06. 二人の距離
家を飛び出していった西山を追いかけて、優路は住宅街を駆け抜ける。
道路の人影を確認して、可能性を一つ一つ潰していく。
逸る気持ちを堪えながら。決して見逃さないように。
名前を大声で呼ぶという簡単な方法さえ忘れて、それらしい姿を懸命に探す。
たった一人の女の子がために、これほど余裕を失ったことはなかった。
今までは無意識に、異性に対して向ける目を抑えてきた。家族を支えることで手一杯である優路には、人一人を抱えるには荷が重い。そう考えていた。縁遠い話だと決めつけてきた。
それを。
犠牲にしてきた当の本人が、突き進めと背中を押すのだ。
感情の整理は完全ではない。
どの道を辿れば効率良く探すことができるのか、正確な判断を下せない。
それでも。ただ一つだけ、定まったものがある。
――人を頼ることは、悪いことじゃないんですよ。
その言葉は、誰が誰のために告げたものかを思い出した。
心に灯る願いが優路の足を動かす。今すぐにでも、西山に会いたかった。
謝りたいことがあった。
伝えたいことがあった。
時間だけが、過ぎていく。
かくして。
切りつける冬の寒さを堪えて。
息も絶え絶えの体に無理を強いて。
交差点の手前で揺れる、それらしい少女の影が遠目に見えた。
西山の背中を確認できたことで、優路は安心しかかっていた。
しかし、気の緩みは一瞬で吹き飛ぶ。
視界に入る光景とその状況から、頭の中で意味を組み立てる。
大通りの交差点。車が駆け抜ける。信号機。止まらない背中。点滅する青。交通量。横断を躊躇う通行人。背中は止まらない。車道の手前。
結末。その可能性。
理性的な楽観と、警鐘を鳴らす直感が入り混じる。
懸念に押されるように心臓が急げと体を叩く――その瞬間。
優路は今一度、全速力で駆け出した。
遠くを行く覚束ない足取りは、逃げ場を求めるように前へ向かう。
止まりはせず、ゆっくりと。
信号が赤に切り替わる。
それが何を意味するのか、幼稚園児でも知っている。誰もが意識するまでもなく理解している。当たり前のことだ。身近なルールとして幼い頃から知っているせいで、目の前を走り抜けていくそれがどれだけ危険であるのか、忘れてしまうほどの日常風景。
僅かな時差を挟み、信号に従って車が緩やかに発進する。後を追う数が増えるだけ、その速度は上がっていく。
西山はまだ歩いている。足を動かし続けている。
横断歩道までの距離を、優路の位置からでは正確に測りきれない。
頭の中の常識が、ありえないと告げている。いつであっても、どこであっても、誰であっても判断に違いはない。起こるはずがないと理性が訴えている。
過去にできていたことが、今日に限ってできないわけがない。だから、最悪の事態には陥らないはずであると。何度も心に言い聞かせる。
なのに優路は不安を殺せない。
迫り来る恐怖に耐えて、前へ前へと足を伸ばす。
冬の寒さに鼓動の音、地面を蹴る感触。そのすべてが頭から外れた。
万が一のために。自身の安心を得るためだけに優路は走った。
西山の足が前へ出る。少しずつ、横断歩道に近づく。
残り数歩で歩道を越える。
車道へと爪先が上がる。
そのたった一歩が、あるいは訪れたかもしれない未来の可能性だった。
大通りを走る車の音が断続的に通過していく。
呼吸は荒く、心臓の鼓動が全身に響いている。大袈裟と思えるほど、優路は肩で息をしていた。左手を膝に当て、前傾姿勢のまま目線が上がらない。今すぐにでも地面に横たわり、心身を落ち着かせたいという欲求が襲う。
それでも力を抜くことはしない。
優路は自らの手の平が捉えた感触を確かめるように、堅く、握る。
反応のない西山の口から掠れた息が漏れた。
「私、今――」
その言葉の先を走行音が遮った。大型のバスが目前を走り抜ける。
優路が掴んでいる冷たい指先が微かに強張った。
西山がゆっくりと振り返る。
濡れた目許は未だ乾いておらず、瞳は不安を湛えている。血の気のない相貌は白く、表情が淡い。まるで魂が抜けてしまったかのように、感情の起伏が見られない。顔を向かい合わせていても、西山の焦点は定まっていなかった。
現実味が欠けている。手を繋いでいるにも関わらず、その実感が薄い。
堪らず、優路は西山を抱き寄せた。
離れてしまわないように。どこかへ消えてしまわないように。
「私、今、何しようとしてた?」
西山はどこか他人事のように呟く。
一分と経たない自分自身の出来事を確認しようとする。
返答さえ忘れて優路は抱き締め続けた。心臓は未だに激しく鼓動を打っている。
「ねえ、私、生きてる?」
言葉が感情を帯びる。生命に関わる恐怖が訪れていた事実と、無事であるという安堵で声は嗄れていた。体が感覚を取り戻そうとしている。優路の肩口に湿った感触と、小さな嗚咽があった。
西山は拠り所を求め、優路の腰に腕を回す。
控えめに。けれどしっかりと。
その様が切なくて。
愛おしくて。
優路はきつく体を密着させた。
強く。
強く。
まるで痛みを分かち合うように。
生きている命が、当たり前のようにそこにある。
ただそれだけが嬉しくて、優路は我慢できずに涙を流す。
「……生きてる。生きてるよ」
一音一音を噛み締めながら、自分のことのように言い聞かせる。
涙の温かさが、止まらない泣き声が、命の存在を謳っていた。
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