ep27.5/36――断章――
とある夜、とある住宅街の一角。少し肌寒くなって来た空気に、少女たちの弾むような声が飛び交う。
普段と代わり映えしない通学路に、彼女たち以外の姿はほとんど見当たらない。街灯に照らされた夜の小道を歩くのは、少し遅い部活帰りの少女たちだった。
一足早い秋がすっかり晩夏の空気を押し流し、日が落ちてからは夏仕様のブレザーが頼りなく思えて来る。そんな季節に、1人の少女がぶるりと震えた。
「はぁー、さむっ」
そろそろマフラーが欲しいかも。
サイドテールで髪を束ねているものだから、首元が寒くて仕方ないのだ。髪を下している友人を見て『温かそうだなぁ』と思った頃には、早速マフラーを買いに行く決意が固まっていた。
ちょっとお店に寄って行きたいんだけど、どうかな。
友人たちにそう提案しようとした少女は――――ハナは、また1人と分かれていった友人に手を振ってみせる。
「私はそこだから」
「じゃ、あたしも。ばいばーい」
「また今度でいっか、じゃあねー」
また明日。
また今度。
無邪気な約束を交わす少女たちは、これから先も変わらぬ日常が続くと信じる。もちろん進路だとか、卒業だとか、今から考えなければならない事は山ほどあったけれども、憂鬱で待ち遠しい明日は変わらずやって来るのだ。
太陽が昇れば、決まって朝が来るように。
彼女たちだけではない。この街も、この空も、空気も、明日を信じて疑わぬ平穏に包まれている。だからこそ、
だから、前触れらしい前触れは何一つ見当らなかった。
臨界点に達した瞬間、その平衡は無音の内に破れ去って行く。
「ん、あれ……なんか暗いかも?」
「そりゃあ夜だし」
「それはそうなんだけど、なんか変じゃない?」
ふと立ち止まったハナは、何度か瞬きを繰り返してみる。
街が、暗い。
つつましやかに夜を追い払っていたはずの街は、黒いペンキに塗りつぶされてしまったようだった。うすぼんやりと照らされていたビル群のディティールは、粘度を増した闇の中に埋もれ始めている。
そして街灯に照らされるハナの頬には、冷たい感触が走っていた。手にとった途端に儚くも融けて行くそれは、雪の一片だ。
「えっ、雪!? まだ早いってば……」
ハナは立ち止まったまま、思わず夜空を見上げていた。
今は頭上から注ぐ街灯の光だけが、ひときわ明るい。そう感じられた理由を悟って初めて、彼女は自分がひどく怯えている事に気付いた。
――――月が見えない。
今夜はそんな天気じゃなかったんだけどな。
先ほどまで見えていたはずの月は、分厚い雲に覆われてしまったらしい。どんなに頑張ってもそれが想像力の限界だった。途方もなく大きな影が夜空を埋め尽くしつつある事には気付けなかったし、それ以前に理解出来ていなかった。
ましてや、影が
上空で次々に灯っていく真っ赤な光を、ハナはしばし唖然と見つめる他ない。
「なに、何なの……?」
夜闇を抉じ開けるように、赤い灯火が高度600m近い上空に浮かび上がっていく。
一対のツノ、槍を手にした人型の影。まるで冗談か何かのように街に突き刺さっているソレらは、視界に収まるだけでも6つはいる。
静寂。いやに静まり返った空気が、現実感を欠いた街を押し包んでいた。
「……っと!」
肩に触れていたはずのサイドテールが、ふわりと前に流れて行く。
背を軽く押されたような気がして、ハナは咄嗟に手を出していた。このままでは転んでしまう。徐々に近づいて来るアスファルトに向けて伸ばした掌は、遂に地面に触れることはなかった。
爆風。鼓膜を殴り付けていった轟音でほとんど麻痺した身体は、まるで木の葉のように舞い上げられる。
――――あれ、なんだろ、これ。
一体、なにが起こったのかも分からない。
唐突な無重力感に包まれた直後に、全身が路面に打ちのめされていた。眼には見えない、しかし実在的な暴力に翻弄された全身は、既にあちこちが燃えるように熱くなっていた。
「……っ、ぁ……?」
何か口にしたはずなのに、辺りはひどく静かなままだった。
そこら中で燃え始めた民家も、暗雲が渦巻き始めた空も、行き交う人たちの悲鳴も、聞こえて然るべきなのに何も聞こえて来ない。
――――おかしいな。
何が起こっているのかは、未だに理解できていなかった。
しかし、何をすべきかは身体が理解してしまっていた。
ひどく静かな世界の中、ハナはふらふらと立ち上がっていく。妙に重たくなった身体を引き摺って、既に原型の無い夜道を歩き始めた。
口をぱくぱくと開けてみるものの、声が溢れているのかどうかもよく分からない。一方で自分の身から零れだすモノには気付かぬまま、ぴちゃ、ぴちゃり、と薄く積もった雪に赤い滴を吸わせていく。
――――ねぇ、みんな……どこに、行ったの。
よくよく見渡してみれば、いた。
倒れたコンクリート塀の下に、遠くで崩れた民家の屋根に、そして足元に。彼女たちはあちこちに散らばってしまっていたから、なかなか気付けなかったのだ。
きっと、何か恐ろしい光景を目にしているのだろう、とは思った。
しかし、パニックを起こせるほどに思考が回らない、どろりと凝固した思考が頭の中を埋め尽くしている。ひどく寒い。
ただ、今は歩かなければならないと思ったから、再び歩き出す。
生温い感触が靴下を濡らしていったかと思うと、足が滑り始める。余計に強く足を踏み締めると、上手く歩けずに転んでしまっていた。
霞む視界で身体を見下ろしてみると、アスファルトが視界の左半分を覆っている。そして上手く踏み出せなかった右脚に、何か氷のような破片が突き刺さっている事に気が付いた。
抜こうとは思えなかったし、手が滑って上手く力を込められない。
痛みを感じるには血を失い過ぎていたから、その事にさえ気づかずにハナは立ち上がって行った。
ここから逃げなきゃ。
ここでみんなを探さなきゃ。
相反する思考は、彼女の現実感をさらに薄れさせていく。
だから、見上げた夜空に
数珠のように連なる月は、今や夜空を端から端まで縦断している。あまりに巨大で人型と意識する事さえ難しい影たちを、白く冷たい月光が照らし出している。
――――だって、こんなの有り得ないよ。
逃げた。朝が来れば、と思いながらひたすらに足を動かしていった。
朝が来れば、太陽さえ昇れば明日がやって来る。
みんなとも会える。
這って、転んで、逃げて、そしてようやく朝がやって来た。いつしか路上に倒れ伏していた彼女の顔を、天から降り注いできた光が撫でて行く。
明日がやって来たのだ、とハナは遠のく意識の中で理解していた。
――――違う。
もう動くことも叶わないハナは、何の因果か、最後の最後に冷静さを取り戻しつつある思考を恨むしかなかった。
夜明けにしては高過ぎる陽光は、やがてその正体を現していく。
強烈な逆光の中に潜んでいるのは、一匹の蛾だった。
月光を押しのけ、夜中に太陽の如き炎の塊が降り注いできたのだ。火中を潜り抜けて来た蛾は、そのまま地上近くで大きく羽ばたいて見せる。
ばさり。
超高温の翅が全身を包んだかと思うと、そのシルエットは人型へと解けて行く。
紫炎を衣のように纏いながら、月光を引き連れた巨人は地面に降り立つ。ちらちらと舞っていた粉雪を融かし、噴き上げられた火の粉は天をも覆い尽くしていった。
もう何が起こっているのか分からない。人智を超えた巨人たちが降りて来る様を、ただ呆然と見つめる以外に何が出来ただろうか。
ハナはもう、炎の巨人から目を離せなかった。
そして、おおよそ瞳にさえ見えない三つ眼が輝き出すと、離れていてもなお肌が焼かれそうなほどの熱量が放射され始める。
季節はずれの冷気に閉ざされていた街が、一気に灼熱へと反転する。
そして、視界が白く染まる。
遠くにそびえる巨人から膨らむ光。それが自らに向けて降って来る炎だと知った時、既に少女の身体は蒸発していた。
数百万という人が暮す街と、数百という鬼を一瞬で融かし尽くす炎の巨人。最期の瞬間まで、なおも超然と輝く緑の三つ眼が印象的だった。
最後まで見ていたあの眼を、あの月を、自分は忘れてなどいなかった。
そう、忘れられるはずが……なかったのに。
それが、100年以上の隔絶を経て、ようやくハナの中に蘇った最期の記憶だった。
* * *
実時間にしてほんの数秒後、ハナは意識を取り戻そうとしていた。ゆっくりと瞼を開けていけば、目の前に広がり出すのは一面の闇だった。
彼方に瞬く星など1つも見当たらない、ただただ暗いだけの虚空。
遠近感が機能しないほどに遠大な空間を見上げ、ハナは自分が月面上に寝かされている事を悟る。背に添えられた手に体重を預けると、今度は苦しげに歪むアヤカの横顔を視線でなぞってみた。
何か言おうとしたのは間違いない。
しかし、何を言えば良いのかが分からない。
ハナはぎこちなく身じろぎすると、腕に纏わりつく炎を散らしていった。炎が剥がれることは、やはり無い。
いや、違う。
自分は本当に、生きているのだろうか?
ハナは胸に手を当て、心臓がきちんと脈打っていることに安堵する。掌から伝わって来る鼓動は確かで、少なくとも止まりそうな気配など無い。
しかし、先ほどまでは確かに
2度目の
――――わたしは、リリウスから離れられないんだ。
リリウスから離れてしまえば自分は生きられない、そう言われている気がしてならない。
いつの間にか首に鎖を繋がれていた事実に、ハナはゾッとした。一体いつからなのかも分からなかったが、この命は紛れもなくリリウスに握られている。
『なんでだろ、わたしずっと憶えてたのかな……』
記憶を取り戻したばかりの脳は、未だ止まぬ混乱に煮えている。
リリウスが月から降下して来る光景を憶えていたことは、未だに信じ難い。しかし、あの光景を今まで忘れていたという事実が、同じくらいに信じられない。
記憶が自分のモノである事を噛み締めるように、ハナはもう一度だけ脳裏にこびりついたイメージを手繰ってみる。
逃げ回って、逃げ回って――――それからどうなった?
何度やっても変わらない。
鮮烈に焼き付けられているのは、一度死んだ記憶。
最期の瞬間に皮膚が焼かれ、骨さえも一瞬にして蒸発して行く感覚。
そんなものを鮮明に思い出してしまったからか、ハナは自分でも驚くほど素直にその事実を受け容れられていた。
自分の命は既に喪われているという感覚が、ようやく実感として追い付いて来る。
ならば、なぜ自分は今生きているのか。
見えぬ鎖に繋がれている身体は、何が駆動させているのか。
それは他ならぬリリウスに与えられた
だとしたら、それはきっと、自分のモノではないのだろうと思った。
ずっと、借り物だったのだ。
――――
虚空を見上げるハナの耳には、ひたひた、と足音が聞こえて来る。
真空に響く音。それはつまり、この世ならざる者の足音だ。
『そうだよね……借り物は、いつか返さなきゃならないんだよね』
現実とも幻とも知れない音は、徐々に背後から近づいて来る。
きっと問えば答えてくれるのだろう、という確信はあった。口を利いてしまったならもう
分かっていた――――が、来るべきものが来たという想いが湧き出して来ると、言葉は勝手に零れ出て行った。
『わたしを迎えに、ですか?
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