02. 西山美聡の足跡

 美聡は走る。

 薄着のせいで寒いことも、溢れる涙も気にせずに走る。

 目頭が痛む。胸が痛む。心が痛む。今生じるものすべてが痛みを伴っている。

 習い事や稽古の時間に講師から叱責されることがあっても、これほど精神が乱れたことはなかった。

 どの道を選んでいるのかも美聡は把握できていない。

 一切を排して頭に浮かぶのは、先程の岩崎弟とのやり取り。

 そして、家から飛び出す前に、最後に目にした母の顔だった――。



 三歳当時のことを美聡はぼんやりと覚えている。

 その記憶にあるのは、病室のベッドで泣きじゃくる母と、震える手を握り締める父の姿だ。

 好奇心から一度だけ、詳細を尋ねたことがある。

「少し……体が弱くてね」

 母が直接的なことを口にすることはなかった。そういう空気を、美聡は幼いながらに感じ取った。だから深く詮索はしなかった。

 両親と交流があった者、ないしは親類縁者だけが知っている。

 その子は、女の子であったらしい。

 流産という結果は、母の心を強く抉った。

 美聡の際は問題なく出産を終えていた。前回のように上手く行くと思われていた。その期待がより一層母を苦しめる要因となった。

「立派に生きられるようになりなさい」

 これは母の口癖である。本来以上の思いが込められた言葉である。妹の分まで元気でいて欲しいという願いである。

 美聡が幼稚園に入る頃には、母の姿勢は熱心な子育てから真剣な教育へと変わった。父もその教育方針に異論はないようだった。二人の気持ちは一つだった。

 勉学、教養、技能。母は用意できる限りの環境を揃えた。そこで必要になりうる術を、美聡はできる限り習得してきた。

 けれどそれは、あくまでも術でしかなかった。

 たった一言。

 それだけで、美聡の積み上げてきた人生は瓦解する。

 高校生になって二度目の冬。年内最後の模擬試験を控えた、ある日のことだ。学校の教室でクラスメイトに話しかけられた。


『どうしたら西山さんみたいになれるかな?』

 ――だったらもっと努力すればいいのに。

『今回もきっと凄い点数を取るんだろうね』

 ――今までの積み重ねがあるから当たり前だ。

『どうしてそんなに頑張れるの?』

 ――そうすべきだと言うから。お母さんが期待してくれるから。

『それじゃママの言いなりじゃん! そんなんで楽しーわけ?』

 ――    。


 思慮にも配慮にも欠けた、遠慮のない感想だった。

 質問に答えただけ。当然の事実を口にしただけ。どんなことがあっても、それだけは今まで変わらなかった。身に染み着いた行動基準は誰に譲れるものでもない。

 クラスメイトの発言こそ正当ではなかったかもしれない。憧れや妬みの混ざった個人の偏見に留まるものかもしれない。

 なのに。

 その日、美聡は初めて立ち止まった。

 なんの疑問も持たずに、母に望まれた通りに生きてきた。厳しく当たられた時もあったが、それが思い遣りであることを理解していた。感謝していた。その期待に応えたいだけだった。

 美聡の日常。それが当たり前ではないと言う。

 気にする必要はない。

 分かってはいる。

 けれど、疑問は頭の隅にこびりつく。

 日を追うごとに自問自答を繰り返すようになっていた。抜けない棘に意識を割く時間が増えていった。身が入らないまま、模擬試験前日の夜を迎える。

 環境やコンディションが悪くとも、体は習慣化されたルーチンワークをなぞる。半ば機械的に復習を進める。

 勉強机に座っていた美聡は、それでも考えてしまう。

 参考書と向かい合いながら頭の中で確認する。

 学んできた経験がある。

 蓄えてきた教養がある。

 磨いてきた能力がある。

 修めてきた功績がある。

 指折り数えるうちに、美聡は足りないものがあることに気づく。

 それらはすべて母が望んだものだった。

 自分の理由ではない。自分のために何かを選んだことが一度もない。

 握っていたシャーペンが止まる。

 思考は自らの意思に関わらず、巡り続けた。



 才能は道具に似ている。美聡はそう感じた。

 扱い方次第で様々な結果を示すことができる。

 発明された技術が文明を発展させ、国を栄えさせることもあれば。

 開発された兵器が人々を殺戮し、国を滅ぼすこともあるように。

 その両者は違わず人の手によってもたらされたものだ。

 道具はそれを使う者によって効果を変える。

 才能についても同じだ。

 絵を描く才能があるとする。それを活かし漫画家やイラストレーターになる道が一つ。あるいは絵画といった芸術の道へ進むこともできる。衣服やキャラクターグッズのデザインを手掛けることもあるかもしれない。

 どんな才能を持っていたとしても、行動を起こすのはその人自身だ。才能は持つ人の志によって様々な側面を見せる。

 道具が人を動かすのではない。才能が人を動かすのではない。

『可能であること』と『望むこと』は違うのだ。

 そこまでを踏まえた上で、美聡は自問する。

 何度も何度も。再三に渡って問いかける。

 楽しいとは何か。

 嬉しいとは何か。

 自分の望みとは。

 自分の幸せとは。

 美聡には分からない。

 明確な像が描けない。


 ――私は一体、どういうふうに生きていたいのだろう。


 心は現実に追いつかない。

 申し込んだ模擬試験を受けなかった。

 意識せず流れ作業のように行えた板書が滞るようになった。

 期末テストで本来の点数を得られなかった。

 今まで通りのことが今まで通りにできなかった。

 身動きの取れないまま、時間だけが過ぎていく。

 現状を受け止めきれない。

 それは母も同じだった。

「どうしてこんな結果になるの!? 今までいい調子だったのに……。こんな成績じゃ立派な大学に入れないじゃない! 立派な会社に就職できないじゃない!」

 動揺を抑えきれず、母はヒステリックに叫んだ。期末テストの答案用紙が床に散らばる。

 平均を少しだけ上回る程度の点数では、納得させることはできなかった。過去の美聡は各教科九十点以上をキープし続けていたからだ。

 一度深呼吸をして、母は平静を取り戻す。

「これまで通りに勉強していれば美聡なら点を取れたはずよ。それなのにしなかった? できなかった? どうして。どうしてなの……。理由があるなら話しなさい」

 呟きながらの考察の末に疑問点を導いた。その着眼点は的を射ている。

 けれど。

 言えるわけがない。

 実の親に向かって。娘の将来を真剣に考えている母に対して。

 今まで自分がしてきたことの意味を、問えるわけがない。

「なんで答えないの? どうして理由を言ってくれないの? ……そう言えば模試の結果もまだ聞いてない。そっちも駄目だったなんて言わないわよね? ちょっと、聞いてるの!?」

 震える声が悲愴さを増していく。

 そして、沸点を越えた。

「答えなさい! 美聡!!」

 堪え難い衝撃が体を貫く。

 十七年の人生の中で、最も鋭く、最も重たい痛み。


 頬を叩かれたのは美聡にとって、初めてのことだった。

 冷静な母が娘に手を出したのも、初めてのことだった。 


 気が付くと美聡は泣いていた。

 同じように、母も泣いていた。


 その後のことを、美聡は詳しく覚えていない。いつの間にか家の外を歩いていた。

 母と対面することに堪えられず、リビングを抜け出したのだろう。自室に戻ってコートを羽織り、逃げるように家を出たのだ。器用なことにコートのポケットにはしっかりと財布が入っていた。

 事実としての確認を終えても、美聡はその動線を振り返ることができない。

 鮮烈だったからだ。

 頬の腫れ自体は徐々に引いていた。

 代わりに、胸の奥に鈍く疼く塊だけが残った。



 ――滲む視界の中には何も映らない。

 いつの間にか走る体力もなくなっていた。

 けれど、どこかへ行きたくて、どこにも居たくなくて、美聡は息を切らして歩き続ける。

 逆戻りしていた。最初と同じ状況に戻っていた。

 身を温める術もなく、孤立して取り残される。

 居場所がない。理由もない。支えはない。

 何もかも失った気がしていた。空っぽの中に何かが生まれた気がしていた。その何かがあれば変われる気がしていた。

 今朝までは。

 もう、意味がない。


 遠目に見える車道。

 駆け抜けていく車の存在にさえ、美聡は関心を向けることができなかった。

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