二章 当たり前の知らない日常

01. 母と息子

 同じ時間に早起きをして、同じように家事をこなす。

 現在の生活が優路の体には染み着いている。冬休みであれ土曜日曜であれ、このリズムは簡単に崩れない。

 土曜日である今日も姉は早々に出勤した。その場合は代わりに日曜日が休みになるのだという。その逆も然りだ。

「学校がないからって、不埒な働きをするんじゃないぞ」

 去り際に残された余計な注意を優路は当然受け流した。

 母はカレンダーに付けられた印を見るに、今日は休みである。

「通しておくべき話があるんだ」

 八時過ぎに起きてきた母に要点だけを先に伝えると、自分の目で確認したいと言うので一緒に姉の部屋へ向かう。

 規則正しい寝息を健やかに、西山はぐっすりと眠っている。

 寝間着を洗濯するのは明日だなと優路が内心に思っていると、母が心配そうに告げた。

「孫の顔は確かに見たいけど、さすがに早過ぎるんじゃないかしら」

「もう一度顔洗ってきたらどう」

 冗談を一蹴して、優路は昨日の夜のあらましを一通り並べていく。

「遥佳もこの子のことは知っているんでしょ?」

「うん。昨日顔合わせも済んでる」

「だったら構わないんじゃない?」

「一応聴くけど、いいの?」

「何? 悪いことがしたいの?」

 返す言葉に詰まる。それを返答だと母は判断したようだ。

「わたしも優路に任せるわ」

 特に問題もなく、西山の存在は岩崎家に受け入れられることとなった。



 欠伸を噛み殺しながら、西山はリビングに入ってきた。姉が着替えを部屋のテーブルに用意していたはずだったのだが、寝間着姿のままだ。

 録画した番組を見ていた母は特に話しかけるでもなく様子を見ている。

「おはようございます?」

 なぜか疑問形ではあったが、優路も挨拶を返す。

「おはようございます。もうすぐ昼ご飯にするんですけど、希望は何かありますか?」

「……朝ご飯ではなく?」

 寝惚けているようだったので優路はそっと壁の方を指差す。何度か目を擦りながら西山は掛け時計をぼんやりと見上げた。針はすでに十二時を回っている。

「おー」

 気の抜けた声がぽつりと落ちる。

 視線を戻した西山がようやく母の存在に気づいた。

「あ、昨晩からお邪魔してます。西山美聡と言います」

「ご丁寧にどうも。これの母です」

 自己紹介の仕方はどこか姉に似ていた。優路はくだらないことで血の繋がりを感じ取る。

「で、お昼なのですがどうしましょう?」

 改めて問い直す。

 回路がやっと繋がったのか、西山はぎゅっと握り拳を作ると興奮気味に言った。

「あのっ、一つ聴いてもいいですか?」

「どうぞ遠慮なく」

「カップ麺ってありますですかっ?」

「そりゃありますけど……」

 ケトルでお湯を沸かす時間を含め、六分ほどが経過した。

 出来上がったそれを、西山は舌鼓を打ちながら口へ運んでいく。思いの外ペースが早い。

「カップ麺を食べたことがないとは恐れ入る」

 一般家庭であれば一度は食べたことがありそうなものである。

「慌てると喉につっかえるわよ」

 母は親戚の子を預かったかのように楽しそうだ。

 そして、案の定西山は噎せた。優路はコップに作り置きの麦茶を注ぐ。

「茶です」

 慌てて掴み取ると一気に中身を空にする。

「はー美味しい」

「……そこは苦しかった、じゃないのか」

 指摘も相手にせず、西山はカップ麺に夢中だった。

 気持ちの良い食べっぷりを眺めていた優路と母は、再び自身の昼食を考え始める。

「今日はわたしが作ろうか」

「疲れてるんじゃないの?」

「たまにはキッチンに立たないと腕が鈍るでしょ」

 断る理由もないので、優路は大人しく役割分担を替わった。

「何がいい?」

 目の前には幸せそうに頬を緩める西山がいる。

「俺もラーメンかな」

「はいよ」

 棚から袋麺を二つ、冷蔵庫から野菜を取り出して調理に掛かる。

 優路は母の姿を横から眺める。手際の良さと丁寧な包丁捌きを見て、自分もまだまだであると痛感する。

「経験値の差かなあ。大分上手になってきたつもりなんだけど」

「そりゃ年期が違うからね」

 母は得意げに笑う。

 昼のワイド番組で間を潰していると、テーブルに出来上がったラーメンが並んだ。

 母と揃って食べ始めると、優路は刺さる視線に顔を上げた。

 目前にあるカップはすでに空だ。スープまで飲み干されていた。綺麗な完食である。

 食事を終えているというのに、西山は箸を握ったまま、向かいの椅子から優路のラーメンを黙って見つめている。

「えっと、少し食べます?」

 こくこくと頷いた。

 立ち上がり傍に寄る西山に丼を譲る。麺とスープまでしっかりと味わっていた。

「こっちもこっちで美味しい」

「まさか普通のラーメンまで食べたことがないとか言わないですよね?」

「私もそこまでじゃないよ。ただ、機会はそう多くなかったから、つい」

「うちなんて三日連続で昼にラーメンの時もあるのに」

「……間接キスについてコメントはないの?」

 余計な口を挟む母の表情はにやついていた。

「何言ってんの。ちょっと飯を分けたくらいで――」

「うぅ」

 顔を赤らめている西山がいた。優路は甚く感嘆する。

「おお。まるで女の子を相手にしているようだ」

 愉快な姉との生活が色濃く影響しているせいで、どうにも感覚がずれていた。

 仕方なしと、わたわたしている西山に助け船を出す。ずっと身にしている寝間着を指した。

「とりあえず着替えたらどうですか。未だに猫が眠りこけてますよ」

「……にゃあ。本当だ」

 西山は自分の格好を確認した。驚きが鳴き声に変わっていた。



「片付けるまでが食事なのよ」

 まるで遠足の決まり文句のような理由で、母は皿洗いに当たっている。

 西山は姉の部屋で着替えを済ませリビングに戻っていた。ブラウスの上から明るい橙のセーターを重ね、ネイビーのジーンズを丈が余った分だけ捲っている。

「先輩」

 腹も膨れたところで、優路は先延ばしにしていたことを聞くことにした。

 落ち着きの払った呼びかけを耳にして西山も内容を察したようだ。

「うん。分かってる。私のこと、だよね」

「はい」

「悪いんだけど、今日一日待ってもらえないかな?」

「その理由は?」

「人に自分の気持ちを説明するのは初めてなの。だから、もう少しだけ整理する時間が欲しい……ので」

 尻すぼみしていく声が自信のなさを表していた。

 優路は、支離滅裂な感情を並べられるよりはいいと判断する。

「分かりました。自分から申し出したんですから、その通りにしてくださいね」

「ごめんね、厄介を押しつけちゃって」

「姉さん以上の厄介事なんて我が家にはありませんよ」

 思うことを口にしただけの優路に対して、西山は目を細めた。

「……私にも兄弟がいたら、こんな感じなのかな」

「なら先輩は妹ですね」

「もしかして馬鹿にしてる?」

「いえいえ」

 笑顔で誤魔化そうとしても西山には通じなかった。

 姉と違い、拗ねる顔が可愛らしい。だから余計に歳上であることを忘れてしまう。下の兄弟のように微笑ましく見えてしまうのだ。

 空言のように綴られた羨望を茶化して返す優路もまた、母と姉に続く岩崎家の一員だった。

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