第参楽章――目醒めよ、焔獄の方舟〈リリウス・ラ・ヴォルダ〉――
戦後編
ep20.5/36――断章――
早朝5:00。剥き出しの柱ばかりが立ち並ぶ空間に、ふっと人魂じみた炎が現れる。ばちん、という破裂音が響き渡って行った頃には、一人の少女が足場に降り立とうとしていた。
「場所は……ここで合っていたのね」
空間転移完了。炎の残滓を纏うアヤカは、誰にも気づかれぬままに足場へと降り立っていた。造りかけのビルの内側、と言っても通じそうな鉄骨組みの景色は、光が満たされ切っていないせいで奥まで見通すことも出来ない。
ここは高所50m。幾重にも積み上げられた急造の足場は、屋内を吹く風で微かに軋んでいる。そんな足場がふいに揺らいだような気がして、アヤカの脚は勝手に竦んでいた。
「……っ!」
底冷えする空気を押し上げてくる風は、眼下の薄明るい空間に何が在るのかを教えてくれている。
やはり、
アヤカは意を決して、遥か下に横たえられた骸へと視線を落とす。端から端までを舐めるように見渡していけば、いつしか人間よりも大きな
薄暗い地の底には、深紅に染め上げられた3つの瞳が沈んでいる。
「マカハドマ――――」
命を宿す青き瞳、機械仕掛けの赤き瞳。束の間、同じくらいに冷たく淀んだ両者の視線が交錯する。
大規模工事現場のそれにも似た鉄骨組みに囲われるマカハドマは、造りかけの棺に納められようとしている骸骨だ。蟻にも等しい人間が群がる様は、まさしく小人に捕らえられた巨人の姿そのもの。
防護服に身を包んだ作業員たちは、黒い鋼の山に取り付いているところだった。
驚くべき事に、鬼の
紛れもなく再生しているのだ、今この瞬間にも。
それは頭を失ってもなお地をのたうち回る死骸を連想させて、グロテスクな光景ですらあった。しかし、たとえどんなに新品同様であったとしても、眼下に横たわっているのはただの新鮮な死骸でしかない。
――――マカハドマが自ら立ち上がることは、もう有り得ない。
その事実をアヤカが反芻しようとした矢先、足下から地鳴りが聞こえ始めた。
途端に響き出すサイレンの音、一挙に沸騰し始めた危機感が大気を過熱する。防護服姿の作業員たちが蜘蛛の子を散らす勢いで退避していく最中、アヤカは背筋が凍るような想いでその様を見下ろしていた。
そして、戦慄に息を吞む。
彼女が見つめる先で、マカハドマの胸部はぱっくり割れていくところだった。
「うそっ!」
大木じみたシリンダーを軋らせて口を開ける装甲板、その奥には毛細血管の如きケーブルがのぞき出す。唐突に噴き出した圧搾空気は、人間を追い払うようにシュッと大気を裂いていた。
その場にいる人間は、誰一人として言葉を発せない。
狂ったように鳴り響くサイレンの音だけが、無力にも絶叫し続ける。
極まる混乱。アヤカが空間転移しようと身構えた矢先、鬼が発していていた地鳴りは唐突にも止んでいた。
「止まった……?」
アヤカは恐る恐る足を踏み出すと、眼下のマカハドマへと視線を落とす。
鬼の胸に開いているのは、鋭い針を抜き去った痕のような洞穴。馬鹿馬鹿しいほどに巨大な体躯には不釣り合いな、ほんのちっぽけな空隙だ。肋骨じみた装甲が開き切った後には、奈落のような体躯の底に2つの空席が姿を現していた。
そう、
人間が乗るにはお誂え向きの操縦座席は、ある種の食虫植物よろしく顎を広げている。しかし、落ちて来た人間を飲み込まんとする操縦座席は、あまりにも分かりやすく、罠としては露骨に過ぎた。
手頃な脳髄を補完すべく、その罠はたった今造り出されたに違いなかった。
「……ははっ、ははは」
鬼の足掻きを目にしたアヤカは、意識するともなく冷たい笑みを浮かべていた。
頭無き死骸が、代わりとなるべき
そこまでして、
しかも強欲なことに、欲している
「こんなのが、いなければ……! アカリ先輩だって。ヒカリが家から出られなくなったのもそうよ……」
今さら遅いと知りつつも、全てを狂わせた敵を前に少女はそう吐き捨てる。
あの晩、目の前で
平穏に続いていた日常の全ては、この鬼に狂わされてしまったのだ。
壊れた機械を見て得られるモノなど、何も無い。そんな事は初めから分かっていたはずなのに、アヤカの胸にはひたすらに空虚な想いが去来していた。
「今さら、何が変わる訳でもないのに」
ばちん、と真空が弾ける。
鬼を押し込めた棺から、少女の姿は消え失せていた。
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