06. 岩崎家
十分とかからない岩崎家への道を進む。
二人の手は途切れることなく繋がれている。優路にとっては、迷子になった子供を先導するような心境だった。
黙々と歩き続けていると、後ろから声が届く。
「私、親類縁者以外の人の家に行くのって初めてだと思う。高校生にもなって、それはおかしいのかな?」
伺いを立てるように西山は呟いた。
「珍しいとは思いますけど、だからと言っておかしいとまでは……」
優路は自分の場合を振り返る。自宅に高校の知人を招くのは初めてのことだと気づいた。
中学校と違って高校は様々な方面から生徒が集まる場所だ。友達の家に遊びに行く、という行為そのものが手間になることも多い。
友達である三人の顔を優路は思い浮かべた。高橋の家へは漫画の貸し借りで二回だけ行ったことがある。けれど細川と松林の自宅は一度も訪ねたことがなかった。細川は主に生徒会の仕事や通っている塾、授業の課題などを優先していて、遊ぶこと自体が少ない。松林は帰宅部なのでゆとりはあるはずなのだが、自分だけの時間を重視する節があり、誘いを断ることもしばしばである。逆に高橋は部活動で体力を消耗していても、翌日にはピンピンしていて、積極的に予定を立てようとする。
寄せ集まって一つの輪になったとしても、各々が各々のスタンスを保っている。その違いが程良い距離感を生み出している。
振り幅が大きいとしても、一人の人間が持つ個性として、優路は肯定した。
「人それぞれじゃないですか? 気にすることじゃないと思いますよ」
「……そう、かな」
それでも西山の口振りは納得に至っていなかった。
程なくして、岩崎家に到着した。
一旦玄関まで招き入れる。
「ここでちょっと待っててください」
「ん」
西山は小さく首肯した。
繋いだままだった手を離すと、優路は靴を脱いで奥のリビングへと急ぐ。
夜道を歩く間に文言を考えていたが、ありのままを伝えるのが一番早いだろうという結論に至った。取り繕ったところで余計な手順が増えるだけである。
リビングのドアが開くと同時に、姉は待ってましたと声を上げた。
「優路遅い。近い距離なんだからもっと早く――」
「姉さん、ちょっと玄関まで来て」
テーブルに袋を置くなり、優路は早々に切り出した。
いきなりの物言いに姉は怪訝な顔をする。
「何急に? どうして玄関?」
「家出した女の子がいて、遅い時間だったから、家に泊めてあげたいんだ」
「は?」
早口になってしまったが、優路は素直に状況を説明した。
未だに姉は半信半疑である。けれど冗談の類ではないことは伝わったようだ。
「今、玄関にいるの?」
「うん」
「……とりあえず、その子に事情を聴いてからだね」
姉を引き連れて玄関に戻ると、気づいた西山が姿勢を正してお辞儀をした。
「あ。どうも、お邪魔してます」
「……この子が? しっかりしてるように見えるけど」
「そうだよ。俺の学校の先輩」
得心がいかないのか、姉は首を傾げている。
「ええと、西山美聡と言います。諸事情で家に帰れなくて。公園にいたところを彼に……そう言えばまだ名前を聞いてないね」
「あ。確かに」
「ええ……。そんなレベル?」
姉は心底呆れていた。気を取り直し、自己紹介を済ませる。
「岩崎優路です。こちらは姉の遥佳です」
「こいつのお姉様です」
余計な付け足しがあったが優路は取り合ったりしない。
「早い話が家出中らしい。だから今晩だけでも泊めてあげたくて」
「へー。そう」
姉はじっくりと西山を観察する。次に優路へ目を向けた。考えをまとめている最中なのか、ぶつぶつと独り言が漏れる。
「公園、家出、夜、女の子、お持ち帰り……」
どこか不穏な単語が混ざっていた。震えた声で姉は問いかける。
「この子が……優路の彼女だったり?」
「姉さんの期待するような答えは出ないよ」
「ナンパとか?」
「違うわ」
あらぬ方向へ姉は疑念を膨らませていく。
「じゃあ何? 行きずりか? お前には早いわクソガキ!」
「決めつけとエキサイトが過ぎるんだけど……。初対面の相手を前に良くもまあそんな――」
「構わないですよ」
静かに告げる声があった。
出所を探すように、自然と口論が止まる。
「それで……スムーズに進むなら」
淡々とした、投げやりな口調。
唐突な発言で思考が一瞬だけ鈍っていた。
差し込まれたタイミングを考えて、優路はそのセリフの意図を理解する。冗談を冗談で返すにしても、声色に乱れはなかった。つまりは本気でそれを口にしたのだ。
西山の目を見る。視線が交わされているはずなのに、その瞳から伝わってくる感情がない。作業を事務的にこなすような、無機質な相貌があるだけだった。
一言で終わらせるには早計な判断。自身を軽視するような物言いに二人は閉口したままだ。
「迷惑でしたら、他を当たりますから」
それが内容のない見当であると優路は知っている。それでも、何を考えているのか分からない相手に、かけるべき言葉を見つけられなかった。
無反応を答えとして受け取った西山は、黙って玄関のドアに手を伸ばす。
その時だ。
「優路」
冷静な声が名前を呼ぶ。
呆然としていた優路に向かい、姉は言った。
「泊めてやるんだろ? 風呂温め直したり色々準備するから、温かい飲み物でも出してやれ」
「いいの?」
「この件は優路に任せる。どうせあたしと母ちゃんは仕事だし。その代わりちゃんと世話しろよ。途中で放り出したらあたしがお前を追い出してやる」
普段は見せないような真剣な眼差しが優路を捉える。
「捨て犬じゃないんだから……。大丈夫だよ」
「なら、問題ないな」
姉は柔和に笑って風呂場へと消えていく。
その背中を優路の視線が追う。眩しそうに目を細めた。
「それで、私はいつまでここに立っていればいいの?」
「あ、ええと……上がってください」
脱いだ靴を整えてから立ち上がる姿に感心しながら、優路はリビングへ案内した。
暖房が効いている部屋に通されて、西山は安堵の溜め息を吐く。コートを椅子の背もたれに掛けて腰を下ろすと、指先に吐息を当てながら両手を擦り合わせていた。
優路はケトルを手に取り、一人分の水を汲む。
「コーヒーとお茶がありますけど」
「じゃあ、お茶をお願い」
食器棚から取り出した急須に茶葉を入れる。お湯はすぐに沸いた。
湯飲みに注いで差し出す。
「どうぞ」
西山は両手で握ってカイロのように暖を取る。それから口許へと運んだ。
「たまにはお茶も悪くないかも」
「普段は飲まないんですか?」
「お母さんがコーヒーを好むので、私も」
「そうですか」
会話が途切れる。お茶を啜る音だけが時計の音に混ざる。
助けてあげたいと思い、自宅まで連れてきた。そこまでに問題はない。
けれど優路は西山のパーソナルな部分を知らない。共通する話題も乏しい。噂を聞き齧った程度で、第一に今日が初対面である。
「そう。飲み物に至っても、私はお母さんに倣っていた……」
ぽつりと出た独り言にどのような反応を返せばいいのかも、優路は見極められない。
事情を詳しく尋ねるタイミングはいつだろうかと思案していると、リビングのドアが遠慮なく開いた。やって来たのは姉だ。
「一応こっちで寝間着を探したんだけど、これでいい?」
突き出す手に持っているのは衣服。一組のフリースだった。真ん中には眠った猫のイラストがあしらわれている。
「大丈夫です」
「了解。下着は新品のヤツを下しとく。脱衣所の棚に置いておくね。ドライヤーは見える位置にあるから」
「お、お気遣いどうも」
少しだけ西山は動揺していた。ちらりと優路の顔を窺って逸らす。
下着という単語に反応しているのだが、それが男子に対する恥じらいであることに姉弟二人は気づかない。
姉がいなくなった数分間、頻繁に湯飲みに口を付ける西山は落ち着きがなかった。優路は優路で、洗い終わった食器や調理器具の水滴を拭き取りながら、元の位置に片付けていた。
すると軽快なメロディーが聞こえる。風呂の追い焚きが済んだことを知らせるものだ。
「先輩、右が風呂場です。遠慮せずに温まってください」
「は、はい。頂きます」
言うと西山はリビングから逃げるように脱衣所へ向かった。
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