05. 夜空の光
年月を経ても、価値観を改めても、変わらない関係性がある。
家族にもそれは当てはまる。岩崎家も例外ではない。
今日と昨日に違いがあるとすれば、仕事から帰った姉の気分一つだけだ。しかし、それ次第で優路の一日はどのようにだって変化するのである。損の数を数え始めると切りがない。
一人分の遅い夕食が終わり、後片付けを進める優路に姉は問いかけた。
「何かさあ、甘いものない?」
「今はヨーグルトくらいしかないよ。あとはお菓子」
「菓子かー。食後に菓子ってのもなー」
首を傾げながら姉は唸る。すると名案でも浮かんだのか表情が明るくなる。何を言われずとも優路は察した。経験のある既視感がこの後の展開を予期させていた。
にこにこと笑う姉が口を開く。
「近くに新しくできたコンビニあったじゃん?」
「……新聞にチラシ挟んであったね」
「それそれ。で、あたし、仕事で疲れてるじゃん?」
無言の圧が察しろと訴えかけていた。長年受け続けてきたそれだ。
流しきれなくて優路は早々に諦める。
「…………何をご所望で?」
姉は笑顔で注文を告げた。
吐息が白い。
手に持ったコンビニのビニール袋が音を立てて揺れる。
お願いという名の命令を承り、買い出しに行った。その帰り道である。
姉が希望した苺クリームのロールケーキは最後の一個だった。品切れで別のスイーツを選ぶという博打を優路は避けることができた。
その一品だけというのも気が引けたので、優路は他にも買い物をした。袋の中にはスナック菓子や炭酸飲料も入っている。
角を曲がる。残りの道は登下校に使う、馴染みのある道だ。
公園に差しかかる。
横目に覗くと、外灯の光に照らされる人影が見えた。
覚えがある。数日前にも似たような光景を優路は目にしている。
ブランコに座っていたのは、案の定西山美聡のようだった。どこか所在なさげにブランコは揺れている。私服の上から学校指定のコートを羽織っているのだが、鎖に触れているのは素手だ。寒い日に率先してすることではない。
状況を整理する。前と同じく夕方であれば、違和感はあっても不信感はなかった。コンビニの時計が二十二時を刻んでいたことを、優路は思い返す。
この時間帯を公園で過ごす理由は浮かばない。待ち合わせだとしたら、夜遅くに設定する必要も、夜遅くまで待ち続ける義理もないはずだ。
だとすると、西山は自分の意思で、夜の公園に残っていることになる。
不確かな噂を優路は聞いていた。
――今日、西山先輩が無断欠席したんだとさ。
先日の会話を振り返る。予定していた模試を受けず、期末テストでは高得点を取れず、終業式を無断で休んでいる、という話だった。加えて遅い時間に公園にいる事実。
夕方に見かけたのは、三日前のことである。
いつまで公園にいたのか、家に帰ったのかは定かでない。
その翌日に学校を休んでいる。
家から出なかったのか、違う場所にいたのかは知る由もない。
三日前と同じように西山は公園に残っている。
なぜ留まっているのか、家に帰らないのかは分からない。
それらを、ただ一人だけが知っていて、手の届く場所に立っている。
優路は深呼吸をした。改めて状況を呑み込む。事態は思うより深刻なのではないか、という疑念が胸の中で膨れていった。
一向に西山は動く気配を見せない。慌てている様子さえない。
もし。
もしも、手を打たないのではなく、打てないのだとしたら。
夜に女の子が一人。見過ごすには状況が悪かった。
素通りするという選択肢を優路は捨てる。意を決し、公園の敷地内へ入っていく。
静けさと土を鳴らす足音のせいもあって、西山はすぐに優路の姿に気づいた。
初めは通り抜けるだけだと考えたのだろう。確認しただけで余所を向く。しかし、ブランコの柵の前で優路は立ち止まった。
西山の顔が上がる。街灯の光が二人の顔を薄く照らし出す。
訝しげな視線を受け止めながら、優路は声を発した。
「こんな時間に、一人で何してるんですか?」
「君には関係ないでしょ」
優路は手始めに差し障りのない言葉を選んだつもりだった。
反応は望ましくない。間近で耳にした西山の声は他者を寄せつけないものだ。
けれど引き下がりはしない。どうすべきかはとうに悩み終えている。
「数日前の夜にも、この公園で先輩の姿を見かけたので、気になって」
懸念はまだ憶測の域を出ないものなので、優路はすでにある事実を述べた。
一拍の間を置いて西山が応える。
「……ふーん。君は私の後輩なの?」
「はい。二年生の西山美聡先輩ですよね」
「そっか。そうなんだ」
確認にどのような意図があったのか。すぐ後に続く声はなかった。
次の言葉を口にするべきか逡巡していると、唐突に西山が夜空を見上げる。
「星を見てたの」
少し遅れて、最初の質問への答えなのだと優路は悟る。声色はいくらか落ち着いたものに変わっていた。
「ええと……でもこの辺りは、それほど星が見えないんじゃないですか?」
この街は都心と言えるほど賑わっているわけではない。けれど田舎と呼べるほどの田舎でもない。生活に不自由するわけでもなく、最寄り駅の周りであれば、大概の店は揃っている。夜であっても街が光を失う日はない。望遠鏡を使わなければ、目に入る星の数は限られてくる。
そもそも星に対して特別興味を持たない優路は、街の夜空を見上げる機会がなかった。
「二等星くらいまでなら見えるんじゃない? 詳しくは知らないけど。見る前から、大して星は見えないって思い込んでるだけよ」
なぜか、その言葉は不思議と優路の心に染み込んだ。
まるで西山に促されたように夜空を見る。満点の星空には程遠い黒が広がっていた。しかし注視していると小さな点を捉えることができる。点同士の間隔は広く疎らだが、確かに頭上で煌めく星の存在があった。
「星が好きなんですか?」
「そうでもないかな」
「じゃあどうして?」
尋ねると、一度視線を落とした。少しの間を置いて西山は答えた。
「ただ、いつでもできたはずなのに、してこなかったことを、改めてしてみたいと思って」
口調は平坦なものだったが、その表情には一抹の寂しさらしき色が混ざっている。そのように優路は感じた。
「実感はないけど、私って校内じゃ有名なんでしょ? 君は私のこと、知ってるの?」
世間話でもするような軽さで西山は尋ねる。ブランコが音を立てて揺れた。
「学年も違うので詳しくは……。何かと表彰されてる凄い人だってことぐらいしか」
「それだけ?」
問われ、優路は言葉を詰まらせる。
違う学年で噂されるほどと言っても、直接関係があるわけではない。テレビで頻繁に見かけるタレントの、詳しいプロフィールまでは知らない場合と同じだ。自分で調べようとしなければ情報は入ってこない。
だから、頭に浮かんだのは最近聞かされた話だった。明るい内容というわけでもない。優路の声が僅かに強張る。
「後は、期末テストの結果が芳しくないことと、終業式を休んだこと……くらいです」
「……そっか。話って簡単に広まるのね」
まるで他人事のように西山は呟く。明らかな肯定も、確かな否定もない。
「もしかして、先輩がここにいる理由と、関係がありますか?」
優路は、ついに聞くべきことを聞いた。
一歩踏み込む。予想が見当外れでないのなら、力になりたいと素直に思っている。
けれど。
小気味良く揺れていたブランコが止まる。
「関係があるって言ったら、何? 私を助けてくれるの?」
語気が強まる。西山の眼差しが攻撃的なものへと変わる。
少しだけ埋まったと感じられた距離は、あくまで少しの範疇を出ない。余計な一言だっただろうかと優路は考えた。苛立ちを帯びた視線がそう思わせる。
しかし、西山が責めているのは、他人の事情に干渉しようとしたことではなかった。
そこにあるのは、自嘲だ。矛先は西山自身に向けられたものだった。
堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「私って本当は弱いんだ。誰かが思ってる以上に。自分が思ってた以上に。何もできない」
「でも、みんな先輩のことを凄い人だって、言ってます」
「その評価に量はあっても質はない。……でしょ?」
諭すように。西山は初めて、優路の顔をしっかりと見据えた。目に力はない。噂とは対照的に弱々しい姿を覗かせるだけだ。
「誰かに相談したりはできないんですか?」
素直に思ったことを、そのまま口にする。
「いいの。これは、自分だけで出さないといけない答え、だと思うから」
その反応は流れるように返ってきた。
優路は予想する。西山にはそもそも、他人を頼るという判断がないのではないか。なまじ自身の能力が高いものだから、すべてのことを一人で解決しなければいけないと思っているのではないか。
西山の在り方は、西山という個人の中で完結しているのかもしれない。
「心配してくれてありがとう。ちゃんと、自分でどうにかするから」
それは細やかな配慮で覆われた、拒絶を意味していた。
優路は一度、深く呼吸をする。
はっきりと言えることは一つ。
何かを抱えている西山は、助けを求めていない。
その選択肢さえ存在していないのだろう。
だからこそ、手を差し伸べたいと優路は思う。
また一歩、踏み込んだ。
「どうにかできるなら、どうしてこんな場所に一人でいるんですか?」
「っ。それは……」
図星であったのか、西山の口から続く言葉はない。
それをいいことに優路は勝手な想像を述べる。
「先輩って挫折したことあります?」
「え?」
脈絡のない質問を受けて、間の抜けた顔を見せる。覚束無い表情の中に、答えが隠れているようだった。
返答を聞く前から、優路はどこか合点を得たように笑う。
「迷った時はどうするとか、立ち直り方とか、知らないでしょ?」
西山は戸惑いの中で言葉を受け止めていた。学校で遠目に見かけた時とは似ても似つかない姿をしていた。
噂など当てにはならない。実際の西山を知る者が何人いると言うのだろう。あるいは、本人さえも自身の在り方を自覚していないのかもしれない。
能力が高く、人が好き勝手に評価を下そうとも、前提にあるべき事実がある。
この場にいるのは、なんの変哲もない、ただの十七歳の少女だ。
当たり前のことを優路は正しく認識する。
ブランコを囲う柵を越えて、確かな意思を持って、西山の傍へ歩み寄る。
何も知らない子供に教えるように、誠実に示す。口調は自然と穏やかなものになった。
「人を頼ることは、悪いことじゃないですよ」
手を差し出す。
西山は不思議そうに優路を見つめた。遅れてその意味を悟る。応じるように手が上がり、指先に触れかけた。
中途半端な位置で動きが止まる。躊躇いがあるのか、眼差しは宙を彷徨っている。優路は背を押すような気持ちで、優しく西山の手を取った。
氷にも似た冷たさに驚く。冬の外気に身を晒していれば当然の温度だ。平気なのか痩せ我慢なのか、寒さに震えている様子もない。
人を頼ることを知らない、西山の心情が表れているようだった。
一言だけ、衣擦れのように小さい声が漏れる。
「……温かい」
平凡でありきたりな感想だった。けれど優路の耳にはしっかりと残る。
零れた呟きは微か。突然の温もりに指が慣れないのか、繋いだ手に伝わる力の加減はぎこちないものだ。
それでも、握り返される感触がある。
見過ごさなくて良かったと、優路は人知れず安堵した。
気が抜けると同時に、思い出したように身震いする。家を出る前は近場のコンビニへ行くだけのはずだった。少し厚めの上着を羽織ったのみの軽装が仇となっている。西山もコートこそ身に着けているものの、寒さを凌げているとは言い難かった。
一先ずは冷え切った体温をどうにかしなければならない。
「自分の家に帰ることはできないんですか?」
西山は首を振る。
「友達の家に泊まるとかは?」
同様に首を振る。
「なら、俺の家に来ますか? 嫌なら断ってくれていいんですけど」
駅の近辺であればビジネスホテルや漫画喫茶、ファミレスなども揃っているが、二人がいる公園は住宅街の中。見渡しても住宅が並ぶだけである。夜を明かすのに適した施設はない。
自宅に招く、という方針は消去法で最後に残ったものだった。
対して、西山は小さく頷いた。
「自分から言っといてあれですけど、いいんですか?」
「大丈夫。……他に頼れる人もいないから」
当人が問題ないと言うのなら、提案を取り下げる理由はない。
方針は決まった。後は家に向かうのみだ。
「じゃあ、付いてきてください」
優路は進行方向へ体を動かそうとする――その前に手の平の感触に目を落とした。先程から繋いだままになっている。そろそろ離した方が良いだろうかと考慮していると、心中を察したのか、西山は一言だけ発した。
「寒い」
表情も変わらないまま、握る手に力が入る。言外に解く意思はないと主張するようだ。
そんな西山の姿を、優路は微笑ましく感じた。
「寒いなら仕方ないですね」
言うと、手を繋いだまま歩き出す。
応えるように、優しく西山を引き連れて。
誰もいない公園を二人は後にした。
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