ep21/36「大丈夫、もう何もかも元通りよ」

 普段なら3時限目のチャイムを聞いているはずの頃、アヤカは曇天の下を歩いていた。朝と呼ぶには日が高くなり過ぎていたが、もはや遅刻を心配する必要はない。

 アヤカはすっかり様変わりしてしまった日々から目を背けるように、海上の巨大な建造物を睨んでいた。小島一つを丸ごと覆っているのは、4本の杭に串刺しとされた棺。

 その棺こそは、今も再生を続ける鬼が封じられた封印構造体だった。


「あんなもの、島の近くに置きたくなかった……」


 マカハドマは離島に打ち上げられる形で、4本のマジカルアローに磔とされているのだ。

 そんな因縁極まる骸をここまで運んで来たのは、リリウスに他ならない。自らの手で鬼を引き摺って来た感触を思い起こせば、口の中には苦いモノが広がっていく。


「いくら残骸をハドマに利用されない為だと言っても、こんな……島の傍におくなんてどうかしてる。おかしいわよ……」


 再びマカハドマが動き出したなら、即座にリリウスで仕留める。もしくは、空間転移させた上で息の根を止める。

 その為に島の近くへ置いているのだと、たとえ頭では理解出来ても心が追い付かない。いつの間にか握り締めていた拳からは、すっかり血の気が失せようとしていた。


 ――――あの死骸も、消えてしまえばいいのに。


 まるで勝ち誇るように、超然と横たわるマカハドマの姿が心底許せなかった。いつしか関節が白くなるほどに力を込めた手からは、じんわりと赤い筋が滲み始める。

 掌に走る鈍痛。アヤカは我に返ると、棺から強引に視線を引きはがしていた。


「ダメよ、もうどうにもならないもの……」


 重機が懸命に唸る音を耳にしながら、アヤカは敢えて街並みから外れた道へと歩みを進めていく。

 未だ復旧工事が続く島内にあっては、人の背丈ほどもあるような氷片さえ珍しくない。リリウス以外には融かせぬ氷とあれば、それはもはや岩かガラス同然の障害物だ。実際、道の先が3m大の氷片に塞がれていると知れば、アヤカも道を変えざるを得なかった。


 陽射しの下でも融けぬ氷、忌まわしき氷。

 各所にそびえる氷塊を目にするにつれ、自然とアヤカの表情は強張っていく。

 喪失を意味する光景の数々から、決して目を逸らしてはいけないのだと分かっている、けれど――――じわりと視界が滲む。


「きっとひどい顔してるわね、私」


 こんな調子では、病室までハナを迎えに行けそうもない。

 それでも、ハナに会いたくて仕方ないのだと自覚するまでには至らない。

 苦々しい呟きを零すアヤカの脳裏には、昨晩、病室で目にしたハナの姿がよぎっていった。未だに目に焼き付いている肌の白さ、アヤカを見つめる視線の儚さ。

 その一つ一つが静かに鼓動を乱して、罪悪感のこびり付いた胸を締め付けていく。


「あれ?」


 唐突に視界へ飛び込んで来た建物の陰に、アヤカは思わずぎょっとして顔を上げる。俯き加減で歩く間にも、彼女は既に病院へ辿り着こうとしていた。

 病室ではハナが待っている。これからどんな顔で会えばいいのかも分からぬままに、彼女は敷地内に足を踏み入れる。

 しかし、人知れず葛藤に喘ぐ時間も、そう長くは続かなかった。


「アヤーっ!」

「ハナ……!」


 アヤカは自分を呼ぶ声に気付くと、ほとんど反射的に顔を上げていた。ハナだ。正門付近に佇む彼女の下へと、アヤカはポニーテールを跳ねさせるままに駆け寄って行った。

 その視線の先には、すっかり制服を着込んではにかむハナの姿。どこかバツが悪そう様子で小さく手を振る彼女を目にして、アヤカは思わず気が抜けるような感覚を味わっていた。


病室へやで待ってる約束じゃなかったの?」

「そうだったっけ? そんな怖い顔しないでよ……わたしはもう大丈夫だって」


 ほらこんなに――――とでも言いたげな様子で、ハナはくるりとその場で回って見せる。

 一瞬、危なっかしく揺らいだ身体にひやりとするも、アヤカは静かに肩の力を抜いていた。少なくとも今の彼女が浮かべる笑顔には、昨晩の雰囲気は感じられない。


「だからさ、そんなに心配しないで!」

「……そう、なら良かったわ」


 昨晩の姿はすっかり幻と消えて、ようやく普段の彼女が戻って来てくれた。そんな安堵に息を吐くアヤカとて、決してハナが本調子ではない事は分かっていた。

 でも、こんなにもハナは普通にしているじゃない、と心のどこかで囁かれるのは甘い言葉。今は普段通りに話せることが何よりも嬉しくて、アヤカはその甘さに浸る。


「ちなみにアヤ、今朝はちゃんと起きられたの? 昨日も遅かったのに」

「なんとかね。ちょっと寄りたいところもあったから」

「……って、アヤの髪ちょっとボサボサ過ぎるよ」

「やっぱり自分だと上手くいかなくって。髪、お願いできるかしら?」

「もー、しょうがないなぁ」


 半ば呆れたようなハナの声が、背後からアヤカの耳をくすぐって来る。

 しばし足を止めたアヤカは、後頭部で束ねた髪の根元から髪留めを外していた。拘束を解かれた金髪がふわりと下ろされなら、あとはハナの手に委ねられるだけだった。

 そして一呼吸置いた後に、髪に触れて来る指先。

 瞼を閉じるアヤカは、たったそれだけで言葉にし難い安堵を覚える。これまで幾度となく繰り返されて来た普通・・を、またこうして実感した――――否、したかった。


 無常にも時間が経つにつれ、背後でハナの呼吸が微かに乱れていくにつれ、アヤカの裡には徐々に違和感が募っていく。

 ふいに髪を数本引き抜かれた微痛に、ぴくりと身体が強張る。しかし、ハナがどんなに必死なのかを分かっていたからこそ、彼女は何も口にしようとはしなかった。


「あっ、ごめん! あと少し……っ、だから」


 掠れた声を漏らすハナは、ぎこちない手付きでアヤカの髪を束ねていく。

 力を込めては髪を引き抜き、整えようとしては指を絡ませ、彼女が触れば触るほどに髪型は不格好になる。最後にパチンと髪留めが閉じられた頃には、ハナの吐息は静かな嗚咽へと変わっていた。

 髪を一つに束ねる、たったそれだけの事に5分以上が費やされていた。


「……出来たよ」


 たった一言。消え入りそうな呟きを残して、ハナはようやく歩き出していた。その目元にきらりと輝いたモノを、アヤカはつとめて見ないようにする。

 しかし、思わず目を逸らした彼女のすぐ横で、ハナの身体はぐらりと傾いでいった。転ぼうとしているのだと気付くよりも速く、アヤカの手は咄嗟に伸ばされていた。


「……っと!」


 転び掛けていたハナの身体は、アヤカの手によって引き留められる。

 ふらりと立ち直った彼女を前に、アヤカは意図せず繋がれた手に力を込めていった。繋いでいなければハナがどこかへ行ってしまいそうで、それが今は無性に恐ろしい。


「ハナ、やっぱりまだ外に出るのは早いんじゃ……きっとまだ身体が万全じゃないのよ、だから今日は」

「前みたいに戻らなきゃ駄目なの! いつも通りにやらなきゃ……もう全部終わったんだから普通にしなきゃ」


 鬼気迫る様相で吐き出された言葉は、アヤカの口を閉ざすには充分過ぎる圧を含んでいた。目を合わせようとしないハナの横顔を見つめ、アヤカはただ反射的に溢れて来た慰めの言葉を飲み込むしかない。

 何を言えば良いのだろう、そんな惑いが心を握り潰して来る。

 力なく歩き出したハナに寄り添うように、彼女もまた歩調を緩めていた。


「分かっているわ……大丈夫、もう何もかも元通りよ。だから安心して」


 それがどんなに残酷な気休めであるのか、アヤカにも分からないはずはなかった。

 それでも、前のように笑って欲しかった。

 しかし、平静を装って呟いた声は震えていて、何の説得力も持たないままに大気へ溶け去っていく。結局、そんな答えしか口に出来なかった自分が悔しくて、情けなくて、アヤカは学校に着くまで決してハナの方を見ようとしなかった。


「ごめんなさい……っ」


 今さら手を離そうとしても、強張った指は言うことを聞こうとしなかった。



 * * *



 案の定、校舎にはほとんど誰もいない。

 学校に着いてからおよそ1時間後。職員室帰りのアヤカとハナは、もはや授業どころではない学園の実情を目にしていた。学園は体育館を避難施設とする一方で、校舎の方はただの居場所として開放しているに過ぎないのだ。


「あっ」


 だからこそ、廊下の向こうから一人の女子生徒が歩いて来るというのは、彼女達にとってはほとんど不意討ちにも等しい状況だった。

 アヤカの視界に飛び込んで来たのは、名前も知らない女子生徒。1人で廊下をとぼとぼと彷徨い歩く様には、どこかへ向かおうとする目的が欠如している。


「……っ!」


 そんな彼女の姿を見れば、思わず怯え交じりの吐息が漏れ出てしまっていた。近付くほどに増していく正体不明の恐ろしさに、アヤカは思わずまぶたを閉じかける。

 近付いて来る足音、思わず止まりかける脚。それでも彼女は歩き続ける。

 そして2人と1人は、何事も無く廊下をすれ違っていった。


 ――――私たちがリリウスの起動適格者パイロットだなんて、分かるはずないのにね。


 リリウスのパイロットが誰であるのかなど、学園生徒に知る者はいない。

 必然、周囲が2人を見る目にもなんら変わりは無い。むしろ変わってしまったのはアヤカとハナの方であり、2人は今や他人の眼を真っ直ぐ見ることも出来ない。それは逃避だった、しかし、そんな事は分かっていた。

 無言の内にも罪悪感を共有する2人は、校舎3階の図書室まで立ち止まる。

 アヤカは懐から1本の鍵を取り出すと、自分達が何の為にここへ来たのかを思い出すように、口を開いた。


「今日は図書室の掃除、そうよね」

「また人が来られるくらいきれいにしておかないとね。期末テストもそろそろだったし」


 テストなんて再び行われるかどうかも分からない、とは言わない。

 少なくとも罪滅ぼしにはならないと知りつつも、アヤカとハナは校舎内の清掃を申し出ていた。そのために職員室で借りて来た鍵を差し込むと、図書室の木製扉はすんなり開いていく。

 アヤカが扉を開き切ると、内からは埃っぽい空気が漏れ出して来た。

 煙たい扉の先に広がっていたのは、床を埋め尽くすほどの本の海。あの晩、本棚から溢れては崩れ出したに違いない蔵書の数々が、空っぽの棚の足元に散乱しているのだった。


「まずは……手前からかしらね」


 アヤカはハンカチで口を抑えつつ、足元の本を取り上げてみる。本はいずれもハドマが歩いた衝撃で落ちたらしく、損傷がさほどでもないのは不幸中の幸いだった。

 2人は多少の希望を胸に、まずは扉付近の本から手を付けていった。


「……」


 散乱した図書室で、2人はぺたんと床に座りながら黙々と作業を進める。

 教室でクラスメイトたちと顔を合わせる事を思えば、固い床で足が痛むくらいはなんともない。現実と向き合うための時間を稼ぐように、彼女たちの手は本を選り分けていく。

 船が流氷を切り開くが如く、アヤカとハナの周りでは徐々に本の崩落跡が消えつつあった。


「ハナ? ちょっとお願いがあるんだけど、大丈夫かしら」


 アヤカはつとめて普通に振舞おうと、ある種の義務感に駆られるままに背後のハナに声をかけていた。しかし、しばらく経っても一向に応える気配はない。

 彼女はちらと背後を振り返ると、黙々と本を手に取るハナに視線をやる。背表紙のラベルごとに本を分類し続けている彼女は、こちらに背を向けたままだ。


「ハナ? そこの棚の番号なんだけど、ちょっと見てもらえるかしらー! ここからじゃ見えなくって」

「なにー? その棚がどうしたの?」

「喋る時くらいこっち向いてよ、もうっ。それだと見えてないじゃない」


 なかなか振り返ろうとしないハナに、アヤカはほんの小さな驚きを覚えていた。そっけなく背を向け続けているなんて、相手の目を見て喋るのが常の彼女らしくもないと。

 まさか、という想いがアヤカの心を掠めていく。


「ねぇ、ハナったらどうしたの――――」

「え」


 そうして初めて振り返ったハナの表情は、意表を突くものだった。

 一瞬、ほんの一瞬だけハナが浮かべていたのは、心からの驚きを物語る表情。そして誤魔化すような笑みに転じた彼女の表情に、アヤカの心は軋んでいった。

 またもひどく残酷なことを自覚させてしまったのかもしれない、アヤカの胸中にはそんな後悔が湧いて来る。


「あぁっ、ごめん! で、なになに?」

「いえ、なんでもないわ。ごめんなさい、大したことじゃないのよ」


 傍目には奇異としか映らないハナの行動は、その後も一度ならず続いた。

 絶対に届かないような場所へ手を伸ばしたかと思えば、今度は到底持ち上げられない本に手をかけようとする。視線の向きと行動が合っていない、こちらを振り向かない、エトセトラ、エトセトラ。

 アヤカはその全てがただの冗談で終わればいいと、明るい風を装って声をかけてみる。どこか縋るような響きが滲んでしまっていたが、続けた。


「それ、持って行くつもりじゃないわよね」


 40冊は下らない本の山に手をかけようとしていたハナは、よくない行いを咎められた子供のように肩を跳ねさせる。自分が何をしていたのか、何を指摘されようとしているのか、そのギャップを埋めんとする間がしばしの沈黙を呼ぶ。

 数秒後、ハナは苦し気に笑っていた。こちらは向いていなかった。


「あはは、そりゃあね」


 哀し気に縮まるハナの背を目にして、アヤカは思わず言葉を飲み込む。

 結局、何を言おうとしていたのかは分からなかったが、少なくとも図書室ここで言うべき事ではないように思えた。


「ねぇハナ、そろそろ休みましょう?」

「そう、だね」


 ハナは力なく頷くと、アヤカと同じように立ち上がっていた。



 * * *



 ギィ、とアヤカの手が鉄扉を押し開ける。

 アヤカの後をついて来たハナ共々、2人は埃っぽい図書室から屋上へと上がっていた。少々時間がかかったのは、廊下を歩く間にも、ハナが絶対に鏡へと近寄ろうとしないのが分かってしまったからだった。

 幾度となく訪れたはずの屋上を見渡し、アヤカは表情を曇らせる。


「ここもひどいわね」


 元は緑の庭園と言ってもいいくらいだった屋上は、今や無残にも引き裂かれたコンクリート剥き出しの荒地と化していた。散乱する氷片、融けない氷はガラスのようにあちこちで煌めいている。

 そしてなにより、屋上の一部が欠けていた。

 ここまで飛んで来たらしい破片の一撃によって、屋上の角が一つ、まるでかじられたように消え失せているのだ。たとえそうでなくとも、屋上のあちこちで柵が奇妙に捻じ曲げってはひしゃげていた。


「私たち以外、まだ誰も来ていないのね」


 アヤカは風でなびく髪を押さえると、遠くに視線をやる。歪んで千切れたフェンス越しに見える景色は、少なからず彼女を失望させるモノだった。

 窮屈な島の街並みの先にあるのは、今や平穏な海ではない。針山だ。

 低く垂れこめた雲底に触れるほどの塔の数々は、一つ一つがバラバラにされた骨格に他ならない。街に歪な影を落とす骸骨の数々は、一時は90体以上もの勢力で以て島に侵攻して来たハドマのそれだった。


 何か気を紛らわせたくなる時には、つい海を見てしまう。

 そんな自分を恨んだのは初めてのことで、アヤカは重たい息を吐いていた。視線の先では、未知の合金で象られた継ぎ目一つないフレームに、苛立つような波が打ち付けては白く崩れて行く。


 ――――少しは気が晴れると思ったのにな。私、バカね。


 こんな光景を見たところで、ハナの心が晴れる訳はないというのに。胸中に一片の後悔を燻らせるアヤカは、海から足元へと視線を落としていた。

 図書室から屋上へ、これでは何のために足を運んだのか分からない。


「今日はもう無理しないで帰りましょう? それが良いわ」

「……うん、そうする」


 アヤカが提案する、ハナは頷く。そうして2人は躊躇いながらも足を踏み出すと、ほとんど同時に帰途に就こうとしていた。

 屋上から校舎内へ。

 階段へと繋がる扉に歩いていくアヤカは、歩みを重ねるごとに強烈な違和感を募らせていった。カツン、コツン、と背後で徐々に遠ざかっていく足音を耳にするにつれ、彼女のちっぽけな心臓は不吉に高鳴っていく。

 コンクリートを叩くローファーの音を背に、アヤカは足を止めていた。


「ハナ……?」

「ん?」


 どうしたのアヤ、と聞き返してきそうな様子で、ハナははたと足を止めてくれていた。そんな彼女の背に向けて、アヤカは問いかける。


どこに行こう・・・・・・としているの?」


 アヤカが見つめる先で、ハナは真逆の方向へと歩き出していた。

 そんな彼女の足は、氷片によって抉られた屋上の角へと向けられているように見える。その先に柵は無い、止めるモノとてない崖でしかない。

 ハナは足を止めていたが、相変わらず背を向けたままだった。そして――――


「どこって、それは……家だよ?」


 再び歩み出す。

 そうするのが当然であるとでも言うかのように、ハナは真っ直ぐと歩き出す。その先に崖が待ち受けていると分からないのか、あるいは知ってなお進んでいるのか。それさえ判別できないような足取りだった。

 ハナの歩みの気軽さに背を凍らせながら、アヤカは彼女の後を追い始める。


「ねぇ、どうしたの。止まってよ」

「なんで、帰るんだよね?」

「そう、だからそっちは……!」

「え? すぐそこだよ?」


 ――――どうして止まってくれないの、どこに行こうとしているの。


 アヤカは一瞬で噴き出した冷や汗に身を濡らしながら、歩調を速めていく。呼びかける声には必死さが滲み始めるも、ハナは一向にこちらを振り返ろうとしない。

 呼吸が浅くなる、苦しい、なぜ、どうして。

 脳裏を埋め尽くす疑問は自然と呼吸を阻み、走ってもいないのに息が上がり始める。その間にもすたすたと歩み去るハナは、迷いなく崖に足をかけようとしていた。

 ハナのローファーが踏み締めた崖からは、ぱらり、と破片が舞い落ちる。


「止まってよ!」


 最後までそう言い切れたかどうかも、アヤカには分からなかった。

 必死に伸ばした手の先では、両腕を広げたハナがぐらりと風に身を任せようとしている。理解不能。全身で空を掴もうとしているかのようだ、と思う間もなく、ハナの身体はふらりと宙に歩み出していった。

 ひきつった喉からは言葉一つ出てこない。

 あと少しが、届かない。


 もう遅い。アヤカの脚は弾かれたように、コンクリートを蹴り出していた。

 もはや引き留められないと知ってもなお駆け出した身体は、アヤカを目指して粘性を増したかに思える大気を裂いていく。

 そしてアヤカもまた、宙へ駆け出す。

 何の躊躇もなく屋上を踏み切った足は、薄いコンクリートの縁を蹴り終えていた。自由落下、消え失せた重力に髪が舞う。浮き上がった内臓に体中の毛が逆立つような感覚を味わいながら、アヤカは千切れんばかりに指を伸ばしていった。

 視界から消えたハナを追う彼女は、今さら開き始めた喉から叫びを迸らせる。


「ハナアアァッ!」


 風を切り始めた指先は、ハナの背を掠めて行った。

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