04. 氷解
――空間に振動が伝わる。
玄関のドアが開く音だった。次いで足音を耳にする。
あるはずもないのに、微かな可能性が優路の頭を掠めた。
当然、期待は現実にならない。
リビングに入ってきたのは姉だった。
「はあ疲れた。やっぱ仕事だけじゃ体力落ち――うわっ!?」
電話や筆記用具などが置かれたチェストに、優路は背を預けていた。
「どうしたの? 凄い顔してるよ。……何かあったの?」
「なんで、いるの」
姉はテーブルの上にある弁当箱を一瞥した。視線を追って優路もそれを察知する。
「忘れ物を取りにね。……それはいいの。何があったか説明しなさい」
「弁当持って早く行きなよ。遅刻しちゃうよ」
「説明しなさい」
姉は頑として譲らなかった。観念して、優路は口を開く。
目覚ましが鳴らなくて焦ったこと。朝食を西山が作っていたこと。驚いて怒鳴ってしまったこと。堪えかねた西山が出て行ったこと。把握している限りの状況を正直に伝えた。
「追いかけなさいよ」
優路は肩を掴まれる。
「そもそも家事を手伝ってくれただけで、何ショック受けてんの?」
姉からして見れば当たり前の感想だった。
それでも、その指摘を受け入れられない。
「気を利かせて家事を肩代わりしてくれたんだよ? それぐらい優路だって分かってるんじゃないの?」
優路は知っている。遅まきながら理解している。
「塞ぎ込んでないで追いかけなさい。このままにしたら絶対後悔する。ほら早く動いて! 悩む必要なんてないでしょ!?」
ぴくりと優路の唇が小さく揺れた。
「……悩みだってするよ」
「え?」
それは震えとなって全身に広がる。同時に抜けていた力が戻ってくる。
けれど、回復しているのとは違う。握った拳は酷く強張っている。
「あんたにとってはその程度でも、俺にとっては、その程度なんかじゃないんだ!」
張り詰めた声が空気を劈いた。
「迷惑をかけたくなくて、支えたくて、ずっと頑張ってきた。二人みたいに、家族のためにできることをしたかった。ずっとそれだけを考えてきたんだ。母さんみたいに。あんたみたいになりたかったんだ!」
目を見開いて驚く姉を置き去りに、優路の気持ちは高ぶっていく。
逆に肩を掴み返した。
「あんたはいつもそうだ。普段はヘラヘラしてるくせに肝心な時は悩まない。何かのために、それだけのために頑張れる。今も昔もあんたは変わらない。あの時もそうだった。父さんが亡くなって、母さんが働くようになって、あんたは就職した。進学を取り下げて、彼氏と別れることになってまで、就職を選んだ」
閉じ込めていた思いが、言葉になって破裂する。眼前の距離でも構わず叫ぶ。
「どうしてだよ!? 部活しかしてこなかった馬鹿のくせに、彼氏と同じ大学へ行くために、猛勉強してたんじゃないの? それをずっと心の支えにしてきたんじゃないのかよ! なのに……それなのに! 推薦が決まった大学を蹴って、心待ちにしてた恋人との時間を棒に振って、あんたは家族を優先したんだ!!」
涙が溢れても、声が嗄れそうでも、際限なく込み上げてくる熱がある。
「だったら、俺だってそれに答えられるくらいの働きをしないと、何も返せない。だから、だから俺は、ずっと――」
続く言葉を吐き出すことはできなかった。
母の温もりにも似た優しさが、優路の体を抱き留める。
「そっか。だからお前は、家のことに専念してたんだね」
今までに聞いたこともない、穏やかな声だった。
「ずるいよ、あんたは……。いつだってそうだ」
泣きじゃくる優路の声にならない声を、頬から伝い落ちる滴を、姉は黙って受け入れた。
自然に泣き止むまで、姉は口を挟まなかった。
回されていた腕を軽く叩くとこで、優路は落ち着いたことを伝える。密着している二人はゆっくりと体を離した。
「大丈夫?」
「まあ、多少は……」
日頃見せる態度が嘘のようだった。姉の表情は至極真面目なものに切り替わっている。逸らすことなく優路を見つめ続けていた。
その眼差しで自覚と確信を得る。
弟では姉に敵わないのだと。
優しい姉を持つことができて、本当に良かったと。
一つの諦めと多大な感謝は、反発することなく腑に落ちる。
穏やかな感傷に浸っていた優路の両手に、姉が自身の手を添えた。
「今からあたしの考えてることを話す。よく聞いてなさい」
優路は黙って頷いた。
今までに姉弟の間で繰り返されたことは、大半がくだらないやり取りに違いない。
その二人が、過去に類を見ないほどの真剣な顔で、向き合っている。
「優路の言う通り、あいつのことは……本気で好きだったよ。
後悔だってないわけじゃない。
でも、何度同じ選択を迫られても、あたしはきっと今のあたしの在り方を選ぶと思う。
嫌な言い方だけど、最悪恋人なんて替えが利くのよ。
男なんて世の中には腐るほどいるんだから、いつか素敵な人と巡り会えるかもしれない。
だけど、家族は違う。
今のあたしにとっての家族は、母さんと、優路と、あたしの三人しかいない。
だからこそ、あたしは就職を選んだの。
何かあった時のために、自分の足で、家族を支えられるようになるために。
あたしは、あたしの大切なもののために、あたしの意志で今を生きてる。
優路がそれを気に病む必要なんてないの。
自分の大切なもののために、生きていいんだよ」
柔らかな双眸が優しく、諭す声音は温かいものだった。
「そう言われても、俺は……」
「正直になりなって。今からでも遅くないんだから」
「何が?」
「みさちゃんのこと、好きなんでしょ?」
優路は否定しなかった。
「でも、誰かと一緒に生きていくなんて、俺にはまだ――」
「難しく考え過ぎ」
姉の指先が額を弾く。
「そんな細かいこと言ってたら、人どころか色んなものを好きって言えなくなるよ。優路は好きな食べ物や音楽やテレビ番組に対して、絶対の特別な理由があって、好きだと思ってるわけじゃないでしょ?」
「それは……そうかもしれないけど」
「大事なのは過去に抱いた理由じゃない。今の気持ちだよ。それは今伝えなきゃ意味がない。時間が経ってからじゃ……失ってからじゃ取り返せないの。優路だって知ってるでしょ?」
反抗期の只中に父を亡くした姉が、そう問いかける。
言葉を介さずとも二人は答えを解っていた。
「すべてを一度にこなす必要なんてない。……ていうか無理。人間が全部の仕事を最初から完璧にこなせるなら、路頭に迷う人なんてこの世にいないの。だから一つずつクリアしていけばいい」
姉は、優路の手をそっと握る。
温もりに包まれる。
「ねえ――
――優路は今、どうしたい?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます