06. 選択肢

 いつの日とも変わらない公園。

 夜になると人影を見ることの方が珍しい。

 二人だけがその静けさの中にいる。

「そこに座って」

 西山はくたびれたベンチを指す。

「……先輩は座らないんですか?」

「うん」

 腰を下ろしたのは優路だけだ。その前で西山が一人立っている形になる。

「君は、自分自身のことをどう思ってる?」

 前触れのない唐突な質問だった。

「なんですか、急に」

「お願い。答えて」

 真剣な瞳だった。逃げることを許さないものだった。

 言われるままに優路は心の中を探る。

「漠然とし過ぎてて要領を得ないですけど……。そうですね、頑張れてはいる方だと思います」

 浮かんだ気持ちをそのまま言葉に変える。

「毎日することは多くて大変だけど、慣れてくれば、それはそれで楽しくて。自分の時間はあんまり持てないけど、その分家族の役に立ててるならいいかなって。……そんな感じです」

 特に意識したわけではない。

 それでも、優路の中にあるのは、家族のことだった。

「やっぱりそう。お姉さんの言った通りだ。君の中心はそこなんだね」

 西山はぽつりと呟いた。

 その瞳は、寂寥とも憧憬とも知れない淡い色で濡れていた。

「君はずっと、そうやって生きてきたの?」

「どういう……意味ですか?」

 理解が追いつかない。

 西山が何について言及しているのか。

 優路には分からない。

「そんな生き方を続けてたら、いつかパンクしちゃうよ?」

 労るような声色で西山は話を続ける。

 僅かに潤んだ目が、真っ直ぐ優路だけを見据えていた。

 その事実が、あるいは言葉が、早鐘を打つように平静を乱す。

 これ以上は駄目だと、根拠もなく心臓の鼓動が告げている。

「君はもっと自分のために生きるべきだと思う。私が言えることじゃないけど、それでもそう思ってしまう」

 一度深く息を吐いて、西山は改めて優路と向かい合う。

「せめて、私は素直になろうと思うんだ。……君は言ってたよね。誰かのために生きられたらって。私もそう在りたいって考えるようになったの。誰かが必要としてくれたら、私は頑張れる。前を向ける気がするの」

 聞く限りでは良い流れなのだろう。

「でも負担になるのは嫌。私だけが寄りかかっちゃうと、きっと駄目になる。自分の我が儘だけを押しつけるわけにはいかないから」

 ただし、この話が向かう先にあるものは。

「迷惑を承知で誰かを頼ることなんてできない。でも、もしそれだけじゃないとしたら……」

 表情に期待を浮かべて。

 一世一代の決心を秘めて。

 西山は乞うように問いかける。


「もし、私をあげるって言ったら――

 ――君は私を、必要としてくれる?」


 言葉もその眼差しも、今までの何より真摯なものだった。

 だからこそ、危うさが滲んでいた。

 その顔はほんのりと赤い。まるで熱に浮かされているようでもある。

 躊躇いのなさが優路の不安を煽った。

 西山の抱える問題の、一つの答えにはなるのかもしれない。

 しかし、それは代用できるもので埋め合わせているだけなのだ。

 根本的な解決策であると、強く断言はできない。

 何より優路は人に支えられている立場の人間だ。誰かを支えることは、まして人一人を抱えることは容易ではないと知っている。

 だから、応えることはできなかった。

 目を逸らして下を向いた。見て見ぬ振りをした。

 強く望まれていることを自覚さえしたままで。

 押し黙っていると、穏やかな声が届く。

「困らせちゃったね。ごめんなさい」

 まるで何かを悟ったような口調。

 見上げた先にあるのは、堪えるために作られた笑顔だ。

「……君が後先考えずに安請け合いする人じゃなくて良かった。初めて会ったあの時から、君はずっと優しいね」

 優路は目の当たりにする。


 涙が頬を伝うのに、時間は必要なかった。


 見ているだけで、胸が張り裂けそうになっている。

 それでも口を閉ざすのは、不用意な優しさだけでは足りないからだ。それでは解決しない問題があると、優路は考えているからだ。

 選ぶことには責任が生じる。

 地面に零れ落ちるものを背負うには、覚悟が要る。

「頼るばかりでごめんね。なるべく早いうちに出て行くから。少しの間だけ、私を家に泊めるのを、許して」

 許すも何も、家に招いたのは優路だ。助けたいと思い、手を差し伸べたのが優路だった。

 だというのに。

 西山は首周りに手を伸ばす。

 その指先が触れたのは、外に出ている時はずっと巻いていたマフラーだ。

 解いていく。

 綺麗に折り畳む。

 優路の近くまで寄って、膝に乗せていた両手の上に、そっと置いた。

「これ、返すね」

 行われたのは単純なことだ。

 このマフラーは姉に奪われていた物で、西山に貸していた物で、正当な持ち主である優路の所有物だ。本来の場所に戻ってきただけの話だった。

 深い意味はなのかもしれない。それ以上の理由はないのかもしれない。

 けれど、優路はその意図を考えてしまう。

「先に、帰ってる……よ」

 ついに堪えかねた西山が顔を背ける。

 公園の出口を目指す足取りが徐々に早くなっていく。やがて駆け足に変わる。

 その背中を、優路は追いかけることも、目を向けることさえできない。

 足音が、距離が遠ざかる。

「優しくなんてない。俺は、弱いだけだ……」

 吐き出す溜め息に行く先はない。だとして言葉を飲み込めるほど強くはなかった。

 支えられてきた分、支えたいと願ってきた。

 追いつきたい家族の、二人の背中は大きく、遠いままだ。

 優路は自分の幼さに辟易する。

 選択肢は限られている。しかもその中に絶対の正解が用意されているわけではない。

 安易に答えない程度には分別があって。

 しかし、想いに応えられるほど寛大ではなかった。

 ――君はずっと優しいね。

 額面通りの意味でないことを優路は理解している。真剣に向き合おうとしたがために返した言葉を、改めるつもりはなかった。

 けれど、違う答えがあったのではないかと、思い直しては心に問いかける。

 結局は同じ結論に辿り着くというのに、優路は何度も考える。

 繰り返し、繰り返し悩む。

 寒い夜の公園で一人。

 ようやく溢れた滴を、手許のマフラーが受け止めた。

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