03. 岩崎優路の意義

 周回遅れで、優路は走り続けている。

 前方には二人の背中がある。

 いつだってその背中を眺めていた。追いつきたくとも届かずにいた。それでも絶えず走り続けるのは、目標がその背中の向こうにあるからだ。二人のように生きることが、優路にとっての理由だった。

 それが最低限で、最大限だった――。



 優路は父のことを特別好きというわけではなかった。かと言って特別嫌いというわけでもなかった。

 思い出の中にある父の姿は喜怒哀楽に富んでいる。用意した誕生日プレゼントに対する我が子の反応に一喜一憂し、反抗期の姉の態度に落ち込み、優路の男の子らしい趣味をともに楽しんでいた。

 極めて平和な家庭環境だ。

 当たり前のことに価値を見出すためには普通が過ぎる。そうと言えるだけの、ちっぽけで温かい家族。特別なものは何もなく、必要もない。だからこそ、そこには意味があった。

 訪れたのは、二年前の秋口である。

 優路は中学二年生だった。予定に組まれた修学旅行を楽しみにしていた。

 姉は高校三年生だった。一般公募推薦で大学が決まったと喜んでいた。

 自分のことのように、母は笑っていた。

 タイミングはその時だった。


 仕事に出ていた父が、交通事故に巻き込まれたという報せが入った。

 病院で、即死だったという事実を聞かされた。


 今まで当たり前のように会えていた父が、もういない。

 優路はすぐに実感を持てなかった。

 代わりに強く焼きついた光景がある。

 頼りにしていた母は、嗚咽を漏らして泣いていた。

 煙たがっていた姉は、無言で膝を抓っていた。

 葬儀から数日後。口座に振り込まれた慰謝料と保険金はそれなりの額に達した。扱い方を間違わなければ、数年は保てるのかもしれない。

 けれどその事実が、母の不安を和らげることはなかった。貯金を足してもこれから先すべてを賄えるほどではない。家のローンや二人分の学費も残っている。

 何よりも、柱を失ったことが痛手だった。

 今まで通りではもう適わない事態であると判断したのだろう。母はパートの仕事を始めた。移した行動は早く、その決意は堅かった。

 触発されたのか、母に続くように姉までも就職を選択すると言い出した。

 優路は、忘れることができない。身の入らない宿題を切り上げ、風呂に入るために一階へ降りた時のことだ。リビングのドア越しに二人の話し声が聞こえた。

「――もう、決めたことだから」

「どうして? 何も遥佳まで働きに出ることないのよ? 心配しなくてもわたしは大丈夫だから」

「そうやって一人で背負い込むつもりなんでしょ? 母ちゃんだけに負担はかけられないって。……それに、あたし自身が、そうしたいの」

 一人静かに、優路は脱衣所のドアを閉めた。そうすることしかできなかったからだ。その日は珍しく、長い時間湯船に浸かることになった。

 強い意志を垣間見た母は、最終的に姉の主張を認める。

 突然の進路変更は早期から備え、就職に進もうとしていた者に比べれば、かなり遅い決断だった。けれど、手遅れであるほど遅いわけでもなかった。当時交際していた彼氏に追いつくために蓄えた学力と、推薦時の面接のためにしていた練習が実を結び、姉は四月から働きに出る運びとなった。

 具体的な対応ができず、取り残されたのは優路だけである。中学二年生だった当時、取れる選択の幅はあまりにも狭かった。十四歳の少年という立場では、可能な行動の範囲など高が知れている。二人のように外へ稼ぐこともできない。

 それでもできることをするのであれば、自然と家の中のことに限られる。

 家事をこなすという役割は、自衛のラインでもあった。

 役割を失えば優路はただの子供でしかない。

 二人に守られるだけの弱い存在でしかない。

 そうなってしまうことが、優路は嫌だった。堪らなく恐ろしいことのように感じられた。何もできない無能であると、受け止めることが怖かった。

 自ずと家事に精を出した。料理も、洗濯も、掃除も、買い出しも、実地ですべて覚えてきた。それしかできないのだから、それだけを忠実に取り組んできた。

 それ以外に頼れる拠り所がない。

 自身に課した、自分でいるための義務。

 二人の負担にならないで済む最適解。

 譲れるものではなかった。

 許せることではなかった。


 だから、拒絶反応は顕著に表れてしまう。

 西山の心を砕くには充分な威力を伴って。

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