09. 譲れないもの
各々が各々の時間を過ごす。
優路は明日も早いからと眠りに就いた。
精神的な疲労が睡眠を深いものにする。
だから、ベッドに近づく足音があっても、優路が目を覚ますことはなかった。
寝惚け眼で捉えた時計針は、朝の七時半を差していた。
優路は血相を変えてベッドから起き上がる。ここ数ヶ月の間で大きな寝坊をしたことがなかったからだ。
普段設定しているアラームの時刻は六時のはずである。昨日の夜も優路は自分の手でアラームをオンにしていた。秒針は動いているので電池切れでもない。アラームに気づかなかったのか。慌てながら自室を出た。
洗濯、朝食作り、家族二人の見送り、風呂掃除。すべきことを頭の中で順序立てていく。
一階のリビングには、母の姿も、姉の姿もなかった。通常であれば食事を終えて家を出る時間帯である。
代わりに、聞こえてくる音と、漂ってくる匂い。
優路はキッチンに視線を移す。
「あ、おはよう。君のお母さんとお姉さんはもう仕事に向かったよ」
そこに立っていたのは西山だった。
「少し待ってね。もうすぐでできるから」
調理をしている最中だった。
「ちょっと失敗しちゃったけど、それは我慢してもらえると助かるかな」
立ち尽くして、優路はそれを見ていた。
事実を事実として受け入れるまでに時間が必要だった。目が覚めた直後の頭は充分に働いていなかった。平常な精神状態であれば、落ち着いた対応ができたのかもしれない。
けれど、余裕などなかった。目の前の光景が優路を強く揺さぶる。
役割を取られた。
奪われた。
「何、してる?」
「何って、君の代わりに朝ご飯を――」
「俺がやることなんだ。俺がすべきことなんだ。今までずっとそうだった」
「でも、そればっかりじゃ疲れちゃうでしょ? たまには休んだって」
「余計なこと、すんなよ」
「そんな言い方……、私はただ、君の負担になりたくなくて」
「頼んでない。そんなこと、俺は誰にも頼んでない! 勝手な真似するなよ!」
優路は叫んでいた。今までにない事態だったからだ。
決して譲れない一線が、そこにはあった。
床に菜箸が落ちる。
西山は、優路の横を走り抜けていく。
その横顔を見た。
足音が遠ざかっていく。玄関のドアが音を立てて閉まる。
回る換気扇のみを残して、リビングにあるすべてが静寂に包まれた。
キッチンは物が散らかっていた。
出しっぱなしの食材。分厚い大根の皮。切り過ぎた玉葱の余り。ボウルの中にほうれん草の胡麻和え。途中でスクランブルになった卵。隣に黄身が固い目玉焼き。切れ目の入ったウインナー。浅漬けの減りで分かる摘み食い。色の濃い味噌汁。
そして、優路が昔頼りにしていた、基本的な内容のレシピ本が広げてあった。
乾く目を何度も瞬かせる。状況を誤らずに頭へ入れていく。
脳内で正常な思考がなされると同時、取り戻した理性が逃れようのない現実を告げる。
優路は、自分が何を言ったのかを思い出す。先程までいた人物はなぜいないのか。リビングを出て行った横顔に伝い落ちたものは何か。
静かに膝を突いた。
視線が結ぶ先に実像を捉えることができない。息は荒く、溢れそうな後悔と失意が、吐き気となって胸の奥深くから込み上げた。
揺れる西山の瞳に宿った感情を、優路は知っている。
怯えだ。何よりも理由を失うことに怯えていた。
その経緯を聞いている。自尊心の欠落があることに気づいている。抱えていた弱さ、憧憬、願い、好意を知っている。
にも関わらず、西山からの善意を優路は拒んだ。些細な恩返しの形を、優路が振り払って台無しにした。
覆らない事実だけが、この現状を生み出している。
取るべき行動はあるはずなのに、心が動き出せない。
時間を切り抜いたように、優路だけが取り残される。
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