三章 芽生え始めた温もりを

01. 独白

 次の日の朝。

 西山の起床は早かった。寝付きが良くなかったと表現する方が適切なのかもしれない。

 先に起きていた優路は、いくつかの家事と朝食を済ませていた。

「朝ご飯食べますか? 用意しますけど」

「今は食欲ないから、要らない」

 気怠そうな佇まいの西山。

 目覚めが悪いことだけが理由ではないと優路は推測した。

「まとまりましたか?」

 主語はなかった。必要もない。

「うん。考えたよ。聞いてくれる?」

「はい」

 西山を椅子に座らせる。テーブルを挟んだ向かい側に優路は腰を下ろした。

 母はすでにパートへと向かっている。優路の部屋でまだ眠っている姉は、今日は休日なので昼近くまで起きてこない。誰かに邪魔をされる心配はなかった。

「こうやって畏まると、何から言えばいいか分からなくなるね」

「話せることを話せるだけでいいですよ。俺は黙って聞いてますから」

「……ありがとう」

 深呼吸が緊張を和らげていく。

 目を合わせて話すには至らないが、ゆっくりと西山は語り出した。


「昨日の夜、悩んで、考えたんだけど……結論から言うと、私には何もないの。

 学校では周りが色んな噂をしてたみたいだけど、本当の私は特別な存在でも、注目に値する人間でもない。

 私はいつも、できることができただけ。

 言われたことを頑張っただけ。

 自分の気持ちより、親の気持ちを優先してた。

 お母さんがよく言うの。

『立派に生きられるようになりなさい』って。

 お父さんも同意見みたいで、お母さんの方針に口を挟んだりしなかった。

 でもそれが、私にとっての幸せなのか、お母さんにとっての幸せなのか、分からないの。

 望まれるままに生きているだけじゃ駄目だって、最近になってようやく気づいたんだ。

 今まではそれでも通用してたけど、長くは続かないんだと思う。

 私の中にある理由で、物事に当たらないといけない。

 見かけだけは立派なのに気持ちが追いつかないままじゃ、周りのみんなに失礼だし、何より自分がそれを許せない。

 だけど、そう思うようになってから、ずっと中身が空っぽのままだった。

 ずっと言われた通りにしか生きてこなかったから。

 なんのために生きればいいのか、私の中に答えなんてなかった。

 自分が分からなくなって、自信を失って、簡単なことさえできなくなった。

 ふとした瞬間、何気ない日常の中で、唐突に意味を見失うの。

 私が今まで積み上げてきたことに意味があるのか。

 私が今していることにどんな価値があるのかって。

 考えれば考えるほど、分からなくなっていくの。

 ……そんな調子だったから、お母さんに怒られちゃって。

 このテストの点数はなんなんだって。

 ビンタされたのは、初めてだった……。

 その時、私は家を飛び出したの。

 無我夢中で駆け回って、気づいたら暗くなり始めてて、知らない場所にいた。

 偶然近くにあったあの公園で、これからどうしようって考えてた。

 スマホの地図で遠くない場所に漫画喫茶を見つけられて良かったよ。

 名前だけは知ってたけど、本当に漫画がいっぱいあるんだね。

 初めて利用したから、読むの止まらなくなっちゃった。

 ああ、ずっと漫画喫茶にいたわけじゃないよ? 手持ちのお金少なかったし。昼間は別の場所を転々としてた。体だって汚くないよ!? そこのお店にはシャワールームまで設けてあったから綺麗だよ?

 脱線しちゃった。本題に戻るね。

 何日か漫画喫茶で夜を過ごしたんだ。

 そこで私は沢山の作品を読んだ。

 その中には沢山の価値観が描かれてた。

 創作の中では、現実じゃない世界なのに、登場するキャラクターは様々な物に触れて、色々な感情を抱いてた。

 ずるいって思った。

 私にはないものを、作られた彼らでさえ持ってる。

 同じようになりたいけど、羨むばかりで、具体的な方向性なんて生まれてこなかった。読んでるだけじゃ当然だけどさ。

 ストーリーの展開やキャラクターの心情をもっと知りたかったけど、少し距離を置きたくなって、外に出たの。長居もできなかったし。

 適当にご飯を食べて、適当に散策してたら、いつの間にか夜で、あの公園に着いてた。

 夜空を見上げてたのは、なんとなくそういう気分だったから。

 思ったよりも星が見えた。

 だけど、見えただけだった。

 遠くに見えたものは案外近くにあって、けど絶対に届かない。

 自分が酷くちっぽけに思えた。

 みんなはどうなんだろう。

 私は、迷ってばかり。

 こんなものを誰もが抱えてるとしたら、押し潰されそうな私が弱いだけなのかな。

 いっそ壊れて消えてしまえたら、楽になれるのかなって。

 そんなことばかりが頭に浮かんでた。

 君が通りかかったのはその時だよ」


「……以上。私の話はこれで終わり」

 極力明るい声で西山は自分語りを締めた。

 沈黙がリビングを満たす。

 気軽には聞き流せない話だった。受け止めるには時間を要する内容だった。

 何も返せず、口も開けない姿を見かねて、西山は尋ねる。

「君はどう? 似たようなことを考えたりする? どういう人生にしたいとか、なんのために頑張りたいとか――」

「俺は、家族のため、です」

 反射だけで優路は答えていた。間は置かなかった。浮かぶものは一つしかなかった。

 根幹にあるそれだけは、揺らいではいけないものだからだ。

「即答なんだ……」

 西山は圧倒されるように声を出す。

 自分に欠けている重大なものを、優路の中に垣間見たような面持ちで。


「――羨ましい」


 感情が零れる。

 優路にとっては、できる限りの当たり前をこなしているに過ぎない。

 しかし、西山の呟きには憧憬の念が込められていた。

 まるで美しい何かに魅せられたような。

「私はずっと分からない。自分がなんのために生きているのか。なんのために生きたいのか。そもそも意味なんてあるのかさえも」

 その疑問はとても重たいものだ。

 誰もが直面する命題である。だというのに公言する機会の少ない議題でもある。

 同じように真剣に悩んだ日が、優路にもあった。

「俺だって、そこまで深く考えてるわけじゃ、ないですよ」

 率直な意見を打ち明ける。西山の口調や雰囲気が、誤魔化すことを躊躇わせている。真剣な悩みを抱える相手に、嘘を吐きたくないという気持ちがある。

 揺るがない答えを得ることは、決して簡単なことではない。

 考え方や価値観、主義主張は環境や経験で移ろい変わる。

 明確な正解を知る者はいない。

 用意されていないのだから、自分で見出す他に術はないのだ。

 だからこそ、様々な人間がいて、自由に活動することができる。

 その一方で、指針を見つけられなくて、迷い苦しむ人間もいる。

 人それぞれだ。

 各々が好き勝手に定めればいい。

 意味や価値は個人の中で生じるものだ。

 万人に共通の、断言に及ぶ思想は存在しない。

 それでも、優路に伝えられるものがあるとするなら。

「ただ、誰かを支えるために生きていけたら、とは思います」

 個人的で感傷的な願いを口にした。

「どうしてそう思うの?」

 西山は真っ直ぐな眼差しを向ける。瞳には期待が宿っている。

「俺自身が、一人じゃ生きていけないんだなって、実感したから」

 それは確かな経験に基づいたものだった。

 一人で生きていくには多くの問題がある。

 高校生でしかない存在にできることは明らかに少ない。

 家族に支えられて初めて生活を送ることができている。

 二年という時間の中で、優路が何よりも学んできたことだ。

 支える大変さを。支えられるありがたさを。本当の意味で理解している。

「凄いね、君は。しっかりとした意志があって」

 優路の抱えるものを知るはずもない。西山は実像よりも大きな輪郭をなぞる。

「そんなことないですよ。思い通りにいかないこともいっぱいある。日を追うごとにそう感じるばかりですから」

 出る言葉に迷いはなかった。卑屈でも謙遜でもない。

 優路の瞼の裏には仕事に励む二人の姿が焼きついている。懸命に努めるその姿勢から感じ取れたものがいくつもある。そんな家族がいるからこそ、深く意識せずとも思い知っている。

 一人では何もできないのだと。

 それは――もう一人も同じだった。

「少なくとも、私の目には、とても立派に見える」

 西山は言う。

 優路にとって、それは不意打ちだった。

「私……君のこと、好きになるかも」

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