四章 人それぞれが誰かのために

01. 岩崎遥佳の根拠

 二人をデートに送り出した後、遥佳は慣れないことをして疲れていた。

 初めに、洗濯物を取り込んだ。

 自分の衣類はどうとでもなる。弟と母の服は畳んで各部屋に置いておいた。最後まで分からなかったのは、使わない分のバスタオルを仕舞う場所だ。適当に脱衣所の棚の上に放置した。

 次に、夕食を作った。

 見つけたレシピ本に沿った食材を用意する。しかし調理器具の詳細な場所が分からず、何度も棚を確認して目的のものを探した。勘で炒めていた肉野菜炒めを焦がした。目分量で付けた味は極端に濃いものだった。米を炊いていないことに気づいたのは十八半時を越えてからだ。

「優路みたいにはいかないか」

 一通りの品が揃うまでに一時間以上が経っていた。

 夕食を食べていると母が帰ってくる。

「あら、優路はいないの?」

「二人仲良くデートに行ってる」

「あらあらまあまあ」

 母が嬉しそうにしたのも束の間、酷く散らかったキッチンを見て絶句した。

「この分じゃ結婚は優路に先を越されるわね」

「うるへー!」

 母はお盆に用意してあった一人前の食事を運ぶ。

 遥佳の手製の料理を口にした。

「初めの頃の優路よりも酷いんじゃない、これ」

「やっぱり?」

 経験の差は歴然だった。それだけ、弟が数を積み上げてきたということだ。

 後片付けについては、惨状を見かねて母が代わりに済ませている。

「私一人じゃ何もできないなあ……」

 素直な実感を遥佳は呟く。

 その時、玄関の方から音がした。

「お、来やがったな!」

 冷やかそうと思い、二人を出迎えに行く。

 先に帰ってきたのは西山一人だけだった。

 遥佳は驚いたが、それ以上に触れなければならないことがあった。

「どうしたの? そんな顔して。もしかして優路にデリカシーのないこと言われたりした?」

 青白い相貌。泣き腫らした瞼。何かがあったことは明白だ。

 それでも西山は気丈に振る舞おうとする。

「いいんです。大丈夫です」

「でも――」

「お姉さんに伝えないといけないことがあります」

「……何?」

 心して尋ねる。

「告白してみたけど、駄目でした」

 それは、見るに堪えない笑顔だった。

 拳が強く握られていることに遥佳は気づいてしまう。

「あの馬鹿ッ! 帰ってきたらしばいてやる!」

 怒りを隠そうともせずに言葉へ変えると、見かねて庇うような声が届く。

「違うんです。優路君は悪くないんです。私が、答えを急いだから」

「みさちゃん……」

 遥佳であれば確実に不満をぶつけている。女を泣かすなと、ビンタの一つもくれてやるところだ。西山にもその権利はあるはずだった。

 しかし、原因は自分自身にあると、当人は考えている。

 健気な女の子の気持ちを、弟は受け取らなかった。

 端から見ても相性の良い二人だと、遥佳は思っていたのに。

「お姉さん。私に、優路君に何かしてあげられることはありませんか?」

「……どうして?」

「私には他に行く場所なんてないんです」

 震えを帯びた、切実な言葉。

「負担に、なりたくないんです」

 思わず遥佳は目が潤みそうになった。

 誤魔化すように、指で拭って気を紛らわせる。

「そうだなあ。家でできること……。じゃあ代わりに朝ご飯を作ってあげるとか?」

「私、料理って得意じゃないんですけど」

「大丈夫だって。優路も最初は結構酷かったんだから」

 遥佳自身よりは勝っている、という事実だけは隠そうとする。

「そうなんですか?」

「そうそう。だけど私も母ちゃんも残さず食べてた。優路は下手なりに一生懸命だったから」

 思い返す弟の姿は、いつだって家族のために尽くしていた。

「だから、下手でも一生懸命作れば、きっと食べてくれるよ」

「そう、思いますか?」

「うん」

 不安そうな西山のために、遥佳は力強く頷く。

「分かりました。私、やってみます」

「そうと決まれば準備は大切だな。サプライズってヤツだ。朝食作りを邪魔されないように、優路が眠った後で目覚ましの時間を遅らせてやろう」

「いいんですか? 勝手に」

「いいのいいの。たまにはぐっすり眠らせてやるんだよ」

「はあ」

 圧倒されたような、ただ呆れているような溜め息を西山は吐いた。

「もう風呂入って休みな。疲れてるでしょ」

「すいません……」

「着替え用意してくるよ。今日もあたしのベッド使っていいからね」

「ありがとうございます」

「……明日、頑張りな」

「はいっ」



 朝の陽射しを受けながら、スーツ姿の遥佳は自転車を走らせる。

 昨日の西山との会話を思い出しながら、サプライズが功を奏するかを心配していた。

 そして、思わず笑みを零す。

 弟が女の子を連れて来た時は驚きもしたが、時間を経て、妹のように可愛いと思う自分がいることを自覚する。

 今朝の西山はとても張り切っていた。その気概が空回りしなければ、大きな失敗もないだろう。少なくとも、自分と同じようにはならないはずだと遥佳は思い描いた。

 料理を作るだけでも大変な手間がかかることを再確認したのだ。その手間が一つでも減らせれば、弟の肩の荷も多少は軽くなるに違いない。

「あたしなんかじゃ、母ちゃんに手伝ってもらわないと、まともな弁当一つだって作れ――」

 独り言を言い終える前に、気にかかることを見つけた。

 慌てて自転車を停めて、鞄の中身を確認する。

 あるべきものがなかった。

 キッチンで調理に励む西山の微笑ましい様子に気を取られて、弁当を入れ忘れたのだ。

「やっば遅刻確定!? いや全力で走れば間に合うはず!」

 駅までの道のりを遥佳は逆走した。

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