う。


 ただ、ちょっとばかり特別ではあったのかもしれない。


 けれどあえて、あえて単純に表現しようとするなら、そう、好ましいところはもちろんあれども、千夏はちょっとばかり特別で。


 嫌いだ。


 千夏の艶やかで整った容姿が嫌いだ。艶のあるきめ細やかな髪質、肌、大きく可愛らしさを想起されるが、切れ長でシャープな瞳。しなやかで、健康的な肉感も損なわずに、真っ直ぐ歩く芯の通った姿。男女問わずに注目を集める、そんなカリスマ性が俺には眩しい。


 自分自身に持っていない華やかさ、生まれ出てからどうやっても埋まらない、絶望的な差異。より優れているものへの憧れや模倣から自らの能力を高めていく人種はいるのだろうが、容姿ばかりは努力と才能ですらも極められる限界はある。


 千夏の明晰で高次元な能力が嫌いだ。学習能力、身体能力、そんな分かりやすい括りで表現することは正確性を欠くかもしれないが、簡素に言ってしまえば、スペックは高い。運動系は実際に競う機会があまりなかったため、授業などの状況での判断にはなるが、オールラウンダーな活躍をしているようだ。


 それで、頭脳面に関しては、俺は二度と勝てたことがない。一度は勝てるが、二度と勝てない。


 学生らしく、健全にテストの点数で勝負をしたことがある。総合点での勝ち目はないと踏んで、卑怯を承知で勝負を二科目だけに絞り、その二教科以外を完全に捨て去り、最終日に行われたテストに全力を尽くした。結果、それ以外のテストは最早自分でも忘れたが、散々だったことは覚えている。勝負の対象の二教科では勝利出来たので、大手を振って煽りまくった。殺されるかと思うくらいにキレた千夏に、勝利の証明書だったテスト結果は、千夏自身のテスト結果もろとも、窓の外から投げ捨てられた。流石の俺も反省はしたけれども、ともかく勝ちは勝ちだった。


 それ以来、どれだけ勉学に励んでも、千夏にテストの点数で勝利したことは一度だってなかった。あまりにも悔しくて、一教科だけ絞って集中的に勉強しても、勝つことは出来なかった。俺が何日も費やし、体や心を擦り減らしても、どうしても超えられない壁がある。勝つことを目的にする無意味さ。能力の違いを思い知らされた。


 千夏の大人びていたようで、幼稚な臆病さが嫌いだ。使い古されたけれども便利な言葉、品行方正。老若男女に丁寧な物腰、誰もが心を許してしまう柔らかな声色を駆使したことで、千夏のことを悪く言う奴なんてほとんどいなかった。俺も含めたひねくれ者は、千夏のことを実は性格が悪いだとか、良い人すぎるところが気持ち悪いと、実に的を射た表現をしていたが、実際に千夏と関わると、一瞬にして掌がひっくり返る。あんな良い子見たことがない、と。


 どのような印象を抱こうが、まあその人その人の自由なので別に構わないけど、千夏の本性に実際触れている身としては、良い子という表現には大いに疑問だ。良い子仮面を被っているということは、自分の都合を押し殺し、相手の都合に合わせるということだ。社会的には必要な行為ではあるが、自身の鬱憤うっぷんを押し込めることになる。

 どこか発散場所があったのかは知らないが、学校における発散場所の一つは、俺なのだ。


 きっかけは、友樹が口八丁と根回しによって獲得した研究会室に、暇つぶしとして立ち寄った時だ。なぜあのタイミングに、偶然研究会室にいたのか、なぜ開けた窓から、生徒指導の教員に対する悪口を叫んでいたのか、詳細なんて一つも知らなかった。


 千夏が発露した悪意を偶然にも目撃したことで、普段注目されることのなかった俺だけど、時折謎の視線に晒された。あの頃の俺が水崎千夏について知っていたことなんて、限りなく完璧に近い女子生徒という噂だけで、話をしたことすらなかった。ストーキングのような行為をされることは当然良い気分ではなく、腹立って本人を引き止めて問いただした。数日間付きまとわれたことに文句をつけ、研究会室で見たことについては、誰にも話さないことを告げると、信用出来ないと言って逃げ出した。その後は、近づいてはこなかったけど、さらに数日間俺の動きは監視されていたようだった。


 ともあれ、俺は特にこの出来事を言いふらすつもりなど元々なかったので、時間が経過するにつれて、誤解が解けて監視はなくなった。


 それで、疑っていたことについては謝罪は貰ったが、以降は会ったら時折話をするようになり(もちろん長くは話さないけど)、気がついたら悪感情を吐き散らすような関係となっていた。


 俺もそうだが、千夏は、色々なことに苛立っていた。先生の授業がヘタクソだの、クラスメイトが彼氏とイチャついているエピソードを語り、ドヤ顏で彼氏を作った方が人生が楽しいと力説する姿をアホだのと。


 普段はお淑やかに、虫も殺さないような表情をしているのに、ちっぽけなことを気にしてごちゃごちゃと文句を言っていた。それを直接言わない行為は、社会的に正しい。ただ喧嘩をする勇気も、自分自身のイメージを崩させないための自己保身的な思考は、矮小で臆病だと思った。俺と似ているところが、特に腹が立つのだ。同族嫌悪。


 俺よりも能力があり、人に注目されるような華やかさもあり、その実は矮小で臆病な、ただの思春期をこじらせているような人間らしさが、本当に嫌いだ。


 嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いでたまらないからこそ、俺は千夏をバカにすることが、攻撃することが出来て、千夏からしても、俺のことはどれだけ捌け口にしてもいい人間として扱うことが出来たのだろう。


 喧嘩が、争いが成立するのは、殴ったら殴り返されるからだ。一方的な攻撃は、ただのいじめや蹂躙じゅうりんとしてカテゴライズされるべきで、そんなものはごめんだ。殴っても殴り返してくれるから、少しばかり強く殴ることが出来る。


 そんな関係が、俺と千夏のすべてだと、その時は思っていた。


 腐っても、捻くれていても、高校生の男女が少しずつ時間を重ねていったことで、ちょっとばかり関係も変化していくのは必然かもしれない。


 少し、思い出話をしよう。


 三年生になり、春夏秋は矢のように過ぎていき、就職活動を終えていた俺は、卒業を間近に控えた二月に、ふと研究会室に足を踏み入れた。そこには、千夏だけが佇んでいた。千夏と会ったのはおよそ一ヶ月ぶりだった。受験をする奴は勉強に本腰を入れていたし、自由登校も始まり、学校に来ること自体も減っていた。加えて、相手のプライベートについてはほとんど話題にしなかったから、千夏の卒業後の進路すら知らなかったので、受験か就職なのかすらも知らなかった。まあもともと口に出して何かを約束する間柄ではなかったから、卒業したら自然に会わなくなり、消滅していく関係なんだろうと、ぼんやりと思っていた。


 珍しいことに、千夏は俺に文句の一つも言わなかった。調子が狂ってしまう。悪意を介さない千夏とのコミュニケーションの取り方を、俺は知らない。


 千夏はぼんやりと窓の外を眺めていた。特定の物に視線を合わせているのではなく、ただ視線の置き場をなんでもない窓の外に置いているだけ、のように見えた。


 俺は備え付けられていた木製の椅子に腰をかけた。千夏も作業で使うような所々削り跡が目立つテーブルを挟み、向かいの椅子に腰をかけた。視線は相変わらず窓の方に向けられていて、ここではないどこかに、遠く遠いどこかを、見ようとしているようだった。


 沈黙が辺りを支配した。資料として置かれている古書特有の古いインクやカビた匂いを感じた。穏やかで心地よいはずなのに、どこか虚しく、寂しい雰囲気を感じるのは、冬の冷たさのせい、だろうか。


 ふいに、千夏の呟きが空気を震わせて、意味を持った音として、感覚器官で感知した。


「もうすぐ、卒業してしまいますが……少し、寂しいですね」


「意外だな。千夏はこういう時だと清々したって言うもんだと思ってたけどな」


「私だって、感傷に浸りたくなる時はありますよ。ロクでもない人とちっぽけなことばかりを喚き散らしていた日々でも、懐かしさを感じることはあるものです」


 好意的とも取れなくもないセリフに、俺は何も言えなくなった。


 千夏は相変わらず虚空を見つめているようだったが、何かを決心したのか、俺に向き直った。少し口元が歪んでいて、眉が少しばかりうねっている。困っているのか、珍しい表情だ。


 意を決したのか、千夏は言葉として放出した。


「ねえ明大、唐突なお願いで本当に申し訳ないのですが、ちょっとお金を貸して頂けませんか? たまたま今持ち合わせがなくて。少し大金なのですが、五千円ほど」


「はあ?」


 今までにないパターンに、戸惑う。千夏と金銭の絡むやりとりをしたことがないわけではないが、何かを俺が奢ったり、逆に奢られたりするようなことは一切なかった。むしろ金絡みでなあなあな姿勢を見せようとしたら、本気で説教してくるめんどくさい千夏が、金を貸してくれなんて、ましてや五千円という高校生にとっての大金を希望したことに、もしかしたらコイツは、千夏の皮を被った別人なんじゃないかとすら思えてきた。


「お嬢ちゃん、お名前はなんでしたっけ?」


 千夏の頬が反応する。少し怒りを感じたっぽい。


「水崎千夏ですよ。きちんと目玉がついてますか? それとも、脳がうまく作動してないんですかね? 前々から心配してしまいましたが、とうとうスクラップになりそうなんですね。私にとってはとても嬉しいニュースですよ。ぶっ壊れる前に私にお金を貸すという善行を積んでから往生して頂けないですかね」


 訂正。やっぱり水崎千夏で合ってたわ。


 意味がわからない、意味がわからないけれども、幸い最近入り用なこともなく、金銭的に余裕があったので、財布から五千円を取り出し、千夏に手渡した。


「ありがとうございます」


 ぎゅっと、五千円を胸に抱き、千夏は自分の財布にしまった。なんの用途に使うのかは知らないけれど、心なしか表情が明るくなったように思えた。


「返すのは、別にいつでもいいからな」


「わかりました。さて、少し長居をしてしまったので、そろそろ帰ります」


「ああ、じゃあな」


 ひらひらと手を振って送り出そうとしたが、千夏はその場を動こうとはしなかった。こちらをチラチラと伺っているようで、どうにも居心地が悪い。


「どうかしたのか?」


「いえ、せっかくですし……途中まで一緒に帰りませんか?」


 度肝を抜かれるという言葉を、生まれて初めて意識したように思う。一瞬、何を言われているのか認識出来なかったくらいだ。学校内に名を轟かせる有名人と、特に話題にもならない俺とでは、住む世界すら違うんじゃないかと思う。たまたまの縁で薄っすらと繋がった関係を、表に出さないことで保ってきたのだ。卒業が迫っているという感傷的な状況は、意外な行動を引き起こしてしまうものなんだろうか。


 驚きと困惑が駆け巡った。けれども、誘いを断る理由も、感情も見つからなかった。


 こうして、俺は千夏と途中まで一緒に下校した。ただそれだけのことではあったが。


 これが最初で最後の、友好的な思い出だ。







 眠気などなかった。気になることが、考えることが多すぎて、睡魔に意識を空け渡す余裕なんてなかった。


 これほどまでに、水崎千夏のことが気にかかったことはなかった。思考を整理する。自分でもわからない感情を、推し量ろうとしたがどうにも納得のいく結論は見つからない。


 悪意以外の感情をもって、言葉で殴り合うような関係を経て、形成されていたものがわからなくなった。


 もしものことをついつい考えてしまう。俺と千夏の、これからの可能性について意識してしまった。恥ずかしくて、ベッドに顔を埋めて叫び出したい衝動に駆られた。

 そんな想像をしてしまう自分を恥じた。右手で顔面を殴った。思いのほか衝撃が強くてむかついた。


 不意に、漠然とした不安がよぎった。もし千夏となんらかの未来を繋ぐ可能性があるとして、俺は果たして耐えられるのだろうか。


 自分自身よりも、何もかも上回るものと関係していかなければならない。そんなこれからに、冷静でいられるのだろうか。わからないものは怖い。ちっぽけで、めんどくさいことは自覚している。だからこそ、自分のことについて自信が持てない。


 身の丈に合わない物を身に付けることが、果たして幸せなんだろうか。金銭を工面出来ない奴が、高級マンションに居を構えたとしても、果たして住み続けられるのだろうか。


 好きなものを嫌いになることが悲しい、という心理はなんとなく理解出来る。好きなもののパラメーターを100と例えよう。何かのきっかけで嫌いになってしまって、パラメーターは−100へと変化した場合、単純に200もの落差が生まれる。現実をわかりやすく数字で表現するなんて、厳密には不可能だろうけど、なんとなしに理解は出来る。


 ただ、俺が悩んでいること、それは全く逆のことだ。


 悶々とした衝動にこねくり回され、普段使わない脳細胞を稼働し続けた結果、やっと思い至った感情の正体。嫌いだったものが、変わっていく感覚。


 稀有な悩みと、うんざりするような性格を持ってしまったことは、もうどうすることも出来ない。そうなっちまったもんは仕方がない。


 では解決策は、と前向きに考えようとしても、なんら妙案は思いつかなかった。


 眠れない夜を重ねて、自己弁護と自己嫌悪を繰り返し、それでも尚答えが出なかった臆病者に訪れた顛末。タイムアタックかくれんぼなんて名前を付けた懐かしい遊びの、ドラマにもならない結末めいたものの一部始終。


 それが俺の。


 後悔。

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