ep2/36「頑張れ、リリウスのパイロットさん♪」
「うぅ……」
白い布団の中から、ひょっこりと突き出た頭。それは魔物の顎から這い出そうとした少女が、道半ばで力尽きた証に他ならない。未だ15才の身体を捉えて離さないのは、朝の布団が持つ魔力ゆえだ。
夢現の狭間を彷徨う
「ふぁぁ……」
大きな欠伸の声は、二段ベッドの天井に当たって跳ね返される。
彼女がもぞもぞと動き出すにつれ、ネグリジェを纏った脚が、腕が、徐々にベッドから抜け出て来る。無防備に投げ出されたすらりと長い脚には、太もものホクロ以外、おおよそ一点の曇りも見当たらない。
5分後、アヤカはようやく、未練がましくもベッドから起き上がってみせた。
裾が引っ張られ、ほんの少しだけはだけたネグリジェ。その上を流れる金髪は、露わになった肩の辺りでさらりとこぼれ落ちる。
まるで西洋人形か何かのように整った身体。しかし、寝ぼけ眼でぼーっと周囲を見つめる様には、まるで緊張感がない。
然るに、アヤカは低血圧気味だった。とても、とても朝に弱かった。
「はなー、どこー?」
むっくりと起き上がったアヤカは、半ば白昼夢に浸っているような足取りでふわふわと彷徨い出す。
仄かに甘い残り香を漂わせながら、その歩みは無意識の内にキッチンを目指す。
そして彼女が廊下の突き当りに差し掛かった時、すぐ傍で不意に声が上がった。
「おっとぉ!」
「???」
幾つもの疑問符を浮かべるアヤカは、ワンテンポもツーテンポも遅れてようやく顔を上げる。すると、寝ぼけた視界に飛び込んで来たのは、朝食を乗せたプレートを手にあたふたとバランスを取るハナの姿だった。
ふぅと軽い汗を浮かべる彼女を前に、当のアヤカもやっと状況を理解し始めていた。
――――あ、ハナがいたわ。
アヤカは緩み切った笑顔を浮かべると、同居人に向けてのんびりと朝の挨拶を送る。然るに、彼女はとても朝に弱かった。
「あ、おはよう、ハナ」
「ストップ! アヤ、そこでストップね!」
「はい」
もう、朝は弱いんだからーと言いつつ、ハナは神速の手さばきを以て世話を焼き出す。
当事者たるアヤカは、その動きの半分も捉えていなかった。噛み合わない時間感覚の2人が並べば、それはまるでスローと早送りが合成されているかのような光景だ。
気が付けば、アヤカは顔を洗い終えていた。歯磨きも終えていた。高度に効率化された世話焼きは、もはや
洗面所からリビングへ。寝ぼけ眼をこするアヤカは、マイペース極まる足取りで席に着く。
リビングに差し込む光が、影絵のように浮かび上がらせるアヤカのシルエット。薄い生地の向こうにのぞく少女のラインは、スレンダーな膨らみとクビれを描く三次曲線だ。
んー、と凝った上半身を伸ばせば、控えめな膨らみが胸元のシルク生地を押し上げる。伸びで軽く乱れたネグリジェは、またしても白い肩を陽光の下に晒してしまっていた。
「アヤ、また肩出てる」
背後から伸びて来たハナの手が、その無警戒な肌に指先を伸ばす。ネグリジェの肩ヒモを直そうとする手付きは、すっかり慣れた日常の一動作。しかし、今日に限っては、触れたか触れないかくらいの圧で、ハナの指先が微かに首筋をなぞっていった。
その瞬間、アヤカの背筋を微電流が走り抜けて行く。
「んっ」
一瞬、呼吸を詰まらせた口からは、独りでに軽い声が漏れ出てしまっていた。ほんの僅かに乱れた呼吸は、自分で気付いた途端に恥ずかしさが込み上げて来る類のものだ。
かーっと上がっていく体温を感じ取ってしまえば、背後に立っているハナに怒りの一つもぶつけたくなる。
「……ハナったら」
「ん?」
無意識にして無自覚。上目遣いで
いつもこうだった。アヤカの呼吸が不意に乱れる瞬間というのは、きまってハナの指先か視線が心を撫でて行った時なのだ。しかし、それが決して不快でないことは、ほんの僅かに緩んだ頬が勝手に証明してしまっている。
とっくの昔に盛り付けられた朝食たちは、そんな彼女たちの前で今や遅しと出番を待っていた。
「あら、今日はトーストね」
「そそ、昨日安かったから」
こんがりと焼けたトーストに、薫り高く溶け出すバター。ところどころ硬めに焼き締められたベーコンが、ごくスマートに白い皿を飾る。アヤカが手に取れば様になるようなメニューは、しかし、朝の忙しさの前では単なる栄養補給源でしかない。
アヤカがトーストを口に運べば、並行してハナの世話が始まる。後ろから少し音程を外した鼻歌が聞こえて来るのも、いつものことだ。
それ以外には何も聞こえない、リビングを満たす束の間の静寂。
鼻歌交じりに髪を梳かしているハナは、いつもどんな表情をしているのだろう。ふとアヤカの脳裏をよぎっていった疑問をよそに、ふんわりと付いていた寝ぐせの数々は、ハナの手で素直に
「本当に髪のクセがないよね、アヤはさらさらで良いなぁ」
羨ましそうに、そして恨めし気にアヤカの金髪を手に取ったハナは、自分の黒髪をくるくると指に巻き付けだす。そして諦めたように、湿気に素直なセミロングをサイドで束ねた。
ばたばたと忙しい朝、彼女はたったそれだけで髪を整えてしまっていた。動き回る度、ハナのトレードマークたるサイドテールは今日も元気に跳ね回る。
アヤカはふと、その後ろ姿を目で追っている自分に気付いた。いくら他愛ないやり取りを重ねても、肝心の言葉だけはいつも喉で引っ掛かってしまう。そんな苦さが口の中に広がっていくも、やはり青い瞳の中心にはハナの姿が映り込む。
ハナに面と向かい合わなければ、あるいは後ろ姿に向けてなら――――。
「……無理よね、やっぱり」
「ん、なんのこと?」
「ううん、なんでもないわ……はぁ」
微かなため息を吐いたアヤカは、言葉一つで戻れなくなるかもしれない日常を、今日も壊さないようにしようと決める。そんな自分の不甲斐なさに、心のどこかで安堵する。
「う、苦い……」
うへー、と渋い表情を浮かべるアヤカは、恐る恐るといった様子でコーヒーカップを傾けていた。未だエンジンのかかり切らない身体にしみ渡っていくのは、彼女の活動を支えるカフェインの滴だ。
毎朝、お決まりの苦いコーヒーを啜るアヤカは、キッチンの向こうから上がった声でようやく我に返った。
「あー!! もうこんな時間じゃん!」
AM08:12。登校前のラストスパートを経て、2人は玄関へ。勢いよく開かれたドアから飛び出して来るのは、朝の修羅場を乗り越えて来た2人の姿だった。
浴びせられた陽射しの眩しさに、思わず目を細めるアヤカ。一方で華の学園生活を彩るセーラー服は、朝の陽射しでいっそう清潔な白さを際立たせる。
「どうして朝ってこんなにバタバタしちゃうのかしら……ハナ?」
アヤカは膝の辺りでひらめくスカートを軽く抑えつつ、玄関前のハナを振り返った。
ガチャリという音が聞こえて来れば、日々の学生生活は始まったも同然。中等部3年生の肩書きが、自然と身体に貼り付けられたような心地になる。
「電気よし、鍵よし! アヤ、いこっ!」
「置いて行かないでね」
学園の敷地内にある寮から校舎までは、整えられた庭園のような光景が続く。よく刈り揃えられた生垣の間を抜け、ささやかな花壇を抜け、決して遠くないはずの登校ルートを早足で駆け抜ければ、古風な木造校舎はすぐに見えて来た。
登校時間、実に3分以内。
たったそれだけの時間で、スイッチを切り替えてみせたアヤカは、すっかり
「おはよう、アヤカさん」
「アヤカさん、おはようございます」
アヤカとハナ、二人を追い越していく生徒たちが声をかけるのは、きまってアヤカの方だった。決して動じず、穏やかに。一人一人に「おはよう」と返していく彼女は、すっかり普段の立ち居振る舞いを取り戻していた。
歩く度に揺れる金髪は、怜悧な表情も相まって一つの絵画をなしている。
その姿はまさに、気品すら漂う優等生。そんな彼女の真実を知る者など、この場には誰一人としていない――――ハナを除いては。いっそ近寄りがたい程に澄ました表情は、感情表現が苦手なことの現れでしかないのだ。
「ぷぷー、アヤカさん今日もお綺麗ですわ」
「もう、ハナまでやめてよ。そんなに出来た人間じゃないわ、わたし」
「そうだね、だからせめて朝もこんな感じで……ね?」
「それは出来ないわ、朝は苦手だもの。すっごく」
「あはは……」
澄ました顔で開き直ったみせたアヤカに、悪びれる様子はない。無理なものは無理なのだ。
半ば本気の冗談を耳にすれば、ハナは堪え切れずに笑い出してしまう。ふふ、と二人そろって笑い出せば、それがいつもの登校風景となる。こんな朝の時間が、アヤカは好きだった。
だからこそ、次の瞬間に背後で上がる挨拶でさえ、彼女たちは一字一句違わずに予想出来ていた。
「よぉ! アヤっち、ハナ!」
「あ、おはよう」
「おはようヒカリ!」
少し下げた視線の先にいるのは、唐突な挨拶を仕掛けて来た明るい髪色の少女だ。
肩の上で短いツインテールを揺らしながら、ヒカリと呼ばれた少女はまるでミサイルのように2人の前から飛び去ってしまう。周囲でマシンガンさながらに発射されていく挨拶は、ヒカリが道行く人に誰彼構わず挨拶しまくっている証だった。
その勢いと来たら、数年付き合ってもなおアヤカには理解出来ない域にある。
一通り挨拶回りを終えたところで、彼女は再びアヤカとハナに歩調を合わせて来た。むむむ、と芝居がかった仕草で口を抑えたヒカリは、からかうような視線でアヤカとハナを舐め回していく。
「今日もお二人さんは仲睦まじいですなぁ、さすがルームメイト。さすが夫婦……これが長年連れ添った夫婦の貫禄というものですかな」
「そんなんじゃないってば、私まだ16になってないし」
「ハナ、そこじゃないわ」
朝から賑やかなヒカリ、ころころと表情を変えるハナの2人は、すっかり流行りの服の話題で盛り上がり始めていた。
朝の憂鬱などどこ吹く風、と言わんばかりに放射されるエネルギーが、周囲の気温を一気に3℃くらいは引き揚げてしまったかのようだ。澄ました表情で歩き続けるアヤカは、人知れずそんなやり取りが繰り広げられる朝の心地よさに身を浸す。
いつもの登校、いつもの友人、いつもの話題。
何一つ昨日と変わらない空気は、アヤカに安らぎを与えてくれる日常の光景だ。
ただ一つ――――誰にも理解される事のない、たった一つの違和感を除いては。
「え、なになに、どしたのアヤっち」
「え?」
いきなり掛けられた言葉は、まったくの不意討ちだった。下がり気味の視線を上げたアヤカは、その時になって初めて、自分が暗く俯きながら歩いていたことに気付かされる。
ああ、
ようやくヒカリから言葉の意味を理解した彼女は、胸中でやや自嘲気味に呟く。どこか皮肉っぽい笑みを浮かべている事に気付いたのは、ハナまでもが気遣わし気な視線を向けて来たからだった。
「アヤったら、また怖い顔してる。
毎朝、ソレを見掛けているはずなのに。
アヤカには、どうしても受け入れることの出来ない景色が一つだけあった。それは、
学校の奥にそびえ立つのは、紛れも無く、全長1kmに達する灰色のサナギだった。
「ねぇ、ハナとヒカリはあれを見て、何も……何か思わないの?」
「や、明日も晴れかなぁって」
「私も私もー」
半ば独り言のようにこぼれ出た疑問には、ハナとヒカリからごく当たり前の答えが返って来る。
サナギに纏わりつく雲の具合を見れば、明日の天気が分かるなどという話もあるくらいで。それくらいの関心を向けるのが普通なのであって。あって当たり前なサナギの存在を気にしているのは、島内広しと言えどアヤカくらいのものだ。
ど田舎と言っても良いこの島にあって、唯一の高層建築物と言える建造物。島にいれば嫌でも視界に飛び込んで来るそれを、アヤカは未だに強烈な違和感の塊として見ることしか出来なかった。
「ごめんなさい二人とも。何でもないわ」
誤魔化すように笑ってみせるものの、ハナとヒカリは相変わらず不思議そうな視線を向けて来る。島の中心部に、雲をも超えるサナギがそびえ立っている。たったそれだけの事が未だに受け入れられないアヤカは、そんな自分の感性こそ不思議でならない。
――――あれはもう、100年も前からあそこに立っているのにね。
束の間、絶えぬ会話で盛り上がっていたはずの3人は、軽い沈黙で覆われる。口を開いたのは、どこか遠くに視線を向けるヒカリだった。
「でさ、今回は誰が学校から選ばれるんだろうね。誰が乗るんだろ、
少し疲れたような色を帯びた呟きは、更なる沈黙を呼び込む。アヤカは何を言うべきかと悩んで、結局黙り込むしかなかった。
――――リリウス。
島内の人々にそう呼ばれるサナギは、然るべき乗り手を選ぶ。
今こうして登校している学生は皆、リリウスが動くところなど見たことが無い。あれほどの物体が動くなど、
他の誰とも違った視線で、アヤカは薄雲に霞むリリウスを見つめる。独り想いにふける彼女の横で、ふふふ、という忍び笑いが沈黙を破った。
「ふっふっふ……実はわたくし、選ばれておりますのよ」
意味深な笑いを浮かべたハナは、ちらちらとヒカリの方を見やる。すると、なにか閃いたように顔を輝かせるヒカリは、躊躇いも無くその
「あらやだハナさん、あなた点数が足りないのではなくって」
「もー、ひっどーい!」
ハナがぽかぽかと殴る仕草には、僅かな脅威でさえ感じ取ることが出来ない。ほっとしたように表情を緩めたアヤカの前で、ハナとヒカリの戯れはいつもの騒がしさを取り戻していた。
そんなやり取りを繰り広げている間に、アヤカ達は正門を潜り抜けていく。
「ハナもヒカリも、そろそろ着くわよ」
3人は校門をくぐる。木造の古めかしい校舎が間近に見えて来たなら、彼女らの登校時間は終わりを告げていた。
「じゃあお二人さん、またお昼休みにねー!」
一足先に正面玄関を抜け、ヒカリだけはまた別のクラス教室へと走っていく。再び二人となったアヤカとハナは、同じクラスの教室へと向かおうとしていた。
時刻はAM08:22。今日も遅刻をしないで済んだという安心感が、アヤカの胸に安堵感を沸き立たせる。
しかし、その時、アヤカの胸ポケットで携帯端末が鳴動し始めた。
ブブブと不吉に震え出す予兆を感じ取った彼女は、思わず周囲をキョロキョロと見渡す。改めて内容を確認するまでも無い、こんな時間に呼び出しがかかったという事は――――。
「どしたの?」
「アレね、これからやるみたいで」
事情を半ば察している様子のハナは、小声でアヤカに問いかけて来る。大変だねー、と言外に語っている瞳には、一片の同情と励ましの色が込められている。
改めて携帯端末をチェックしたアヤカは、その予想に違わぬ内容に少しだけ表情を曇らせた。
「もう、こんな時間じゃなくてもいいのに……」
そんなことをしていたからこそ、アヤカはギリギリまで気付けなかった。耳元に近付けられたハナの口元が開くまで、何の心構えも防御態勢もとれていなかった。
「頑張れ、リリウスのパイロットさん♪」
「ひゃっ」
不意に耳元で囁かれた声が、くすぐったさとも痺れともつかない感覚で、アヤカの全身を撫でて行く。
ここは人気のない階段下。不意に上がった声も、毅然とした表情に僅かなヒビが入った様子も、全てはアヤカとハナの間で共有される小さな秘密でしかない。
「……っ!」
小さくプルプルと震えるアヤカは、すっかり赤くなった声で精一杯の抗議をぶつける。とはいえ、小声で囁くような抗議では、単に可愛らしさ以外の要素を乗せることが出来るはずもなかった。
「もう……っ、
「だって選ばれるのは一人だもーん! わたし関係ないもーん」
他の誰にも情報を漏らさぬよう、2人は無邪気に小さく戯れる。他ならぬアヤカこそがリリウスの
古代人型遺構〈リリウス〉の起動実験は、今日も平穏の内に始められようとしていた。
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