一章 寄る辺のない女の子
01. 夕方の花
やはりマフラーをしてくるべきだったと優路は後悔した。
高校生となってから一度目の冬。
セーターとブレザーだけでは少し心許ない寒さが肌を刺す。
放課後に友達とカラオケに行った帰り道。時刻は十八時を回っている。陽は覗く程度に残っているが、暖かさを望むには頼りない。
自分の物だったはずのマフラーは今どこにあるのか。優路は振り返る。
『その柄いいじゃん。貸してよ』と言われ、姉に奪われたのはいつのことだっただろう。姉が返してくれるのを待ったままだったか。見かねて新しいマフラーを買ったのだったか。記憶は定かではない。あるかどうかも分からないもののために時間を割いて探すのも気が引ける。いつか新しいものを買おうと優路の中で結論を出した。するべきことは他にいくらでもある。
考えることもなくなり、適当に街並みを眺めた。朝方であっても夕方であっても、代わり映えのしない景色が流れていく。近所に新しくコンビニができたことを思い出す。今度行ってみようと心に留めた。
角を曲がると、公園に差しかかる。
住宅街の中にあって、子供が駆けっこをするには少し物足りない程度の広さがある。いくつか設置されている遊具は、寂しそうに風に揺れていた。
そんな人気のない公園で、ベンチに座っている影が一つ。大して距離もないため、辛うじて顔を見ることができた。同じ高校の制服に加え、佇まいや雰囲気にも優路は覚えがある。
校内一の有名人、西山美聡その人だ。近所に住んでいるという話は聞き及んでいない。冬の夕暮れに公園で一人というのも違和感がある。
好奇心に煽られ、何をしているのかと尋ねたくなった。しかし優路は思い留まる。安いナンパのようで気が引けたというのもあるが、それだけではない。
噂の範疇を出ないのだが、西山という人物は他人に興味がないのだと言われている。仲の良い友達もおらず、人を寄せつけない性格だとも。
学年が違う優路は噂以上のことを知らない。それを鵜呑みにするつもりはないが、否定するほど近しい相手でもない。だが噂が事実なら、自分が声をかけても無視されるであろうことは目に見えていた。
誰の手にも及ばないのであれば、高嶺の花は眺めるに限る。
優路の足は変わらず家の方へと向かった。
二十一時の半ば。
夕食を終え、できる洗い物も済ませている。優路はやることもなくテレビのバラエティ番組を見ていた。
すると、玄関の方から騒がしい声が一つ。
「ただいまー」
抑えることを知らないその足音がリビングに入ってくる。
「おかえり姉さん」
「優路、飯」
姉はそれだけ呟くと床に鞄を放り、椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。
「今日もカレーだから」
言って優路は立ち上がるとキッチンに向かう。仕事帰りの姉は「うー、あー」などと声にならない呻きを漏らしている。
コンロの火を点け、一度おたまで掻き混ぜてルーを解す。忘れていた換気扇のスイッチを入れ、冷蔵庫から作り置きの麦茶を取り出す。
「ほら、お茶」
コップに注いでテーブルに置くと、のそのそと腕が上がった。
「染みるわー」
姉は一息に飲み干すとリモコンを取り適当にチャンネルを変えていく。「みゃー、にゅー」などと意味のない溜め息が零れている。
「サラダあるけど?」
「お願ーい」
「ドレッシングは?」
「ゴマのやーつ」
サラダを用意して、先にご飯を皿に盛っておく。
運べるものを先に運び、コップに減った分の麦茶を入れた。「良きに計らえー」と間の抜けた言葉が応える。社会人となってもこの姉は今までと変わらず姉なのだなと、優路は呆れ混じりに感心した。
カレーが頃合になったので火を止めて皿にルーをよそい、テーブルに持っていった。テレビのチャンネルはドラマに落ち着いている。
「夕飯にございます」
「苦しゅうないぞ」
スプーンを取ると黙々とカレーを食べ始める。花より団子である姉は、ドラマの内容などすでに頭に入っていないようだった。
向かいの椅子に座る。手持ち無沙汰なので優路はテレビに目を向けた。場面は会社のオフィス。破天荒な男性上司に新人の女性部下が振り回されている。
「仕事はどう? 二年近くも社会人やってればさすがに慣れてくる?」
「…………そりゃあね」
長い間と短い一言が言外に不満を示していた。
「できることが増えて余裕が出始めた途端に、お局ババアが新しい仕事持ってくるのにも我慢できるようになったし」
「はあ」
「けど今何がむかつくって同期で同い年のあいつの態度! 男の上司には猫撫で声で媚びるし、かと思えば知らぬ間に別の部署の男と付き合ってるとか言うし。あいつの行動が逐一癪に障るのよ」
「なら姉さんも彼氏作ればいいのに」
「そういえば母ちゃんは? もう寝てんの?」
話題が急激に逸れた。これ以上の言及は優路の立場を危ぶめるだけだ。
「風呂に入ってる」
「そ」
返事が素っ気ない。男女交際については触れるなという意思がありありと伝わってくる。余計なことはもう言うまいと優路は黙った。
しばらくの無言。テレビの音だけが間を繋ぐ。
「おかわり」
一度澱んでしまった空気を動かしたのは、皿を突き出した姉だった。
「量は一杯目と同じでいい?」
「ん」
簡素な頷きだったが、刺々しさは多少なり薄れている。
ご飯を盛って鍋を見ると、残すには心許ない量だった。綺麗に全部よそってしまう。シンクに鍋を移し、洗い物が楽になるように少しだけ水を浸しておく。
「はいよ」
「ルー多くない?」
「じゃあ残したら?」
「……まあ、食べるけどさ」
先程と打って変わって口調は穏やかになっていた。長年同じ家に住んでいても、未だ姉の気分の変化が優路にはよく分からない。
「優路こそどうなの? 家のことばっかりしてたら、学校のこと疎かになったりしない?」
「珍しい。姉さんが人の心配なんて」
「いいから答えなさい」
時折、姉は切り込むような鋭さを見せる。
普段の姉は気さくでノリが良く、自分の気持ちに真っ直ぐで偽ることを知らない。それでいて力の抜き時と入れ時を弁えている。殊のほか要領がいい。いわゆる、やればできるタイプなのだ。だから油断をしていると、思いもしないところで不意打ちを貰うことが度々ある。
優路にとって今がその瞬間だった。
「それこそ姉さんと同じだよ。嫌でも慣れてくる。作った弁当だって初めよりはマシになったでしょ?」
「……そうね。母ちゃんも優路には感謝してる。最初の頃は酷かったけどな」
「お互い様だろ。入社してすぐの頃はろくに早起きもできなかったくせに」
「遅刻しなければいいんですー」
「誰のお陰だと……」
起こさなかった日の夜に八つ当たりを受けるのは優路と決まっていた。
「って家事の話じゃないよ、学校の話」
「まあ、家のことが中心にはなってるけど、全部が全部それだけってわけじゃないよ。作り置きできるカレーにしたのだって放課後に友達と遊ぶためでもあるし。勉強は……ぼちぼちだけど、今のところは大丈夫」
「なら、いいけど」
聴き終えた姉の表情は、判然としないまでも了解したように見える。
程なくして、ごちそーさんという呟きが聞こえた。
優路は黙って空になった食器類を運んでいく。
「そうだ。姉さん、弁当箱」
「あいよー」
スポンジに洗剤を付けて洗い始める。
横から食べ残しのない綺麗な弁当箱がシンクに一つ追加された。
用はなくなったはずなのに、なぜか姉は優路の隣から洗う作業を覗いている。
「何?」
「いや、炊事に限らず随分と家事がお得意になったなーと思って。将来は何? 主夫志望? ヒモとか?」
「馬鹿言ってると明日の弁当のおかずが減るよ」
「返しが完璧にそっち路線だぞー」
ケラケラと笑いながら姉は鞄を持ってリビングを出ていった。
その後ろ姿は相変わらず優路の知る姉のものだ。違和感があったスーツ姿もすっかり目に馴染んでいる。
だとしても変わる部分もあるはずだった。社会に出るのだから心境や気構えに変化があってもおかしくはない。けれど姉の態度は昔から一貫していた。家の中では調子の良いキャラクターで通っている。愚痴を零すことがあっても弱音を吐くところを優路は見たことがない。それが強がりなのか素なのか見分けることもできない。
鍋を念入りにスポンジで擦っていると、再びリビングのドアが開く。
「遥佳はもう帰ってる?」
「うん。部屋にいると思うから、先に風呂入れって言っといて」
「ん」
湯上りの母は、返事に反してリビングを去ろうとしない。
若干の既視感を抱きつつ、優路は洗い物の手を止めずに尋ねた。
「何?」
「いや、いつも任せきりでごめんなさいね。わたしにもう少し体力があれば、日替わりの交代制にできたんだけど……」
申し訳なさそうに母は顔を俯かせる。
母は清掃のパートを勤めている。正社員ではないので、収入を確かにするには時間と日数が必要になる。姉も姉で出社して帰宅、食事と風呂を済ませて寝るを繰り返している。優路が家事を請け負い始めたのは、少しでも二人の負担を減らすためだった。
「いいんだって。掃除も意外と体力使うんだし。俺にもこれくらいさせてよ」
「ありがとうね。あの人の分まで頑張ってくれて」
「お互い様だよ。姉さんだって同じことを笑って言うと思うよ」
「そうね。もう何回も言われたわ。……わたしはもう寝るから、じゃあ頼むわね」
何かと心配しいな母も、しばらくしてからは家事を素直に任せるようになった。その信頼は優路にとって大きいものだ。
「勿論」
優路の声に背を押されるように、母はリビングを後にした。
食器洗いもあらかた終わり、優路は手を拭いてキッチンから離れる。椅子に座り背もたれに体重を預けた。疲労感が背中から溶け出していくような錯覚が心地良い。
壁を挟んだ隣の部屋に意識が向く。隣室は畳の和室になっていて、部屋の角には仏壇が置いてある。二年前に購入したものだ。そこには父の写真が飾られている。母は今夜も寝る前に手を合わせていることだろう。
三人家族となってから、母も姉も仕事に励んでいる。
自分は家族の助けになっているだろうか。優路は過去に何度も自問している。二人は良くやれていると評しているが、それでも不安が完全には消えない。
何にしても、今できることをする。それが最低限で、最大限でもあった。答えが明確にないことを考え続けても、時間が減るばかりであると経験から知っていた。
腕を突き上げて優路は軽く伸びをした。気持ちを切り替える。済ませておくべき家事はもうない。朝に作り始めるには時間の足りない弁当は、すでに作り置きしてある。
頭の中で残った事項を思い返す。
外出時の防寒のためにマフラーを探さなければならない。
それと同時に浮かんだのは、夕刻の西山美聡の姿だった。
陽の光はすでに落ち込み、暗い空の向こうは辛うじてオレンジを掠めていた。暇を持て余すくらいであれば、暖房の利いた室内で暖かい飲み物でも啜っている方が賢明である。だというのに、一人で何をするでもなくベンチに座り続ける理由はなんだろうか。
公園で遊ばないとなれば、浮かぶのは待ち合わせくらいのものだ。
とすれば相手は誰か。人をあまり寄せつけないという噂が事実なら、学校内の友達という可能性はそう高くない。恋人という線もあるが想像は難しい。家族の可能性も残っている。下に兄弟がいるとすれば、遠出した弟か妹を迎えに来たところか。状況からしてそれが一番妥当だろうと優路は推察した。
校内で様々な噂が流れる西山であっても、他となんら変わらない一生徒の一人だ。能力がどれだけ高くとも、十七歳の少女であることに違いはない。兄弟がいるという線が正しければ、さすがに身内の前でぞんざいな態度はとらないだろう。
だとすれば、優路が思うほど遠い存在ではないのかもしれない。実際はもっと卑近な人物のようにも捉えられる。
言葉を交わせるほど近しい存在になれるわけではないけれど。
それはそれとして、不思議と微笑ましい気分になった。
湧き上がった感情が今の自分には分不相応に思えて、優路は軽く頭を振る。まるで子供の新しい一面を知って喜ぶ親のようではないか。姉にからかわれるのも納得してしまう。
西山の知られざる可能性を胸の中にそっとしまって、優路は一度自室に戻った。
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