ep23/36「全部、私が壊しちゃったんだ」
たしかあれは、入学式を終えて、寮の部屋に入ろうとしていた時のことだった。
当時の光景を思い起こす度に、あの日咲いていた桜の香りが鼻孔の奥に蘇って来るかのよう。もはや懐かしく思えるくらいなのに、瞳に映った景色は未だにまぶたの裏から離れようとしないのだ。
だから、今でも忘れない。
最初に声を掛けてくれたのは、中等部一年のハナの方だった。
「その、好きです……っ!」
鍵を差し込もうとした矢先、背後からいきなり掛けられた一言。
驚いたアヤカが振り返ってみれば、そこには黒髪をサイドテールに束ねた少女がいた。まだロクに自己紹介もしていないというのに、ほぼ同い年と見える少女は目の前でにこにこと微笑みかけて来ている。
しかし、次の瞬間にはハッとした様子で口を押えると、1人でわたわたと焦り始めていた。
「あっ、いや、その……制服すごく似合っているから、好きだなって! 好きっていうのは、つまり凄く似合っているなぁってことです!」
早くも目の前で涙目になりかけている、彼女の名はハナ――――という事実さえ、初対面のアヤカにはまだ知る由も無い。
――――こんな娘、いたかしら?
まだ名前も知らぬ他人同士。うきうきと弾むような声音で発せられた一言こそが、2人の交わす初めての会話となっていた。
しかし、警戒心を融かすような笑顔を向けられてもなお、当のアヤカは浮かない表情を崩さない。否、どうしても崩せない。
「そう、なのかしら。別に良いけど」
困惑に満ちた視線。せいぜい、そう答えるのが精一杯だった。
入学式では全校生徒の前で答辞を読んでいたから、きっとそれで話しかけてくれたのだろう。講堂に集っていた同級生の1人や2人、見逃していてもおかしくは無い。そうやって無意識に張った心の壁が、名前も知らぬ目の前の少女を遠ざけようとする。
相手との距離感が分からない、どう話し掛けて良いかが分からない。昔からそうだったじゃない、と自己嫌悪交じりの感情がふっと脳裏を掠めていく。
――――こんなだから、私って好かれないのね。
しまった、と思った時にはいつも遅い。
表情をこわばらせながら、あるいは当たり障りのない言葉をかけながら、アヤカが意図せず突き放してしまった人たちはそのまま去って行ってしまうのだ。今しがた突っ返してしまった目の前の少女もまた、同じように去ってしまうに違いない。
アヤカは恐る恐る顔を上げてみる。しかし、徐々に上げていく視線の先で、ハナは微塵も笑顔を翳らせてはいなかった。
「緊張してたんですよね。頑張っているんだって、凄く伝わってきました!」
ぐい、と踏み出して来たハナは、今や目と鼻の先で表情を輝かせている。見えない尻尾をぶんぶんと振るような勢いで迫る彼女に、アヤカは思わず後ずさっていた。
そして、白旗よろしく挙げられた両手は、不意にふんわりとした温もりに包まれる。気付けば、彼女の手はハナにがっちりと握られていた。
「あのっ、え?」
一瞬、思考をフリーズさせながらも、アヤカはゆっくりと口を開く。
「こ、これって……?」
「あぅ……ごめんなさい! あのね、これはクセみたいなもので!」
昔からよくお母さんがやってくれたので、と俯きながらもハナは呟く。
なぜかアヤカ以上に驚いた様子のハナは、耳を真っ赤にしながら視線を外していた。その様子を見てしまえば、心の中に張っていた壁など一気に崩れ去ってしまう。
「ちなみに、どうしてその事を……?」
「??? なにをです?」
「ほら、その、私がすっごく緊張していたっていうこと、どうして分かったのかなって気になったんです。表情が固いらしくて、小さい頃からそういうのにもなかなか気付いてもらえなくて……だから」
もじもじと話している内に、アヤカは自分の耳までもがカーッと熱くなるのを感じていた。
これでは、ついさっき眼前で耳を真っ赤にしていた彼女と変わらない。こうして緊張しているのが相手に丸分かりと自覚してしまえば、話すのも余計に恥ずかしくなって来る。
そんなアヤカの様子に、却ってホッとした様子のハナが応えていた。
「なぜか分かっちゃうんです、そういうの。だからこれからは頼ってくださいね、ルームメイトになるんですし……って、馴れ馴れしかったかな。あははは」
「そんなこと、無い……」
アヤカは誰に聞かせるとも無しに、一人呟いていた。
目の前の名前も知らぬ少女が話しかけてくれたこと、踏み込んで来てくれたことが、言い知れぬ温かさで胸を膨らませているようだった。
ルームメイト、つい数分前までは不安の象徴でしか無かったそれさえも、今は確かに心を浮き立たせる響きとなって脳内を反響していく。
――――そっか、この娘が私のルームメイト!
「わたし、ハナって言います。
ハナは敬語を解いて、はにかみながら改めて手を差し伸べて来る。
その瞬間、アヤカはこれまで感じたことも無いくらいに、頬が火照りだすのを感じていた。
走ってもいないのに心臓が暴れ出す。今や目の前のハナにさえ聞こえてしまうのではないかと思えるほどに、身体全体が力強く脈打っている。
生まれて初めて感じる衝動だった。
それでも、不思議だとは思わなかった。
きっと
――――一目ぼれって、本当にあるんだ。
「こちらこそ、よろしくおねが……ううん、よろしくね」
「もちろん!」
初めて出会ってからの3年間。ハナが心の距離を詰めて来るのは本当に一瞬で、それでも悪い気はしなくて。むしろもっと踏み込んで欲しいとさえ思った頃には、もう忘れられなくなっていたから。
話したり触れ合ったりするだけで勝手にこちらの調子を狂わせて来るハナが、少しだけ恨めしい。だから、たまにはからかいたくもなる。
それなのに本人は無邪気な顔で世話を焼いて来るのだから、ずるい。
「アヤ!」
何気なく名前を呼んでくれる時。
ハナは、いつだって屈託のない笑顔を向けてくれた。
「アヤ、いこっ!」
慌ただしく学園へと向かう朝。
ハナは、躊躇いなく手を差し伸べてくれた。
――――またハナと、こうして笑っても良いんだっけ。
こんな事をしてても良いのだろうか、許されるのだろうか。不意にそんな想いに駆られたアヤカは思わず胸を抑える。モヤモヤとした罪悪感に締め付けられる胸からは、いつの間にか何かがスッポリと抜け落ちてしまったかのようだった。
しかし、うまく思い出せない。
思い出してはいけないと囁く直感に逆らって、アヤカは記憶の蓋に手を伸ばした。その瞬間、眼前に広がっていた景色は闇へと沈む。
昼は夜へ。
ハナの笑顔は、縋るような泣き顔へ。
そして無数に舞っていた花びらは、凍った涙へとすり替わる。
――――やめて、思い出させないで。
唐突に襲い来る予感に怯え、アヤカは咄嗟に目を閉じていた。
重ねた肌の感触、呼吸する度に膨らむ胸郭のライン。噛み締める度に歯先を押し返そうとしてきた、汗ばんだ首筋の弾力までもが蘇って来る。
ハナを思うさまに汚し抜き、刻み付けた感触に身体が震え上がる。
あの夜、それまで知らなかったハナを知る事が出来た。
それまで知っていたハナはどこかへ行ってしまった。
もう笑ってくれないのが、何より辛かった。
アヤカの手に残るのは、肌を透かしてハナの裡に直接触れているような感触だった。指に馴染み深い熱を感じたアヤカは、あぁ、と口元を歪めていく。
あの夜よりも更に深く、ハナの深奥へと伸ばしているのは既に汚れた手。アヤカ自身の過ちを告発するように、彼女の身体を這った指先の疼きは収まらない。
密かに抱いていた想いの全ては、あの晩に歪んでしまったのだ。
いや、違う。
――――全部、私が壊しちゃったんだ。
『
束の間、膨れ上がった閃光が壁面モニターを真っ白に染め上げる。
リリウスと身体感覚を共有する右腕の痛みに、アヤカの意識はようやく現実へと引き戻されていた。
失態だった。
脳内に残っている記憶を探れば、
ようやくコックピットシートの上にいる実感を取り戻したアヤカは、未だ戦闘の渦中にあるリリウスに右腕を振り上げさせていった。
「敵の残りは……!」
『今、1機倒したから、あと3つ!』
既に溶鉱炉と化した大地、槍を手に佇む敵は残り3機。
それはすなわち、現在地球上で稼働が確認されているハドマの数でもある。
統合司令個体たるマカハドマを倒してから1カ月、確かに予想通り地球全土でほぼ全てのハドマが活動を停止した。しかし、そんなある種のフェイルセーフを無視し、周回ルート上で進軍を続ける残党も存在したのだ。
なぜ動けるのか、なぜ動き続けるのか、理由は一切不明。
マカハドマの死骸から離れてまで島外に派遣されたリリウスは、その残党を殲滅するべく昨晩から戦闘を繰り広げていたのだった。
『残りも全部、消し飛ばすから!』
ぞわり、とアヤカの身体に悪寒が走る。
すると肩口の肉が痛みも無く裂けて、ぱっくりと開いた肉の間に頭が現れる。同時に肩甲骨がずるりと滑っていくと、ちょうど肩と背の間から左右一対の両腕が突き出し始める。
「や……やめ、てっ!」
アヤカの口からは咄嗟に懇願の言葉が漏れ出るも、
だってあの時は、アヤもそうしたじゃない。
まるでそう言わんばかりに、アヤカの身体は異形に侵されて行った。
異物が身体を侵した時の痛みは無い。だからこの頭も腕も異質なモノであるとは、直感的には思えない。痛みが無いから在って当然なのだと言わんばかりに、3つの頭、4本の腕はすっかり身体に馴染もうとしていた。
「う……っ」
寸分違わずアヤカ自身の身体にも再現された体性感覚は、その全てが錯覚に過ぎない。思わず吐き気を覚えたアヤカは、胃の中身をひっくり返すようにえずいていた。
左右含めて3つの頭に繋がる胃袋は、果たしてどこから内容物を吐き出すというのだろう。脳裏に浮かんだ場違いな心配にも関わらず、口からは唾液が細い糸を引いて垂れていくだけだ。
ハナが罰を与えてくれたのだと思えば、心の底には安堵が広がっていった。
今や三面六臂と化した
この一撃で残党を蒸発させ切るつもりなのだと理解すると、アヤカは彼女が望むままにトリガーに手をかけていた。
『アヤ、やって』
忌まわしき鬼を消し去るのに、何を躊躇う必要があるだろう。
溶岩の海と化した大地に尻尾を突き刺せば、リリウスを震源とした小規模地震が溶岩を波打たせていく。地盤深く食い込ませた尾をアンカー代わりに、リリウスは背に生えたヒレを眩いばかりに白熱させ始めていた。
全て前方へと向けられた四つ腕は、今や風速200m/sは下らない火災旋風を纏っている。膨大な熱に膨れ上がった上昇気流は猛烈な勢いで立ち昇り、今にも泣き出しそうな暗雲を空に膨らませていた。
「
紫に輝くリリウスによって、雲底は淡く照らし出されている。
そして雷鳴が轟いた直後、業火が解き放たれた。
『
マッハ7以上で伸びていく火炎は、瞬く間に邪魔な小山を蒸発させる。なおも伸びていく火炎放射は辺りを昼と変えるほどの光を放ち、既に真っ赤に融けていた溶岩を蒸発させて水蒸気爆発に近い現象を起こしていた。
蒸発するのは、岩の方ではあったが。
しかし、そんな些事に構うことなく形成された衝撃波面は、大地を捲れ上がらせていった。直径1kmに亘って抉り抜かれた岩盤もろとも、立ち尽くす鬼を炎が喰らう。
火炎に巻き込まれたハドマは一瞬にして永久氷晶を剥がされると、その衝撃波にたまらず
「……掃討、完了ね」
数秒間の掃射が終わった頃には、もはや後には何も残っていなかった。
およそ90km先に広がる地平線は綺麗な丸みを帯びている……たとえ同じ場所に立ったとしても、昨晩まではそびえ立つ2000m級の山脈に遮られて見えなかったはずの景色だ。
ピリ、と頭皮が引き攣れるような感覚が走る。
直後に天から降り注いだ雷は、アヤカの頭頂から足首までを這っていった。避雷針よろしく雷を受け止めたリリウスから、数億ボルトは下らない感電の痒みが伝えられたのだった。
リリウスを打ち据えた雷鳴を皮切りにして、真っ赤に煮える溶岩の海へと雨が降り注ぎ始める。遂に地上で確認可能な最後のハドマを討伐したリリウスもまた、二度、三度と雷の直撃を受けながら、黒い雨に打たれていた。
轟、轟、と空が哀しみに吼える。
阿修羅の如きリリウスは、どこまでも無機質な9つの眼で天を見つめ続けていた。余熱に燻るリリウスの眼からは、一瞬にして熱湯と化した雨が滴り落ちて行く。
「ハナ、やっと終わったわ」
稼働停止したコックピットの中で、アヤカは身に纏う
無理をしていた、などという表現で済ませられる話ではなかった。
またしても
変身が解けてもなお、ハナの髪は黒には戻らない。
そんな症状が現れているのは、ハナだけだ。
「私だったら、良かったのに」
彼女を巻き込んだのも、汚したのも、全ては自分自身。
アヤカは血の気を失ったハナの顔を撫でていくと、そっと唇に触れる。桜色の髪を数本絡ませた唇からは、ともすれば聞き逃してしまいそうな呟きが零れ出ていた。
「ア、ヤ……」
直後、アヤカの身体は、昏倒したままのハナに覆いかぶさっていた。
どこまでも近付けられた頬がこすれ合って、互いの呼吸を感じさせる。あと数mm、ほんの少し身を屈めたなら触れるはずの感触。一か月前のあの日までは幾度も視線を奪われていた唇を前に、アヤカの身はそのまま固まっていた。
罪悪感、後悔、あるいは違和感。
彼女はそのまま何もせずに、ハナから静かに離れていった。
――――私、ハナのこと好きだったのかな。
奪い、汚してしまった後悔が、喉の奥にトゲとなって突き刺さる。
しばらく前から、ハナの傍では安心できない自分がいることに気付いていた。それは決して胸を高鳴らせる想いだとか、その先を夢見るが故の期待感ではない事にも気付いていた。強迫観念的な想いが心臓を締め付ける度に、いっそハナの隣にいない方が楽になるのではないかとさえ思えてしまう。
つまり、それはただ、耐えがたい程の恐れだった。
隣からいなくなってしまうかも知れない。
もう話せなくなってしまうかも知れない。
マカハドマとの死闘を乗り越えてから昏倒し続けていたハナを前に、底知れぬ恐怖で一睡も出来なかった日々の記憶が蘇る。一度でも抱いてしまった恐怖は、未だに心に染み付いて離れてようとしてくれない。
離れてしまうのが怖いから、傍に居たい。
こんなにも傍にいたいのは、ハナがどこかへ行ってしまうのが恐ろしいから。
いつの間にか素朴な想いとはかけ離れてしまっていた感情こそが、もうとっくに道を踏み外していたことの証では無かったのか。
そっか、とアヤカはようやく気付いていた。
かけがえのない存在を、いつ喪うとも知れない恐怖。
きっと正気でいられるはずは無かった。
「順番、間違えちゃったんだ……」
正しく想いを通わせて、正しく愛せれば、こんな風に間違える事も無かったのだろうか。
今さら気付いてしまった後悔に心を凍り付かせながら、アヤカは本当は自分が何を望んでいたのかを知る。共に死線を越える運命共同体としてではなく、普通に、普通のハナに恋をしてみたかった。たったそれだけだった。
身体を交わすには早過ぎたし、想いを交わすには遅過ぎた。
ほんのちっぽけな勇気を奮えば、唇を重ねるに足る想いはいつだって伝えることが出来たはずなのに。結局、今になっても口に出せない言葉は、ずっと前からハナに伝えることを夢見て来た一言に他ならない。
「まだ、言えてないじゃない……」
なぜ傍にいたいのか、なぜ手を離したくないのか。
その答えを見つけられないままでは、二度目の口づけを交わす資格も無いと思えた。2人で寄り添うための理由が、今は鉄棘となって胸に突き刺さる。
いっそ出会わなければ、きっとあの涙を見る事も無かった。汚してしまうことも無かった、こんな想いを味わわせてしまうくらいならば、と心は過去に向かっていく。
「私たち、あの日会わなきゃ良かったのかな。なんで普通に、恋も……できなかったのかな……」
やり直したい、ハナとの全てを。
しかし、歯車はいつしか狂ってしまったのだ。
かつてハナが褒めてくれた制服を身に纏い、アヤカは立ち尽くす。
あの日出会った黒髪の少女も、屈託なく笑い掛けてくれるルームメイトも、もうどこにも見当らない。
滲む視界に映り込むのは、代わりに手にした
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