02. 平常運転

 家にいる全員が目を覚ましたので、優路は気兼ねなく掃除機のスイッチを入れる。

 ここでもまた、覗き込むように観察する視線があった。

 遠過ぎも近過ぎもしない距離を保ったまま、西山の頭が揺れる。

「もしかして暇を持て余してますか?」

「どこにいても落ち着かないので」

「見ていて楽しいんですか?」

「んー。退屈しない程度には」

「……掃除機、掛けてみますか?」

「え。いや。別に。いいってば。見てるだけでも。全然」

 遠慮の言葉を無視して優路は掃除機の持ち手を押しつける。

「おお。おー。なるほどー」

 否定していたのは口先だけだった。

 リビングのカーペットを調子良く済ませていく。

「あんまり早く動かさないでください。でないとちゃんとゴミを吸い取れないんで」

「分かってる分かってる」

 カツン。

 吸引口の先が椅子にぶつかった。

「あっ、ごめんなさい」

 謝るのも束の間。

 ガツン。

 今度はテーブルの足にぶつかった。

「ごめんなさいもうぶつけないから、だからそんなに怖い顔しないでっ」

 気にしなくていいと表情で伝えたつもりだったが、優路は使う顔を間違えていたようだ。



 洗濯物を取り込むために、二階にあるベランダの扉を開ける。

 これまでの流れを鑑みていた優路の予想を違わずに、西山は傍を離れず付いてきた。まるで親の後を追う雛鳥のようだ。

「ここまで来ると嫌でも手伝わせますよ」

「恐縮です」

 その返答はこの場面に適しているのだろうか。

 どちらにせよ優路に洗濯物を取り込まないという選択肢はない。ベランダは母の寝室と繋がっているので、ベッドの上にぱっぱと乾いた衣類を放る。

 手拭い。寝間着。洋服。手近な順に投げ込んでいく。

「先輩、端から畳んでもらえますか?」

「了解しましたっ」

 西山の私服。

「私の分までごめんね」

「二三着増えたくらいじゃ変わりませんって」

 姉のブラウス。母の制服。靴下。

「この制服は?」

「母のです。清掃のパートをしてるんですよ」

「へー」

 トランクス。ブラジャー。パンツ。

「ん? んんん!?」

 最後に大きめのバスタオルを抱えながら、優路はベランダの扉を閉めた。

「どうかしましたか?」

「これって、私のヤツ?」

「そうですね」

「君が、洗濯したの?」

「そうですよ」

「~~~~ッ!!」

 茹で上がったように顔が赤くなっていく西山。勢いよく後退して自分の下着を守るように抱えると、大声で叫んだ。

「何事をお考えでおりますん!?」

 言葉遣いが乱れるほど動揺していた。

「おお。年頃の娘って感じがひしひしと伝わってくる」

「君はなんとも思わないの!?」

 家事を担い始めた頃は優路にだってどぎまぎした覚えはある。しかし二年以上が経った今、余計な雑念はすっかりと消えてしまった。時間とは雄大である。

「こんなもんただの布でしょうが」

 姉のパンツを摘んでクルクルと振り回す。

「そんな価値観が普通だなんて私は認めないよ!」

 慌てふためく西山を宥めるのに存外の手間を要した。

 西山は頬を膨らませている。

 睨む視線の先にいる優路は、頬が腫れている。

「君は女慣れしてるの?」

「他に言い方ないですかね」

 問いには悪意が含まれていた。あらぬ見解が西山に根づこうとしている。

 薄く赤みが残った頬を労わりながら、優路は弁明する。

「女って言うより姉の言動で諸々慣れざるを得なかったというか。……まあ、これくらいで音を上げたら役に立てないので」

 言いながら三人分の衣類を畳んでいく。

「ずっと思ってたんだけど、今日って休日だよね。……お父さんはいないの?」

 何気なく尋ねられた。

 受け止めるために優路は深呼吸をする。

 西山が数えている岩崎家の人数は三人だ。

 それ以上の紹介はしかなった。それ以外の説明もしなかった。

 当然の疑問は、答えなければ不自然だ。

「亡くなったんです。二年前に、事故で」

「ぁ――」

 自分の発言を失言と捉えた西山は口許を押さえた。

「大丈夫です。もう過ぎたことで、過去のことですから」

 先回りして謝罪の言葉から逃れる。西山は出しかけた声を飲み込んだ。

 家族を支えるために、母と姉は仕事に出ている。

 家族を支えるために、優路も家事に励んでいる。

 前に進めている、だから自分は大丈夫なのだと。そう言い聞かせるように。再度区切りを付けるように。

「もうすぐ三時です。おやつにでもしましょう」

 最後の一着を畳み終えた優路は、笑顔に努めてそう言った。



 衣類を決まった場所に収納してリビングに戻ると、母はテーブルに突っ伏してうたた寝をしていた。テレビは付けっぱなしになっている。

「まったく」

 優路はテレビの電源を消して、椅子の背もたれに掛かっていた上着を母の肩に掛ける。

「母親思いのいい息子さんですねえ」

「生意気を言う奴にはおやつ抜きです」

「ええっ!」

 西山は本気で驚いていた。からかいがあると優路はこっそりほくそ笑む。

「飲み物はこれでいいですか?」

 冷蔵庫から炭酸のオレンジジュースを取り出す。

「うん。私もそれで」

 二つのコップに中身を注いでいく。

 お菓子をまとめてある籠に目を向けると、優路ははたと思い出す。上から重ねるように無造作に、中身が入ったままのコンビニのビニール袋が乗っていた。昨日の夜に買ったものだ。

 放置していたそれを袋ごと掴む。西山の希望するお菓子をいくつか見繕うと、母の向かいに並んで座った。ポテトチップスやチョコ菓子、クッキーなどがテーブルに広がる。

「それは?」

 西山が目線で示す先にはビニール袋がある。

「新商品らしいですよ」

「はあ」

 袋から取り出したパッケージには『新食感に酔いしれろ』と煽り文句が書かれていた。開封して中身を観察する。見た目は至って普通のスナック菓子だった。

 摘んだ一つを口に入れる。サクッという小気味の良い音が鳴る。硬過ぎず柔らか過ぎず、絶妙な舌触り。けれど味に関して特筆する点はない。

「まあまあかな」

 食べ進めていくが、優路からすれば一定の域を出ないという感想だ。

 横を見る。待ち望むように瞳が輝いていた。

 一つを持ち上げて、優路は試しに西山の口許へ運んでみる。

 パクリ。

「おお」

「おお」

 西山は食感に、優路はペットの新しい一面に驚くように、声を上げる。

 もう一度口許へ運ぶ。パクリ。

 まるで餌付けをしているような感覚があった。

 少し面白くなってきた優路は、一つ、もう一つとスナック菓子を減らしていく。

「ふふっ。まるで兄妹みたい」

 いつの間に目が覚めたのか、母はにやけた笑顔で二人を見ていた。

「私が姉ですよね? 妹じゃないですよね?」

 真意を探ろうとする西山は妙に焦っている。

 優路と母は揃って、それはない、と言わんばかりに首を振った。

「どうしてなのだ!?」

 印象とはそう簡単に覆らないものである。

 残りの分のお菓子を母と西山に譲り、ジュースをもう一杯お代わりする。冷蔵庫にペットボトルを戻そうとした時、優路は棚に並んだ品目を見た。

 夕食分の食材が足りていない。補充しなければいけないことをすっかり失念していた。

「買い出しに行こうと思うんだけど、必要なものある?」

 優路は母に向かって問いかける。

「トイレットペーパーが少なかったような」

「そっか、それがあった。オッケー。新聞に広告も入ってたしドラッグストアにも寄るか」

「わ、私も一緒に行きたいです!」

 優路と母は同時に西山を見た。

「荷物持ちします!」

「お菓子は三百円までだぞ」

「遠足じゃないよっ!」

 それは優路も知っている。

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