02. 天邪鬼
家事を口実にして、優路はその場から逃げた。
どのような顔をすればいいか分からなかったからだ。
しかし、根本的な解決にはならなかった。
洗濯機から脱水の終わった衣類を取り出し、籠に入れてベランダへ向かう。
昨日の焼き回しのように西山は付いてきた。
「やっぱり男の子だなあ。私がこれ着ると大きいよね、きっと」
「早く干してくれませんか? 量が減らないんで」
「はーい。……あ、そうだ。下着は駄目だよ、私が干すんだから。……どうしても自分で干すって言うなら――」
「任せます」
スポンジを泡立てて、朝食で使った食器を手に取る。
隣に並んで西山は覗いてくる。
「洗いますか?」
「別にいいよ」
「じゃあなんで見てるんですか?」
「んー。色んな家事をこなしてる割に指が綺麗だな、とか」
質問と回答は噛み合っていなかった。
西山が眠っていた時には遠慮していた掃除機。
今日は姉が寝ているので容赦なくスイッチを押す。
「昨日みたいに代わらなくていいんですか?」
「大丈夫だよ。お構いなく」
「じゃあ何を見てるんですか?」
「優しい顔立ちをしてるなと思って」
優路はテーブルの足に掃除機をぶつけた。
新聞に挟まっていた広告をテーブルに広げ、目を通す。
西山は隣の椅子に座っている。
「そこまで魅力的な商品はなし、と。買い出しがないなら学校の課題を終わらせようかな」
「えー。折角暇なのに家でじっとしてるの? 勿体ないよ。デート……一緒に外へ遊びに行くのとかどう?」
「…………」
家事を口実にしても、優路に逃げ場はなかった。
姉とは違う意味で厄介だと、西山に対する捉え方を改める。
家出の経緯を聞いていたら、最終的に告白紛いの言葉を受けた。事実を事実として簡潔にまとめると、そういう表現に集約される。
異性を含む姉弟の弟として様々な経験を積んできた。姉を通して女性の言動に対する免疫は確かに持っている。
持ってはいるけれど。
この手の展開は学校生活を入れても初めてのことだった。抱いたことのない、こそばゆいものが胸の中でざわめく。
どのような顔をすればいいか、優路には分からない。
「なんだこの甘ったるい空気は」
対照的に、姉の感情ははっきりと顔に書かれていた。
寝起きであることに加えて、如実に機嫌が悪くなっていく。
「もしかしてあれか? シングルなあたしに対する嫌がらせなのか?」
二人はテーブルに並んで昼食を迎えていた。
西山の希望で昨日に引き続き、カップ麺を啜っている。二人揃って。
特筆すべきは、近い位置になるように一方が椅子の端に座り、体を寄せていることだ。
「先輩がそういう雰囲気をまとってるだけだ。俺は何もしてない」
「君のも食べてみていい?」
空気を読まない発言に、姉の眉がぴくりと動いた。
「勝手にどうぞ」
「じゃあ一口もらうね」
横からカップを嬉しそうに受け取る。
「……は?」
「だから俺は何もしてないって」
「何もしてなかったら女はこんな顔しねえ」
女性からの意見ではぐうの音も出ない。
しかし優路は積極的に口説いたわけでも、惚れさせるような見せ場を演じたわけでもない。姉と同じように、困惑している立場である。
すると、厳めしい表情に気づいた西山が首を傾げて問いかけた。
とても弾んだ声色で。
「どうかしたんですか? お姉さん」
「……なぜ休日なのにこんなにもイライラしなきゃならんのだ!」
「まあまあ落ち着いて」
「うるせえ! あたしの前でそんな幸せオーラを振りまくな余所でやれ!」
怒気を振り撒きながら姉はキッチンの冷蔵庫を開けた。
注いだお茶を一気に飲み干す。吐き捨てるように溜め息を漏らした。
「ん。そうか。そうだよな」
呟きの後、姉は二人の前に立って告げる。
「お前ら二人、デートしてこい」
「ええ?」
「おお!」
提案に対する二人の反応は正反対だった。
「何、急に?」
「さっき言った通りだ。よろしくやるなら外に出ろ。今日はいい天気だし。なんなら帰りが夜遅くになっても構わないぞ」
「いや、どうしてそうなるん――」
「ならはっきり言う。折角のあたしの休みが台無しになる前に出てけ」
「…………」
優路は察した。
これ以上姉の機嫌を逆撫でしてしまうと、悪い結果にしか結びつかないだろう。
「ねえ! お姉さんも構わないって言ってるよ? 遊びに行こうよ一緒に」
西山が言外に含まれた意味を正しく理解しているとは思えない。けれど優路が取れる選択肢は限られてしまった。流れに従うしか道はないようだ。
「じゃあ行きますか? 先輩」
「で、デートに?」
期待の眼差しが刺さる。
「デートって言ってやれよチキン」
ケタケタと笑っている姉を睨む。怖い怖いと言いながら、動揺など微塵もしていなかった。
「こんなに心躍らないことがデートであってたまるか」
一度優路が言い出すと、姉の行動は早かった。
西山が今持っている上着は学校指定のコートだけである。それでは味気ないと姉は自室のクローゼットを漁る。それに合わせてコーディネートはマイナーチェンジを繰り返していく。
「優路もちゃんとした格好に着替えてこい! あたしが前に選んでやったヤツあったろ? それにしとけそれに」
姉が視界に捉えていたのは西山だけではないらしい。
後で小言を浴びせられる事態を避けるために、優路は渋々クローゼットを開ける。姉が指していた服はすぐに見つかった。
インナーの上から厚手の白シャツに腕を通し、紺のジーンズをベルトで締める。そしてフードにファーが付いたブラウンのミリタリージャケットを羽織った。念のためにもう一度マフラーを探したが、優路の部屋にはなかった。
リビングで待機する。二人を待つこと十五分弱。
少し不安そうな西山と上機嫌の姉が二階から降りてきた。
「どうよ?」
なぜか姉が自慢げに尋ねてくる。
優路は目を合わせようとしない西山の姿を確認する。
ベージュのチェスターコートの下に、トップスのニットが茜色を覗かせる。グレーのプリーツスカートは丈が短く、そこからストッキングで覆われた足がすらりと伸びていた。
じっくり観察されたことが恥ずかしかったらしく、西山は巻いていた紺のマフラーで表情を隠そうとする。あまり隠れてはいない。
一見したところで、不安がるほどの不自然な点は見受けられなかった。
姉の視線が伝えるべき言葉を催促してくる。
「似合ってますよ」
「そうなの? 今まであんまりオシャレな格好してこなかったから怖いんだけど……」
「姉さんのセンスはまあ、癪ですが本物なので。心配しなくても大丈夫です」
「愚弟の言い草はともかくとして……。みさちゃんは可愛いんだから自信持ちなって。ほら、ちょっとお二人さん。一緒に立ってみそ」
言われるがまま並んだ姿を、姉は唸りながら見比べる。
「クソ、いい格好しやがって。気に入らん」
「今になって言うなよ」
「はあ嫌だ嫌だ。デートとか生意気なんだよ。こんな可愛い子を捕まえちゃってさ」
「うるさいなあ。デートと称して弟と買い物に行く暇があったら彼氏探せよ」
「……ほほう。喧嘩がしたいなら素直にそう言えって。私の弟に生まれたことを泣いて謝らせてやる」
姉はにっこりと微笑んだ。子供が泣いて逃げ出すような迫真のスマイルである。
だが、それで臆していては弟など務まらない。
「はいはい。デートしてくればいいんだろ? 遊んでくるよ。……そうだ。俺の代わりに洗濯物取り込んでおいてね。帰る時間によっては明日のお弁当作れないから。その辺もよろしく」
「無理強いは良くないよな。そんなに嫌だったら無理に行かなくても――」
「ねえどこに行く? 今浮かぶだけでもいっぱいあるよどうしようっ」
「とっとと出てけバカヤロー!」
姉は粗雑に二人を送り出す。
靴を履いて、外の空気に触れる。
ドアが完全に閉まるより少し前に、優路は聞いた。
「楽しんできな」
その言葉だけは、純粋な気遣いに満ちている。
素直ではないなと優路は苦笑を零した。
隣を歩く西山は期待で胸を躍らせていた。
「君の口からも聞けたことだし、存分にデートを楽しもうね」
「今のは売り言葉に買い言葉であって、別に俺は」
「…………へえ?」
「さて、楽しいデートにしますか。先輩」
「おー!」
西山の笑顔が光る。
流れに任せていた優路も、素直に今日一日を楽しもうと思うことにした。
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