4章ー7
「緑茶か紅茶かコーヒー、どれがいい?」
「麦茶で」
「選択肢は守れよ」
まあ夏場だからあるけどさ。
絵衣美を部屋に招き入れ、二人分の麦茶をガラスコップに注ぎ、手渡した。上品なことに両手でコップを持ち、ゆっくりと喉に流し込んでいた。ドレス姿だと、本当に異国の姫君のような佇まいであるはずなのに、麦茶との親和性は低い。率直に言うと噛み合ってない。まだ紅茶とかコーヒーを飲んでいた方が様になるだろうけど。
「訊きたいことは山ほどあるんだが、今日はどうした?」
もともと会う約束はしていなかったし、絵衣美の意図は全く理解できていない。まずは話を聞いてみないことには始まらない。
「鏡先輩から連絡がきたんですよ。驚きましたよ、鏡先輩は仕事でこの街を出て行っちゃうんですね。それで明大先輩が心配だから、力になって欲しいと言われまして、こうして参上したわけです」
いえい、と右手でピースサイン。中二病は卒業して、あの頃のことを黒歴史だとのたまう割には、案外ノリノリになっている。
「正音の差し金か。ほんっとあいつも心配症だな。で、理由はわかったんだが、なんでその格好してるんだ?」
早々に確信部分を言及した。ふと思い出したことは、絵衣美がこの格好をしているのは、当然今回が初めてではなかったけど、決まって学校外にいる時だけだった。妄想に囚われていた現役時代ですら、流石に校内では学生の本分からは外れてはいなかった。ただ言動は、今よりも随分とエキセントリックだったけれど。
「もちろん、先輩の力になってあげるためです」
勝ち誇るように、それで全てを説明できたと達成感に満ち溢れている表情で、絵衣美は言い放った。白けた空気を発しているのだが、全然気づいてはくれなさそうだ。ふと感じたのは、おそらくラベンダーの芳香。
「で?」
「まだ何かありますか?」
「ないわけないだろ」
「元気は出ましたか?」
「逆に訊きたい。なんでその懐かしい姿を見るだけで元気になれると思うんだ?」
「あの頃の先輩が、なんだか楽しそうだったからです」
丸めたティッシュで、頭を殴られたような、優しい衝撃が走り抜けた。放課後、たまに絵衣美と冒険に出掛けることもあったことを思い出した。金髪のカツラを被り、名前もよくわからないド派手なドレスに着飾り、見えない敵というか無くしてしまった記憶というか、絵衣美の心の中にしかないような、形にはないようなものを探し回ることに付き合ったことも、あった。冒険といっても、ほぼ散歩だとか散策と表現しても差し支えないものだったが、絵衣美の言うように、楽しかったという記憶もあるんだ。
バカみたいだとか、アホらしいなと毒づきながらも、結果的にはありもしなかった非日常を求める日々は、それはそれとして思い出に残っているのだ。
絵衣美の言っていることなんて信用に値しない。そう思いながらも、偶然でも運命でも神様の悪戯でも悪魔の仕業でもなんでもいい、現実から目をそらす非現実に想いを募らせていたんだ。
ここ最近、千夏のことだけじゃなくて、色々なことを思い返してきたように思う。友樹が抱いていた思い、積み重ねた結果の今。正音との決着、別れ。ヤンキー先輩やカフェラテ先輩の後悔。アルコールジジイのどうしようもない人生。凍矢先生の厳しさと優しさ。千春との再会。千夏に対する後悔と。そして、今は神川絵衣美についてだ。
様々な想い、経験、思考、思い出、思想、青春、そして後悔。なんだかたくさんのことを、教えてもらってばかりだ。良いことばかりではない世の中に生きていて、どうしようもなく不自由なルールに囚われている現状。苛立って、ムカついて、悪意も向けるし毒も撒き散らす。大海を前に棘だけを投げ捨てているような俺だけど、確かに、楽しかったんだ。
「……そうか。うん、確かに、楽しかった。ありがとな。黒歴史だと喚き散らすくらいに恥ずかしくて、俺だったら人前に出ることなんて耐えられないくらいの自己顕示欲にまみれた服までわざわざ着用してくれて、感謝の言葉も見当たらねえや」
「感謝の言葉なんていいですよ。そしてここまでしたのに悪意で返してくるのは、もっとノーサンキューです。改めてそんな言い方をされると、自分がどれだけの恥を晒しているのかと、不安で不安でたまらなくなるじゃないですか」
絵衣美は唇を噛み締めて、口内を蠢かせていた。わずかに頬に刺す赤みは、熱量のせいもあるんだろうけど、羞恥の感情に気付いてしまったせいなのかもしれない。
今なら、今なら聞ける気がする。前に絵衣美が詳しく語らなかった、絵衣美自身の今までについて、今になって聞いてみたいと、思った。
「なあ絵衣美。答えたくなかったら別にいいんだが。どうして、お前は夢から覚めたんだ?」
「夢を見ていることが、だんだんうまく出来なくなってきたから、ですよ」
絵衣美は沈黙どころか、悩む素ぶりすらも見せずに言った。淡々と、しかし感情の乗っていない、自動音声のようなどこか無機質な声色だった。
一瞬、何かを振り払うように頭を上下に振り、絵衣美は視線をこちらに向けた。
「高校に入学した頃は、それはもうワクワクとドキドキでお腹いっぱいになってましたね。きっと快感物質とかで脳がバンバンに満たされていて、それはもう空でも飛べるような気でいたものですよ。私は、常日頃から考えていた空想を現実で表現しました。それであの日、明大先輩と初めて出会ったあの日のことです。エイミー・マリオネットなんて名前をつけて、こんな格好をしたのは、実はあの日が初めてだったんですよ」
懐かしむように目を伏せ、思い出の余韻を味わっているようだった。常習的に変身願望を満たしていたわけではなく、中学生から高校生へと立場が変化したことで、気持ちが相当昂った故の行動だったらしい。
「それで、そんな私に先輩が言ったことは、覚えてますか?」
「何バカなこと言ってるんだ、だな」
今まで出会ったことのない人種だったということもあるが、空想に埋没している姿を滑稽に思ったことは事実だった。見た目は綺麗だがよくわからん痛い奴がいる。そんな印象だった。
「そう、それです。ものすごく傷ついて思わずつっかかってしまったのは、ちょっとすいませんでした。でも私からすれば、願望を実現させた記念すべき日に、出鼻をぽっきりと折られたんですよ。怒りたくもなる気持ちだけはわかってください」
「まあ、気持ちだけはわかるが、理解は出来ない。それは今でも変わらない。それでさ、その日をきっかけに、ことあるごとにちょっかいかけてきやがったな」
「なんとしてでも認めさせてやる。そんな一心でしたからね。その度に迎撃しかされてないですけど。でもなんだかんだいって私のわがままに付き合ってくれて、困ってたら罵倒しながらも助けてくれましたよね。これでも、感謝はしているんですよ」
学校内でも、屋外でも、見かけたら突撃してきた、猪突猛進な絵衣美の姿を思い出し、懐かしさに満たされた。アホらしいきっかけでも、一つ一つの邂逅が形をなして、こうして縁となって繋がっていったことを、少しだけ嬉しく思った。
絵衣美は続けた。
「ちなみに、クラスで迫害を受けていたとか、そういったことは特になかった、と思います。私は中途半端でしたから、多少の距離を感じることは多々ありましたけど、必要以上に自ら空想を振りまくことをしなかったことが、功を奏したのかもしれません。なんせ、好きなだけ妄想を押し付けられる存在が身近にいましたからね」
ニッと笑みを浮かべる姿は、様になりすぎているので、ちょっとやめて欲しかった。水崎千夏に対しては遠慮なく無粋さを投げつけられるのに、神川絵衣美に対しては、珍しく感情が邪魔をする部分があることは、否定出来ない。その違いに関する感情の名前を、俺は知らない。年上や同い年の人間よりも、年下の奴と接することは、俺自身苦手なのかもしれない。兄弟がいないということも、少なからず影響しているのかもしれないが。
まあ本人には絶対に言わないが、きゃんきゃんと小うるさい子犬のようなじゃれつき方に、好意めいた気持ちと表現できるものは、ないとは言い切れない。絶対に本人には言わないけど。
「でも、明大先輩が卒業してから、私の情熱がどんどんと冷めていくのを感じました。架空の姉妹に対する憎しみの、根拠もなくあるんだって信じて疑わない超常的な力も、飛べると信じて疑わなかった幻の翼も、次第に思い描けなくなりました。明大先輩にはお仕事があったので、私が先輩の時間を独占してしまうことはよくないなと思いました。そしたら、どんどん日常がつまらなくなってきて、何もやる気が起きなくなりました。もう一人の自分を見失ったみたいでした。一応大学は受験したんですけど落ちちゃいましてね。なんとか高校は卒業することは出来たんですけど、心は空虚のままでした。親にはもっといい大学を目指すなんて言いながら、ネジの切れた自動人形のように暮らしていました」
「そうか。俺を頼れ、なんてかっこいいことでも言えばいいんだろうけど、そんなことを言う気にはならないな。意地っ張りなお前だからこそ、きっと俺に頼る意外の方法を考えたんだろうしな」
「ええ、その通りです。私の問題を、明大先輩に押し付けたくなかった。もっと言えば、明大先輩のせいになんてしたくなかったんです。明大先輩がいたから私がダメになっただなんて、勝手に気持ちを燃やし尽くした私が言うには、いくらなんでも勝手すぎるでしょう」
絵衣美が越えようとしなかった、最後の一線。俺に頼ること、か。もしかしたら世の中によくいる、主人公を自称するような輩には、その一線に踏み入って、カッコ良く解決する奴だっているのかもしれない。そんなことをできる奴のことが、はっきり言うと羨ましいが、そうしたいとは思わない。俺が正しいとも、自称主人公たちが正しいとも、思わない。
「まあその後どうなったかと言いますと、時間に身を任せました。三度目の受験も不合格に終わり、法的には大人の仲間入りをする二十歳になったという時間軸を超えて、ウダウダした日々を終わらせました。大きな出来事はなく、人生を変えるような展開もなく、異世界に転生されることもなく、終わりにしようと決めました。特別な人間にはなれなかったですけど、今までありがとうとお礼だけ言って、エイミーの衣装は仕舞いました。面白くもなんともないでしょうけど、これが私の青春のピリオドでして、とりあえず今を生きる私のお話でした」
おしまい、と締めくくられた、なんの起上もドラマもない物語。喜怒哀楽も驚天動地も阿鼻叫喚も何もない。それでも、絵衣美が自分で悩み、自分で考え、自分で出した青春のエピローグだった。面白くないことなんかねえよ。なんだか、凍矢先生の言っていることが、少しだけわかった気がした。
「一つだけ、訊いてもいいか?」
「はい、なんですか?」
瞬間、躊躇いを感じた。
「……今までのことを、後悔したり、してないのか?」
絵衣美は、わずかに小首を傾げる仕草を見せた。俺自身、色んな人に対してこの質問をしていることは、自覚している。そんなことをしている理由なんて、馬鹿げているほどにわかっている。
俺は、後悔していることが他人にもあるんだと知って、安心したいだけなんだ。誰にでもあることだと、この後悔を普遍化してしまい、日常に溶かしてしまいたかったんだ。
でも今は、わずかながら変化しているように思う。自己防衛の意識は今でも変わらないが、少しずつ、少しずつではあるが、この後悔を肯定していきたい。後悔の意識を飲み込んで、今からの道のりを進んでいけるように、したいんだ。
だから、教えて欲しい。
絵衣美は、意外にも淀みなく、自身の言葉で、教えてくれた。
「もちろん後悔してますよ。めちゃくちゃしてますし恥ずかしくて今すぐにでもお風呂とかで叫び回りたいです。まあ実際たまに耐えられなくなって自室で引きこもったりもしちゃいますけど、それでも、そんな目を背けたくなるような思い出があるから、今の自分がいるのです。だから、後悔していても別にいいんですよ」
内在し、視認できない微量な重みが、心を縛る幻の鎖が消失し、わずかながら軽くなる気配があった。今までみていた世界が、少しだけ曇りなく見えている気になった。
俺は友達、知り合い、恩人、気にくわないアルコールジジイのことについても、考えた。千差万別の人生を想像した。どれもこれも個性的な色に染まっていて、どことなく暗い影も鮮やかな色彩もあった。納得いこうがいくまいが、思い通りにならないことを、きっとみんな、折り合いをつけながら生きているんだ。
だからきっと、これからもみんな。
大丈夫だ。
「月並みな言葉かもしれないけど、心が軽くなった気がしたよ。千夏との件も、なんとかなりそうな予感すらしてきたぜ」
「そう言ってもらえると、わざわざエイミーとしてやってきた甲斐はありますけど、でもまだこれで終わりじゃないんですよ。この格好をしているからこそ雰囲気を出せる、私流の励まし方というものをご覧いれましょう」
「まだなにかしてくれんのか? ロリータファッションで出来る励まし方ってなんだよ。エッチなこと?」
「違いますよばーか。お死ねください」
うるせえ。
妖精も住み着くくらいにいい空気だったはずが、一気に弛緩した。お死ねくださいってなんだよ。ハイセンスすぎる日本語使いだな。
「まったくもう。まったくまったくまったくもうですよ。せっかくのいい雰囲気が台無しじゃないですか。まあいいです。不本意ですけど、それでこそ明大先輩って気がします。コホン。気を取り直して。何かの本で読んだのですが、重要なのは儀式と祈り、です」
「儀式と、祈り」
絵衣美の言葉を、
「そうです。儀式っていうならば冠婚葬祭ってありますよね。でも私が言いたいのはそういうことではなく、何かを行う時に、成功させるためのルーティンとかあるじゃないですか。ボールを蹴る前に、手を組んだり決まった行動をしてゴールに叩き込むとか。こうすれば大丈夫だって意識付けをして不安を少しでも解消しましょう。儀式なんて大層なものではなく、おまじないって言ってもいいかもしれないですね。そこで、明大先輩が千夏先輩と上手くいくように、儀式をしましょう。明大先輩の祈りを、現実のものとしましょう」
わかるようなわからんような説明に、思わず苦笑した。しかし、俺にはない発想を提示されて、感心すらしていた。絵衣美がおそらく一生懸命考えてくれたことだろうし、乗っかることもやぶさかではなかった。
「何をすればいいかわからんけど、せっかくだし、お願いするかな」
「そうこなくっちゃですよ。早速始めましょう。両手を組んで、私の前にかざしてください」
言われた通りに、両指を交互に絡めて、絵衣美の目の前にかざす。まるで、聖母像に祈りを捧げるようなポーズになっており、宗教のことはわからないながらも、厳かな心情に移り変わっていった。
絵衣美は、慈愛に満ちた柔らかな瞳で俺を一瞥すると、両手を俺の手に重ねた。絵衣美の体温が直に伝わってきて、流れる血潮の脈動まで感じられた。二人の体が近づいたことによって、ラベンダーの香りをより強く感じた。絵衣美が瞳を閉じて、自然と俺の瞳も閉じられた。鼓動と、体温。そして普段は気づくことのない息遣いまで感じ取れた。目には見えない優しさを内包した膜に包まれているかのような、そんな絶対的な安心感を感じた。二度と体験することのない、母親の胎内というのはそんな素敵なところなんだろうか。視覚は閉じられているはずなのに、瞳の裏には、祈る絵衣美の姿が映っていた。古代神殿の壁画に描かれていて不思議でないくらいの神聖な空気を感じたと思えば、瞳の中の絵衣美は。
力強く羽ばたく、両翼に護られていた。
聖なる力を宿す真っ白な翼、闇の力を司る暗黒の翼。相反する力を持つ対称的な概念が、作用も理りも超えて、圧倒的に同化している。そんな気がした。
「そなたに、光の加護を授けましょう。暗く沈みゆく黄昏を照らし、迷いなく道を進んでいけるように」
絵衣美は言う。凛とした清らかな音色で、言う。
「そなたに、闇の防壁を授けましょう。目を眩ませるような輝きに、決して溶かされてしまわぬように」
絵衣美は言う。響くような力強い旋律で、言う。
「そなたに、青き春の祝福あれ」
光が弾け、闇が霧散する。体が浮き上がったような浮遊感に包まれ、世界が途端に収縮した。色々な出会いや経験が、雪崩のように押し寄せる。掴み取ることが出来たのは、絵衣美との思い出。
春になり、世界が桜色に踊らされている中、子供のように眠っている。目が覚めて視線が交わった瞬間、とても美しいものを見つけたような気がした。夏になると、暑そうに額の汗を拭っている。リアルに押し寄せる業火に身を焦がしながらも、瞳の輝きは失われていなかった。秋の夕暮れ、暁の空を見つめている。どこかに飛んでいくんじゃないかと思いながら、焼け行く季節を見送った。冬の寒さに打ちひしがれ、長めのマフラーをもこもこになるまで巻きつける。音もなく降り注ぐ雪を眺めながら、何かを思い、祈りを捧げる。どれもこれも、後悔に苛まれることもない、大切な思い出。
髪が伸びた。芝居掛かった口調も辞めた。服装も普通になった。それでもこいつは、今の神川絵衣美。
遥か上空へと舞い上がり、とても小さくなった、俺たちの街を眺める。
絵衣美の翼はもう見えなくなっていたけれど。
等身大の、笑顔を浮かべていた。
「明大先輩は、大丈夫ですよ」
すべてのイメージが燃え上がり、意識が現実に帰ってきた。
目を開ける。変わり映えのしない自室が徐々に見えてくる。手を離し、少し恥ずかしそうにはにかんでいる絵衣美は、イメージ通りに。
いい笑顔だった。
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