07. 互いの温度
冷静さを取り戻した優路がまず実行したのは、早足でその場を去ることだった。
当事者二人は周りの目を気にする余裕がなかった。しかし、端から見れば抱き合って涙を流す、おかしなカップルの図である。
西山は誤って車道へ歩き出そうとしていた。その瞬間を目撃していた数人の通行人が、心配から声をかけてきた。
我に返り、涙を拭いながら優路は周りを確認した。近くにはいくつかの気遣わしげな視線がある。その向こうで、奇異の目で二人を見る雑踏が徐々に増えていく。
途端に恥ずかしさが込み上げた。
状況を案じていた親切な方々に短く礼を伝え、逃げるように歩き出す。
西山の手を握って。
優路は進む。
家に戻ってきた優路は、心身ともに疲れていた。
玄関で靴を脱ぐために繋いでいた手を解こうとする。
「嫌だ。離したくない」
西山は感情を隠さず表に出した。
「分かりました」
優路もはっきりと言葉で伝える。
二人は片手だけで靴を脱いだ。解けないように、互いの指先に力が込もる。
フローリングであるリビングよりも、優路は畳の和室を選んだ。手を繋いだまま、仰向けに体を転がす。遅れて西山も続くように横になった。思い出したように全身を襲う疲労感に身を預け、深く呼吸を繰り返す。
しばらく二人は天井を眺めていた。
西山はぼんやりと息を吐く。
「……こんな部屋あったんだ」
「そうか。先輩は入ったことなかったですね」
なんでもないやり取りを交わし、途切れる。沈黙がより顕著になる。
居心地の悪さが会話を始めるきっかけになった。
「また、助けてもらっちゃったね」
「あんまり美化しないでください。ただでさえ俺は酷いことを言ったのに」
「そうだったね。……どうして、追いかけて来てくれたの?」
「先輩が好きだからです」
「え」
臆すことなく優路は口にした。さらにはっきりと言葉を重ねる。
「西山美聡のことが、好きだからです」
「……もしかして、私本当は死んでる?」
「冗談言ってると引っ叩きますよ」
「それで現実かどうか確認できるなら安いかも」
「手、離しちゃおうかな」
「調子に乗りましたごめんなさい」
二人は同時に笑った。
西山は深呼吸をして本題に戻る。冷静に、あるいは懐疑的に。
「私は、簡単にはその言葉を信じられない。……どうして? 君の中で何があったの? 私は怒鳴られた段階で、完全に拒絶されたんだとばかり思ってた」
順序を考えれば浮かんで当然の疑問だった。
優路は少し躊躇いながらも語り始める。
「俺は家族のために頑張ってきたんです。それが最優先だった。それで精一杯だった。家事を担当することは、俺にとって重要な役割だったんです」
心を整理しながら、逃げずに自分自身と向かい合う。
「今朝のことは……寝坊で焦ってたし、気が動転して正しい判断ができてなかった。普段だったら自分がしているはずのことを先輩がしてて、自分の役割を奪われたと思ってしまって。それが、凄く怖かったんです。家族の役に立てなくなることが、何より恐ろしかったから」
「……そっか」
不意に、西山は気を緩めるように溜め息を吐いた。
「君も完璧ってわけじゃないんだね」
「先輩には俺がどんな風に見えてたんですか?」
「歳下なのに考え方がしっかりしてて、頼りになる男の子、かな」
「過大評価ですよ」
「かもしれないね。……私も、君も、自分が思ってたほど強くなかったんだ」
呟きは実感を伴い、互いの心情を深く表していた。
「それで、来てくれた理由は?」
「あの後、姉さんが忘れ物を取りに戻ってきて。事情を聞かれて、答えて。そしたら言われたんです。気を遣ってないで、自分のために生きていいんだって」
「…………」
西山にも感じ入る部分があったようだ。黙ってそれを噛み締めていた。
「多分、心のどこかで思ってたんです。誰かを支えるのは大変なことで、気軽に引き受けられることじゃない。だから、今の俺は誰かと付き合うなんてまだ早いんだって。……そんな俺を後押ししてくれた。気持ちを自覚できたのは、素直になれたのは、姉さんのお陰なんです」
「……優しくて、立派なお姉さんなんだね」
「自慢の姉ですから」
優路の口から本音が滑る。
「秘密にしてくださいよ? 本人が知ったらきっと調子に乗るので」
「ふふっ。分かった」
「先輩」
「何?」
「好きです」
優路は初めて、天井から目線を横に向けた。
それに気づいた西山も、応えるように頭を傾ける。
「先輩の気持ちを聞かせてください」
「私の、気持ち……」
悩ましげな西山は、再び天井を仰いだ。
「正直に言うと、私は多分、思い込ませようとしてたの。
自分は岩崎優路という男の子が好きなんだって。
空っぽだったから、分かりやすいものが欲しかった。
誰に言われたからでもない、私だけの理由が必要だった。
漫画で読んだ主人公やヒロインみたいに、大切に思える何かを作りたかった。
だから私は、君のことを好きになろうとした。
その方が私には都合が良かったから。
でも、それは昨日、拒まれてしまった。
最初はただただ悲しかった。
だけど、後になって気づいたの。
私は、恋愛をしてるっていうポーズを取っていただけなんだって。
優しく接してくれたから……それだけの簡単な理由で相手を決めようとしてた。
こんな私のままじゃ、あの時に君が受け入れてくれてたとしても、長続きはしなかったんだと思う。
もしかしたら、そういう不安定なところを君に見透かされてたのかなって。
そう考えたら、納得できたの。
君だけは期待も誤解もせずに、等身大の私と向き合ってくれてた。
それがなんだか心地良くて、下手に好意を寄せられるよりも嬉しかったかもしれない。
だから、私も精一杯、君と向き合いたいって思った。
欲しがるだけじゃなくて、君の負担にならないように、自分にできることをしたかった。
今朝のは……余計なお節介になっちゃったけどね。
役に立つためにしたことが裏目に出て、堪えられずに家を飛び出して。
それでようやく知ったの。
こんなにも悲しくて申し訳ない気持ちになるのは、君のことをちゃんと好きになれてたからなんだって。
初めて自覚できたのに、それはもう遅くて、私は君を怒らせてしまった。
同時に色んなことを思い出して、頭がぐちゃぐちゃになって。
凄く辛くて、苦しくて。
でも。
それでも君は来てくれた。
抱きしめられた時に、痛いほど伝わってきたの。
理解したの。
私だけが、傷づいていたわけじゃなかったんだね」
見守るように眺めていた優路の目を、西山が確認するように覗く。
「そうでしょ?」
「まあ……そうですね」
視線が重なるだけで、体が緊張して熱くなる。昨日までとは違い、今の優路は西山を異性として意識している。
「照れてるんだ。可愛い」
「ほっといてください」
恥ずかしさで顔を背けた。西山はおかしそうに笑う。
「改めてお礼を言わせて。……私を、助けてくれてありがとう。君に会えて良かった」
言葉に込められているのは、先程の件に対するものだけではない。
夜の公園で出会ってから今までを、すべて含んでいた。
おもむろに、西山は上半身を起こす。繋いでいた手が解ける。
腕を上に突き上げて大きく伸びをした。
「ずっと空っぽだと思ってたけど、私にもようやく……少なくとも一つだけ、見つけたものがあるんだ」
追いかけるように優路も起き上がる。
「見つけたもの?」
「――これからもずっと、君の傍にいたい」
綺麗な瞳だった。
熱に浮かされるわけでもない。不安定に揺らいでいるわけでもない。
純粋な好意が優路に向けられる。圧倒されて、声を失った。
「私は何も、分からない未来の話をしてるんじゃないよ?」
無言を、気持ちが疑われているからだと捉えた西山は、さらに言葉を重ねる。
「散々迷って、何度も悩んだ。そんな私だからこそ、これだけは何よりも確かだって解る」
優路の手を取って。
西山は息を吸い込んで。
示す。
「君と一緒にいたい、そう思ってる今この瞬間の私の気持ちに、嘘なんてないの」
互いの目に、互いの姿だけが映り込む。
そこにあるのは見たことのない表情だった。自信に溢れた本来の西山の姿だった。
女は卑怯だ。優路は甚く思わされる。女性というものは皆そうなのだろうか。一度心に決めてしまうと、貫き通すことができるようになるのか。
それとも単純に、優路の想いが足りないだけなのか。
少しの強がりを込めて、試すように問いかける。
「信じて、いいんですか?」
「これだけ言わせて、まだ不安?」
痛烈なカウンターを貰った。
西山はまるで挑発するように微笑む。今までにないほどの強気な姿勢を保っている。それだけ、自身の感情を疑っていないということだ。
逃げ場がない。しかし、そもそも逃げる必要がないことを優路は思い出す。
西山の想いを、正面から受け止める。家に迎え入れた日の危うさは見る影もない。
そのことが、自分のことのように喜ばしく感じられた。
一人の存在が心に大きく根づいている。疑う余地など一切なかった。
何より、気持ちを先に伝えたのは優路なのだ。堂々と思うことを伝えればいい。
「不安はないけど、不満ならある」
「何?」
「名前があるんだから、君じゃなくて、優路って――美聡には呼んで欲しい」
優路は今、自分がどんな表情をしているのか分からない。にやけた顔をしているだろうか。だらしのない顔をしているだろうか。
せめて目だけは逸らすまいと、真っ直ぐに西山を見つめる。
心底おかしそうに、その表情が綻んだ。
「生意気な後輩だなあ。――優路は」
言葉とは裏腹に、声の調子が跳ねた。優路の声も似たようなものだろう。
「だったらいつか、頼れるところを見せてよ。美聡」
「そのうちに、ね。でも今は、もう少しだけ……」
西山の瞳が艶やかに光る。誘われるように、優路はゆっくりと髪に触れ、撫でる。
心地良さそうに目を細めるも、それだけでは物足りないようだった。
委ねるように、西山はそっと目を閉じる。
優路は背に腕を回した。
吐息と。唇と。
心が触れ合う。
互いの温度を確かめる。
間近に咲く満ち足りた笑顔は、ただただ綺麗で、美しかった。
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