ep22/36「朝なんて、もう来なければいいのに」

 高度20mは下らない空中に、その身を投げ出した2人の少女。

 遅れて屋上から飛び降りたアヤカの指先は、ハナの背に届きかけていた。コンマ数秒に亘って宙をかいた指は、遂に制服越しに肌へと触れる。


 ――――MAGICAL 空間転移マジカル・シフト


 衝撃。全身に鈍い痛みが走ると、何かに打ち付けられた胸から酸素が絞り出されて行った。ともあれ、膝はしっかりと固い地面に支えられている。

 内臓がふわりと浮くような感覚が収まっている事を確かめたアヤカは、徐々に上体を起こしていった。ハナを連れて空間転移した影響か、はたまた直前まで抱いていた恐怖のせいか、全身はすっかり鉛と化してふらついてしまう。

 しかし、成功だった。

 視線を落とせば、身体の下ではハナが仰向けに寝転んでいる。


「ギリギリってところかしら……よかった」


 空中から一転、2人はリリウスのコックピット内へ転移していた。

 仮に落下速度が増していたなら、こうはいかなかったかも知れない。落ち始めたばかりでさえ、こうもしたたかに床へと打ち付けられたのだ。ひき肉ミンチになる事態を避けられた今になって、アヤカはただただ肝を冷やすほかなかった。

 でも、と彼女の脳裏には1つの考えが持ち上がる。

 これまで繰り返して来た空間転移でも、一度としてリリウスごと地球の外へはじき出された事は無かった。つまり、きっとそういう事なのだろうと彼女は納得する。


 ――――私、なに冷静なフリしてるんだろ。


 奇妙な冷静さを保っている頭の片隅には、未だ脳内物質アドレナリンが行き渡っていないのかも知れなかった。ようやくガクガクと笑い出した膝の方が、よほど正直に心を代弁しているくらいだった。

 てて、と呟くハナは、アヤカの下でもぞもぞと動き出している。


「ってて……アヤ! 大丈夫?!」

「良かった……無事で」

「平気平気、ちょっと背中が痛いけど」


 ハナは誤魔化すような笑みを浮かべると、ようやく自分の体勢を理解したようだった。アヤカに押し倒される格好となっている今、身体を起こしても立ち上がれない。

 そんなハナの頬が微かに染まったように見えたのは、果たして錯覚だったのかどうか。アヤカは確信が持てないままに、覆い被さっていた上体を起こして行く。


「ハナ、本当にケガはないの? 大丈夫?」

「あはは、アヤってば大袈裟だなぁ。学校に戻らなくちゃ」

「大袈裟……?」


 その時、アヤカの中で張り詰めていた何かが弾けた。


「大袈裟って……そんな、あなた死ぬところだったのよっ!!」


 逃げることを許さぬアヤカの表情に、ハナの身体がピクリと震える。

 自分がやった事の意味は分かっているに違いないのに。どうして、という想いがアヤカの裡から止めどなく溢れ出していく。

 また話せなくなってしまうかも知れない、ハナが飛び降りた瞬間にも感じた恐怖が再燃し始め、心にじわりじわりと黒い焦げ跡を広げていく。


 ――――またあんな怖い想いをするのは、嫌なの。


 一度でも心に巣食ってしまった恐怖は、もはや亀裂トラウマとなって消えてくれなかった。ハナの肩を揺さぶりながら、アヤカは涙交じりに言葉を重ねる。


「ねぇハナ、さっき自分が何をしようとしていたか分かって――――」


 そう言い掛けた矢先、ぞっとするような予感が身体を駆け巡って行った。

 執拗なまでに鏡を怖れ、抱え切れない本を持ち上げようとし、あまつさえ屋上から飛び降りようとしたハナ。これまでは全くの無関係であったはずの奇行が、たった1つの妄想じみた仮説によって繋がれようとしている。

 それは心底、馬鹿馬鹿しい妄想だった。

 間違っていて欲しい、心からの祈りを込めてアヤカは口を開く。


飛ぼう・・・と、していたのね」


 ハナは一瞬目を見開くも、押し黙ったまま答えようとしない。

 その沈黙こそが最大の肯定とは知らぬまま、彼女は消え入りそうな声で呟いていた。


「なに言ってるの、アヤ」

「飛べるのが当たり前みたいに……まるで腕に翅が付いてて当たり前だと思っているみたいに……だから飛び降りたんでしょう、ねぇ、ハナ! 人は空を飛べないの! あなた、どうしちゃったの。最近おかしいよ……」

「――――アヤ。わたし今、本当に人間の形・・・・してる? 腕が2本で、足は2本、頭は1つ……本当にそう?」


 ハナが何を言わんとしているのか、理解したくはなかった。

 しかし、予想が最悪の形で当たったのだと分かれば、その訥々と語られる告白を受け容れるしかない。奇妙に歪んだ微笑みの下で吐き出される言葉が、真実だと認めるしかない。


「わたしね、あれから肩に腕がついている気がして仕方ないんだよ。今だって、右と左の頭でアヤを見てる。腕を広げれば本気で飛べそうな気がするし、振り向かなくたって背中の方まで見ているって、本気でそう感じるくらい。でも、鏡を見ると元のままで、なんにも変わっていなくて……違うの、分からないの」


 淡々と静かな絶望を滲ませる言葉に、アヤカは息を吞む。

 リリウスだ。

 ハナが未だに味わっているのは、あの晩、形態拘束から解き放たれた時のリリウスの身体感覚に違いなかった。

 あるはずの無い腕を操り、あるはずのない眼で敵を睨む。おぞましい程に膨れ上がり、元の身体を見失いそうになったほどの身体感覚の拡張現象。見えざる手に脳内を書き換えられるという、あの凌辱にも等しい快感きょうふがまざまざと蘇って来る。

 思い出すだけで、悪寒が走った。

 望んだだけの腕が生えて来る恐ろしさなど、実際に味わうまでは分からなかった。


「本当に、わたしは人間の形だよね? そう、なんだよね……?」


 すすり泣くハナの声でアヤカは我に返った。ハナは顔を両手で覆ったまま、恐らくは隠し通そうとしていたはずの恐怖を零している。

 アヤカはもう何も言うことが出来ない。せめて涙を拭おうと伸ばした指先は、行き場を見失って宙を彷徨う。


 ――――ハナはあれからずっと、あんな感覚に閉じ込められているっていうの。


「そんなの、地獄みたいじゃない……」


 気のせいだと言って誤魔化すのか? 違う。

 きっと治るからと気休めを言うのか? それも違う。

 たった50cm先で、脳裏に張り付いた地獄に閉じ込められている少女に何を伝えればいいのか。胸を裂かんばかりに荒れ狂う感情を伝えたいのに、触れたいのに、喉が詰まって何も言えない。


 何度となく触れて来たハナがどこまでも遠く感ぜられた瞬間、アヤカは自らの行動を自覚する間もなく、彼女の華奢な両手を抑え込んでいた。

 両腕をこじ開けられたハナ、そして身を屈めるアヤカ。

 2人の少女の身体が、そのまま唐突に重ね合わされる。途端にハナの口から零れた小さな悲鳴に構うことなく、アヤカはほとんど未体験の衝動に身を任せていた。


「――――ッ!」


 気が付けば、アヤカの視界はハナに埋め尽くされていた。

 不意討ちで重なった2つの唇。互いの前髪が額をくすぐるほどの至近で、ハナの大きな眼は驚愕に見開かれている。見る間に潤み出した瞳に引き寄せられるように、アヤカは更に深くを目指し始める。

 可愛い。

 心の底にはいつしか、そんな不埒な感情が差し込んでいた。


 そんな想いを自覚した途端に、自己嫌悪に胸が潰れそうになる。

 違う、そうじゃないの、と身体を本能に明け渡した心が叫ぶ。

 なにか制御の利かない熱が意識を曇らせ始め、過剰な脳内分泌でアヤカを酔わせる。それでもはっきりと夜闇に浮かぶ白い肌を捉える視線は、どこまでも冴えわたっていく。

 理性を狂わせるのは、リビドー、優しさ、独占欲、あるいはその全て。

 生まれて初めて味わう甘い毒に、くらり、と少女の視界が揺れた。


 ――――私、何をやっているんだろう。


 絡み合う唇は、粘膜は、今や溶けてなくなってしまいそうなほどに熱い。

 今にも融け合いそうな存在を隔てているのは、ちっぽけな服と肌のみ。身体を覆うモノ全てが邪魔とさえ感ぜられた矢先、アヤカは弱弱しくも確固たる意思を込めた腕に突き飛ばされていた。

 唇は離れ、束の間繋がっていた透明な糸も、僅かな抵抗の後に途切れていく。


「はぁ……はぁ……っ」


 アヤカはハナに跨ったまま、彼女の肢体に覆いかぶさっていた上半身を剥がされていた。息を吹き返した自己嫌悪に身を苛まれながら、アヤカは未だ境のあやふやな唇を拭う。

 ごめんと謝ってしまえばそれで済むのかも知れない、しかし、そうしたくはなかった。その言葉一つで、全部が嘘になってしまうのが何より怖かった。


 沈黙。

 床の上にセーラー服を乱れさせながら、ハナは荒い息を吐いて真っ直ぐとアヤカを見つめている。彼女の目元には怒りにも似た色が浮かぶも、それは未だハナ自身でさえも受け止めきれていない怯えの転化なのだと分かった。

 怯え、震え、それでも何かを求めて縋るような瞳。触れれば射抜かれてしまいそうな視線を遡るように、アヤカは再び静かに手を伸ばしていく。


「……このままだと、触っちゃうよ?」


 触らないで、と一度でも拒絶されたなら引こうとしていた手は、しかし何の妨害を受けることもなくハナの頬へと届いていた。風が吹いたなら脆くも散ってしまいそうな儚さ。繊細なガラス細工を撫でるが如く、アヤカの手は涙も乾き切らぬ肌を撫でていく。

 そして下へ、下へと指は滑る。

 呼吸に膨らむ胸郭の感触が感じられる、熱いくらいの身体。人の輪郭をなぞるように腰へと伸ばされて行った手は、徐々に熱を帯びた動きで以て、ハナ自身に人としての輪郭をなじませていくように触れ合っていく。

 そして、すっかり倒れ込んだアヤカの耳元に言葉が囁かれる。


「アヤは、それで良いの?」


 ハナの問いを聞き取った瞬間、アヤカの背は無形の刃に撫で上げられていった。

 意識を酔わせていた毒も、一瞬で醒める。たった今、確実に何かを間違えようとしているのだという直感が、怖いくらいの鼓動で高鳴る胸を締め付けて来る。

 変わり行くハナに怯えていたのは自分の方だったのだと、ようやく気付いた。


「私、間違ってるのかも知れない、だけど――――」


 張り詰めた声は自分が思っていた以上にか細く、震えていて。それでも構いはしないと伸ばされた手は、蛇のように肌を滑ってハナの身体を絡め取っていく。

 ハナを繋ぎ止める手段がこれしかないのなら、と視界を霞ませるほどの衝動が訴えている。


「もう元に戻れないなら、いいじゃない……これで」


 ここにいて欲しいと、こんなにも求めているのだと伝えたかったから。人としての形を伝えるように触れ、人としての在り方を確かめるように名前を呼び合う。

 たとえこんな手段であっても、この狂おしいほどの不安に応えられるやり方を他に知らない。再び暴れ始めた心臓が鼓動する度に、血管が頭蓋の内で跳ねるようだった。

 いつしか、ハナは僅かな抵抗さえも見せなくなっていた。アヤカの背に回された腕は間違いなく等身大の少女のそれで、痛いくらいに背を締め付けて来る。


「アヤ、そんなとこ……っ」


 ハナがこのままどこかへ行ってしまうくらいなら、もうどこにも行けないくらいに汚してしまいたい。そんなおぞましいエゴに、アヤカは身を震わせる。

 アヤカはハナの白い鎖骨に唇を沿わせると、汗ばむ首筋を頬張るように力を込めて行った。ぴくりと跳ねた身体に密着したまま、アヤカは吸血鬼さながらにゆっくりと軟肌に歯を突き立ててみる。

 このハナの身体を巡る苦しみを、出来る事なら飲み干してしまいたかった。


「どうしてハナだけなの、私も一緒じゃないのよ……こんな事なら、私も同じになれれば楽だったのに」

「そんな哀しいこと言わないで……っ!」


 密着したハナの香りが鼻孔を満たす。すっかり上気したハナの体温が、顔を焦がしてしまいそうなくらいだった。

 そして、アヤカの顎は再び首筋を捉えていた。

 ハナの首筋に食い込む歯先からは、徐々に、肌の下で脈打つ鼓動を感じられるようになる。ハナが受け容れてくれる限界を探るように、ささやかな抵抗を試みる弾力を静かに味わっていく。

 数秒後、口を離してみると、半円形に刻み付けられた歯型はてらてらと艶めいていた。


 ――――痛かったかな。


 首筋に噛み痕をつけられたハナは、息を荒げたまま、涙目でアヤカを見上げていた。無防備な首筋に浮かび上がった赤い痕は、そんな潤んだ瞳と合わさればひどく痛ましく思えて、更にアヤカの視線を引き付ける。

 鮮明に浮かび上がった赤が、冴えたアヤカの視線を手離してくれない。


「……ハナ、ごめんね」


 再び倒れ込むようにハナに覆いかぶさったアヤカは、2つ、3つと、同じように自分を刻み付けて行った。

 どこか苦し気に捩られた身体を押して、アヤカはなおも顎に力を込めていく。汗ばむ身体に張り付いたセーラー服の下へと、その滑らかな指先までもが潜り込んでいった。それでもハナは抵抗しようとしなかった。

 まだ汚し足りない、心に巣食った亀裂トラウマがそう囁いている。

 これが果たしてありうべき情欲なのかどうか、2人は知る術さえ持たない。


「アヤ、謝らないでよ。わたしはただ、2人で帰りたかったから……だから……っ、それだけだったの」

「どこにもいかないで、お願いだから」


 掠れた声が交わされる、凍てつく月光が差し込むコックピット。金文字が刻まれた壁面に四方を囲まれながら、2人は互いの存在に縋りつくしか無かった。

 夜、過ぎ去るべき時間にしがみついている今は、他に目印など無い。

 朝が来ればこの身は照らされてしまう、ハナにぶつけた汚く熱い想いが全て日の下に晒されてしまう。その全てを目にしてもハナはこのまま隣にいてくれるのだろうか――――アヤカの裡には一片の自信さえも見当らない。


 生まれて初めて、朝が来るのが怖いと思えた。

 衣擦れの音がやけに大きく響く夜闇の中、今は互いに触れ合う肌の感触だけが真実だった。共に沈む夜は、止まぬ涙と儚い声の中でふけていく。

 この夜が明ければ、朝が来れば、また現実がやって来るというのなら。


「……朝なんて、もう来なければいいのに」


 アヤカはハナと手を重ね合わせながら、ひたすらにそう願っていた。

 この夜が明ける頃には、何もかもが夢に変わっていて欲しいとも願っていた。

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