最初で最後の喧嘩編
ep33/36「絶対に、諦めちゃダメだよ」
山並みにそびえ立つサナギは、徐々に脈動のペースを速めていた。
島全体を真夏の熱気で覆いつつある体表は、今や3秒ごとに蒼白く輝いては羽化の時を待ち侘びている。鼓動する度に放たれる光が、空の蓋となった雷雲をかくも怪しく照らし出す。
どくん、どくんどくん、どくんどくんどくん。
――――そしてサナギは唐突に
住民への避難指示を告げていたサイレンも、見えない遮音幕に封をされたようにふっと聞こえなくなる。全高600mもの物体が消え失せた後には、今にも大気の重みに押しつぶされそうな真空が生じていた。
ぽっかりと、大気中に空いた真空の穴。
次の瞬間、悲鳴のような風切り音が切っ掛けとなって崩壊は始まっていた。
ものの一秒と掛からずに大気圧で潰され始めた真空に引きずり込まれて、膨大な空気が雪崩込んで行く。
激烈な上昇気流となった大気は持てる水蒸気を吐き出し、数秒もすればちょうど真空を象るような雲がそびえ立っていた。
暴風に舐められた市街地を飲み込むように、消え失せたサナギの代わりには雲が聳え立つ。
リリウスは身を包んでいたサナギごと、遥か数百km彼方の海上へと
* * *
アヤカの下方に横たわる骸骨は、今や三つ眼に光を宿している。
その真っ赤な鬼火に照らし出され、マカハドマを封じていた施設空間は血の色に染め上げられていた。辺りはまるで胃袋の中、グロテスクな赤に彩られた景色は地獄の様相を呈している。
これはまさに、怪物に呑まれた獲物の景色に他ならない。
――――もう一度、来てあげたわ。
やがてその思惟に答えるように、足元からパキリという音が聞こえて来た。
精緻且つ豪奢な氷の階段が、マカハドマから高所足場へと伸びて来ているのだ。それはまさしく、お伽噺さながらの氷の城へ手招きされているかのような光景。
アヤカは薄氷に脚をかけたまま、小さく身震いする。
自ら鬼に呑まれようとしている事を実感すれば、首筋にはいやな汗が滲んで来る。それでも彼女は、躊躇わずに1段目へと体重を乗せた。
一歩。
また一歩。
階段を降りる度に、マカハドマへと近づいていく。
棺の底で爛々と眼を輝かせる骸骨は、既に胸部ハッチを展開し終えている。もはや誰が見てもそうと分かるほど、鬼は露骨な罠を張り巡らせているのだ。
自ら罠へと身を投じると分かっていてもなお、アヤカの歩みは些かも揺るがない。しかし、背後で上がった鋭い声に、その歩みは止められていた。
「アヤっち、ちょっと待ってよ」
「ヒカリ、どうしてここに……!」
ここで出会うことなど予想もしていなかった親友が、背後に立っていた。図書室で喧嘩別れしてしまった時のままに、ヒカリは
しかし、その儚げな瞳は困惑も露わに揺れている。
彼女自身、この光景の意味を理解し切れてはいないようだった。
「あたしにもわかんないよ。家に帰ったら、ねーちゃんの声が聞こえたような気がしてさ。『ヒカリも後悔だけはしないで』って。そうしたら周りが真っ暗になって、気付いたらここにいただけ」
「……アカリ先輩、来てくれたのね」
「きっとそう。初めは後悔してることなんて分からなかったけど、なんでかな、アヤっちの顔が思い浮かんできたんだよ……けど、変だよね。気付いたら本当にアヤっちがここにいるんだもん」
彼女の顔からは、語るほどに笑みが退いていく。ヒカリが何を言わんとしているのかは分かっていたから、アヤカも遮るような真似はしない。
そして視線が合った瞬間、一切の雑音は消え失せていた。
「アヤっち、ここで何をしようとしているの」
誤魔化すことなど許されない。それほどに真っ直ぐな視線が、今やアヤカただ1人に向けられている。
「マカハドマに乗る。乗って、ハナに会いに行く……それだけよ」
「ダメに決まってるじゃん、そんなのっ! アヤっちが追いかけているのは見えない子なんだよ。どこにいるの? 何のために行くの? それでもアヤっちがどうしても行くっていうなら、あたしは……あたしは……っ!」
「あの子言ってたのよ、1人じゃないから戦えるんだって。だから私決めたの。どうしてももう一度会って、伝えなきゃいけないの。そうしないと私たちは何の為に戦って、何を守れたのかも分からない……」
本当の事情など知らないはずのヒカリに、それでもアヤカは本心を1つ1つ紡いで行く。
こうまで想ってくれる親友に、せめて嘘はつきたくない。ごめんね、とアヤカは心中に呟いてから顔を上げていた。
「このまま何もしないでいたら、私をこの世界に置いていったハナも、ハナの傍にいてあげられなかった自分も、きっと一生許せなくなる。初めてなの、こんなの……今までケンカ一つしたこと無かったのに、今はこんなに怒ってる、それに謝りたい」
見えぬ幽霊を追い、因縁浅からぬ仇に身を捧げようとしている。そんな自分が、傍から見れば狂人に他ならない事は分かっていた。
それでも、ヒカリの目に猜疑の色は浮かんでいない。
これほどまでに信じようとしてくれている瞳に、最後まで追いかけて来てくれた親友に、嘘などつけるはずもない。
だからこそ胸の裡からは、何の抵抗もなしに言葉が湧き出して来る。
――――これが私の答え。
もう立ち止まって、後悔する事だけはしたくない。
命を賭して戦って来た日々の答えを、アヤカは口にしていた。
「大好きだから、いっぱいケンカして来なくちゃ」
「……そっか」
今にも消え入りそうな声が、俯いたヒカリの口元から漏れ出した。
ヒカリは了解したとでも言うかのように顔を上げると、背を向けてしまう。しばらく、2人の間に交わされる言葉は無かった。
「あーあ……その子羨ましいなぁ。妬けちゃうよ、本当に」
やがて吐き出されたのはそんな独り言。再びくるりと振り返ったヒカリは、氷の階段に足をかけていた。
カツンカツンと薄氷を踏む足音、降りて来た彼女はちょうどアヤカの一段上で足を止める。2人の視線が、ようやく同じ高さに合わせられた。
――――謝っても許してくれないわよね。
ヒカリの瞳に映り込む自分が、ふいに揺らめく。
普段と違う角度で向き合う表情には、心なしか、いつもとは違う色が差しているような気がした。
「……
「ヒカリ?」
いつもとは違う呼び方に、何故かアヤカの背に微電流が走る。
気が付けば、ヒカリの吐息が肌をくすぐっていた。瞼を閉じる猶予も与えられないまま、アヤカの視界は彼女だけに覆い尽くされる。
軽く、短いキス。
縋るように握り締められたアヤカの手は、今この瞬間だけは彼女の物になっていた。そっと重ねただけの唇は、やがて微かにはにかんだ表情と共に離れて行く。
「ヒカリ、あなた……」
「本人はすっかり忘れちゃっていたけどさ、あの時の姉ちゃんにアヤカは……アヤっちは似てるよ。必死に誰かを探してる、見て来たから分かる。だからアヤっちにもさ、あたしは後悔して欲しくない」
だから約束して、とヒカリは手を握る力を強めていった。
「大切だと思うなら手を離さないで。失くしてしまわないように」
ヒカリの顔に浮かぶ笑顔は、1つの恋を送り出そうとする少女のそれだ。
髪を下した姿にはどうしてもアカリの姿が重なって、アヤカはこうして自分を送り出そうとしてくれる彼女の面影を見た。アカリとヒカリ、2人に送り出されることの意味を、授けてくれた言葉と共に静かに噛み締める。
「ねーちゃんならそう言ったのかなって。絶対に、諦めちゃダメだよ」
「分かってる。ありがとうヒカリ」
そして2人はゆっくりと手を離していくと、互いに背を向ける。アヤカは振り返りたくなる衝動に背を向け、また一歩、一歩と氷の階段を下って行った。
下へ行けば行くほど、鬼の周りに漂っていた冷気が肌を刺し、痛みにも似た冷たさが全身を覆って行く。制服の裾も、白い霜に侵され始めていた。
――――振り返るな。
背後でバチンという音を耳にしてもなお、アヤカは空間転移で飛ばされたはずのヒカリの姿を見ることはしなかった。
――――迷うな。
とうとうマカハドマの胸部ハッチへと辿り着いたアヤカは、深い深い洞のようなコックピットハッチに手をかける。
触れれば指の皮が剥がれてしまいそうな、氷点下に凍れる鉄の冷たさ。それでも身を滑らせたアヤカは、遂にマカハドマの体内へと入り込んでいた。
「これがコックピットなのね」
機械仕掛けの内臓、血管のようなケーブルが張り巡らされたコックピット内部は、ややレトロに思えるくらいの計器類に溢れていた。
しかし、これも見せかけの罠。そうと分かっていてもなお、アヤカは2つ並んでいた椅子の片方に身を沈めた。
固い、冷たい革のような感触が背に触れる。次の瞬間にはまるで牙のような氷晶がコックピットシートから飛び出して、アヤカの腕と足に噛みついていた。
「これくらい、何だって言うのよっ!」
つー、と肌を伝う赤い滴。
しかしそれさえも凍り付いていくと、マカハドマは満足したかのようにブゥンと低い唸り音を轟かせる。隣の空席に視線を向ければ、誰もいないはずのシートにも同じような牙が突き出していた。
つまり、リリウスと同類なのだ。
この古き怪物を起動させるのに、本来は2人必要だったに違いない。アヤカはそう確信しつつも、鬼を目覚めさせ得た事実に小さく口元を歪ませる。
――――私の中にいるハナの欠片が、力をくれる。
ハナと同じリリウスに乗り続け、魂と身体を重ねて来た意味を、アヤカは1つの力に変えようとしていた。既に身体の一部となった2人分の
1人で動かす代償が何であろうと、もう構わない。
機体内部で何らかのジェネレーターが作動したのだと理解し、アヤカの手は微かに震える操縦桿を握り込んでいた。両脚でフットペダルを踏み込んでいた。
「操縦できるなら何だっていい、来なさいっ!」
途端に見えざる手が全身を撫でて行った。
頭蓋の裏に虫が這っているような不快感、血管をカリカリと引っ掛かれているかのようなムズ痒さが末端神経をくすぐり始める。
憎んでも憎みきれない敵。
日常を狂わせた因縁の仇に身を差し出してまで、この身に宿したいと願うのは、鬼の首領が誇る比類無き力だ。
だから――――タダで、なんて言わない。
「この身体で良いなら、あげるから……!」
アヤカの身体をみるみる内に氷が覆って行き、機体と身体とを繋ぐ拘束具のように機能し出す。マカハドマと同じ永久氷晶が形作る保護外骨格は、豪奢な氷のドレスとなって全身を飾り立てて行った。
側頭部には氷柱の髪飾りが現れ、鬼を思わせる一対のツノへと変化して行く。
鬼の鎧に、鬼の角。徐々にマカハドマの似姿と化していくアヤカは、1人で思考中枢を引き受ける代償として背に次々氷の
脊髄を貫かれたというのに、不思議と痛みはない。
相容れない者の似姿に身を堕としながら、なおも前を向く。
「ハナに、会うの……!」
躊躇っていては二度と取り戻せない。一度でもハナから手を離してしまった自分に、もう戻るつもりなんてない。
だから、欲するのは力。
たった1人の愛しい人を引き留めるだけの力。
マカハドマとアヤカは互いを喰らい合いように、神経を介して半身を同化して行く。
「機体内部に絶滅対象の反応を検知、
勝手に口から溢れ出るのは理解不能の用語だ。
いつしかアヤカは、知らず知らずのうちに指がコンソールパネルをなぞっている事実に気付いた。まるで身体の半分が、制御不能の機械に置き換えられてしまったかのような異物感。今や鬼を操っているのか操られているのかさえも分からない。
受け入れがたい、しかし受け容れた。
望むのは最初で最後の起動、たった一度でいい。
――――私を差し出す、だから差し出せ!
再起動シークエンス、
モニターに赤い文字列が躍った途端、コックピットを埋める全ての計器類は一斉に光を宿していた。
獣の咆哮にも似た稼働音は耳をつんざくほどの音域に達し、全高800mという狂気じみた体躯を動かす為に全モーターが悲鳴を上げる。アヤカが踏み込んだフットペダルに鞭打たれ、骸骨は磔にされた身を徐々に起こし始めていた。
なおも邪魔をするのは、胸を貫く
「今さらこんなものっ!」
アヤカの叫びに呼応するかのように、骸骨の眼が煌めく。
次の瞬間、胸に突き刺さっていたマジカルアローは一瞬にして凍結し、強引に身を起こしていく傍から粉々に粉砕されていった。
もはや、誰もマカハドマを止められない。
互いに支配し、支配される。契約の鎖が1機と1人を運命共同体と変える。アヤカという思考中枢を手にしたマカハドマは、その全身に永久氷晶装甲を再形成しながら立ち上がりつつあった。
「
鬼を閉じ込めていたはずの棺は、瓦礫の波と化して崩れ去るのみ。
地上に立ち込める土煙を裂いて、氷を纏うマカハドマは一気に雲の高さにまで立ち上がる。その背に浮かぶのは、雪の結晶にも似た
島を照らす月のように輝ける鬼。神々しい逆光の中に沈むシルエットは、機械仕掛けの鬼神そのものとして海上に君臨する。
その姿こそは、摩訶鉢特摩
氷の魔神は、他ならぬアヤカの手で再び蘇っていた。
――――歩行開始。
故郷たる島を背に、アヤカはゆっくりと機体の足を振り上げさせて行った。時速数百kmもの速度で大気を裂いていく左足は、やがて海へと振り下ろされる。
爆発じみた轟音。
途端に立ち上がった津波さえ凍り付かせて、マカハドマは徐々に歩行サイクルを速めて行った。海面を征く超音速走行、ヴェイパーコーンを纏わりつかせて疾駆する超重量物体は、氷の砲弾と化して海を一直線に凍り付かせて行く。
鬼が見つめ続けるのは、遥か100km以上先の水平線だ。
「前方に熱源反応検知、まだ空間歪みも残っている……見つけたわ!」
赤黒い光に照らされた水平線を見れば、そこがリリウスの転移地点だったのだと分かる。周囲数百kmを火の海と変えるリリウスの羽化、ハナはそれに島を巻き込むまいとして空間転移したに違いなかった。
そして、赤く照らされた空を流星が駆け上っていく。
遥か上空に浮かぶのは、鮮烈な輝きを放つ光点。マカハドマの光学センサーを最大望遠に設定すれば、モニターの拡大ウィンドウには1匹の飛竜が映し出されていた。
「リリウスから作り替えられたなら、まだ間に合う……そうでしょう!」
リリウスが空を飛べるなら、マカハドマに出来ない道理はない。
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