08. 違う視点

 どれほどの時間が経ったか。

 ベンチに座ったまま、優路は茫然として動けずにいた。

 風でブランコが揺れる。冷たい空気が、むしろ気持ちを落ち着かせていた。

 数日前の西山もこのような気分だったのだろうと淡い感傷を抱く。

 働かない頭がぼんやりと辺りの景色を捉えた。

 閑散とした公園に他の影はない。

 傍に誰もいない。

 それが優路の出した答えだ。応えないという選択をした。

 あるいは、本当は選んでさえいないのだと、自己批判に至っていた。

 他にできることがあったのではないか。

 何度悩みあぐねても、なぞるように振り出しに戻る。堂々巡りを繰り返す。

 できないことができないまま、方法論だけを模索してしまう。

 思考の没入を遮ったのは、ポケットの中で震えたスマートフォンだった。

 取り出して画面を確認する。通知の内容は姉からのメッセージ。


遥佳 何時でもいいから帰ってきな

   伝えたいことがある


 優路は余計に帰りたいと思えなくなった。

 他にもいくつかの着信がある。

 その一つは『余り者に縁がある奴は極刑』のものだ。ファミリーレストランで食事をしていた時から溜まっていた分である。トークの内容を覗くと嫉妬や羨望、それを宥めるコメントが並んでいた。

 優路は気を紛らわせるように力なく笑う。

 次に目を通したのは、グループとは別で、高橋個人から送られたメッセージだった。

 貼りつけていた笑みは簡単に剥がれる。


高橋 本当はずっと付き合っていたことを隠してたんじゃないだろうな

   テストや無断欠席もお前が原因か

   もし西山先輩を困らせているのがお前なら許さないぞ


 推論は見当外れだった。正確とは言えない。

「そうだな。許してもらえないよな」

 ただ、今の優路に否定する気力はなかった。

 最後に残った通知を確認する。


松林 電話で話したい

   タイミングは任せる


 意外な内容に優路は驚いた。

 松林はグループトークに混ざることはあっても、自発的に会話を始めることはなかった。個別のトーク履歴もない。しかも通話を希望しているとなればことさら珍しい。

 誰かと話す気分ではなかったが、優路は一人で悩むのに疲れていた。

 電話を繋ぐと、すぐに応答があった。

「もしもし」

『ハロー。こちら松林なり』

「どうした? 電話なんて今までしなかったのに」

『ああ。その……なんだ、ファミレスでの鉢合わせは災難だったな』

「別に気にしてないよ」

『単刀直入に聴くが、お前らは付き合っているのか?』

「違うよ。……そんなんじゃない」

『やはりそうか』

 まるで予期していたように冷静な反応だった。

『ところで何かあったのか? 声が沈んでおるぞ』

 優路は咄嗟に言葉を返せない。

『まあいい。一つ確認したいことがある。聞いてくれるか? お前と西山氏が一緒にいた経緯についてなんだが』

「うん」

『あくまで俺の推測なんだが……。まず、西山氏が何かで困っているところをお前が助ける。今まで他人を頼らなかった西山氏は助けられたことに恩を感じる。純粋な善意か異性としての好意かはこの際関係ない。……まあ、お前に恋愛感情はないかもしれないな。でだ。西山氏は恩を返したいと申し出た。その結果が二人で出かけることだった。ファミレスにいたのはその範疇に過ぎない。違うか?』

 心から優路は驚く。まるで遠目から見ていたかのようだ。

「部分部分で違うけど、大筋は合ってるよ」

『そうか。良かった。今言ったことはそのまま二人にも話したことだ。後で裏は取れたと伝えておく。高橋が随分とお熱だったのでな。妙な遺恨が残ってしまうのは困る』

 松林がこれほど気転の利く人間だとは、優路は知らなかった。

「わざわざ悪いな。変な気を遣わせて」

『どうということはない。俺は今の居場所が気に入ってるんだ。壊れないように、自分のためにやっただけの話よ』

「それにしても、よく予想できたな。こんなこと」

『他人に期待をしない分、余計なバイアスがかからないんだ。より明確に全体像が見える』

 優路は即座に理解できなかったが、独自の観察眼があるのだなと感心した。

『……済まない。今の言い方だと語弊があったな。別に俺は、お前たちに対して無関心なわけじゃないんだ。期待しないっていうのは理想を押しつけないってことで、だから――』

「分かってるよ。無理に訂正しなくても」

『駄目だ。こればっかりは適当にするわけにはいかない。その、あれだ。こんな人間だがお前たちには感謝してるんだ。今ある距離感は悪くない。入学する前は、堪えるだけの三年間になると思っていた。そう考えれば……俺は随分救われてるよ』

 話は大仰なものに変わっていた。

「俺は、俺たちは特別なことなんて何も」

『そうだな。何もしてない。けどそれは幸せなことなんだ。何事もなく普通にクラスメイトと学校生活を送る。それをずっと、俺は望んでいたから』

 電話越しであっても、感情が声に乗って伝わってくる。

「過去にどんな黒歴史を抱えてるんだよ」

『紐解くと長くなるぞ?』

 冗談めかすような声。優路は呆れて笑った。

 友達と会話をすることで、ようやく本調子が戻ってきている。

「初めてヤッシーの本音を耳にした気がする」

『……かもな』

 松林も誘われるように笑う。

 次いで、微かな息遣いが混じった。

『そういうお前は、正直に生きれているのか?』

 同じような指摘を、優路は少し前にも受けていた。今度は慎んで言葉を返す。

「どうして、そう思う?」

『お前が家族のために頑張っているのは知っている。それが大切であるということも。あの二人だって分かっている。ただ……』

 間を置いて、松林は言う。


『それは本当に、お前が最優先するべきことなのか?』


 優路は反射的に答えた。自動的と言い換えてもいい。

「そりゃ、そうだろ。家族が家族のために支え合う。普通のこと……じゃないか」

『それは誰が決めたんだ?』

「誰ってそんなの――」

 呼吸が荒くなっていた。喉が乾燥しているわけでもないのに、優路は咳き込んでしまう。

「すまん」

『いや、こっちこそ悪い。一気に話し過ぎた。今日はこの辺にしておこう』

 松林は気を遣って区切りを付けようとする。

 息を整えながら優路も同意を示した。

「そうだな。ええと……色々話せて、良かった」

『ああ。俺もだ』

 優路はそのやり取りを機に、通話の終了ボタンを押そうとする。

 その間に滑り込むように、松林の声は告げた。

『難しく考え過ぎるなよ』

 スマートフォンがアプリの並ぶ画面に戻る。

 複雑な理論を掲げているつもりはなかった。純粋に家族のためを思っているだけだった。

 それなのに、そのままでは問題があるのだと、二人の人間が示唆している。

 どうすることが、自分にとって素直であると言えるのか、優路には見当が付かない。

 とうに暗くなってしまった空を見上げる。

 ――見る前から、大して星は見えないって思い込んでるだけよ。

 ふと甦ったのは、西山と初めて会った時の記憶。

 認識しているつもりでも、正しく把握できていない場合がある。

 誰かにとって普通のことは、誰かにとって普通ではないのだという。

 理屈では分かっていても、優路はその実感を得られなかった。



 家に帰った優路を迎えたのは姉の声だ。

「やあ愚弟」

 リビングに入ると、厳しい表情が待ち構えていた。

「ただいま」

「みさちゃんね、もう私の部屋で寝てるよ」

「そう……」

 言外に、大体のことは知っているというニュアンスを含んでいた。

 巻くこともせず、優路が手に持ったままだったマフラーを、姉は見つめている。

「何もしなかったんだ」

 期待外れだと、咎めるような口調。

 少しだけ、優路は腹が立った。

「何かあって欲しかったのかよ」

「正直、それならそれでいいんじゃないかと思ってた。誰かに頼ったり縋ったりすることは、必ずしも悪いことじゃないよ」

 掲げている内容は立派である。

 けれど、当人がそれを実践できているのか、優路は疑問に思っている。

「そんなの、お互い様だろ?」

 吐き捨てるように呟いた。

 似ている姉弟だと表現したのは姉だった。

「……そうね」

 姉の表情はやるせない寂しさを帯びている。

「風呂入って、寝るよ」

 意識せずとも早口になっていた。

 逃げるように、リビングを出ようとした。その背を追うように。

「一人で全部を成し遂げるのと、打ち明けてみんなで成し遂げるのは、どっちが立派って言えるんだろうね」

 投げかけられた質問は、あるいは自問であったのかもしれない。

 優路は答えずドアを閉めた。

 姉も、無理に問いつめるような真似はしなかった。

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