ep15/36「こんなの……どうしようもないじゃない」

 窓から差し込む月光が、病室に曖昧な陰影を浮かび上がらせる。

 普段なら開けようとも思わない窓際に、軽くもたれかかる1人の少女。揺らめくカーテンに切り取られた夜景を眺めながら、アカリは自然と頬が緩むのを自覚していた。

 風の向こうに祭りばやしの音を聞き取れば、心は自然と浮足立ってしまう。

 しかし、彼女はここで祭りを見届けるつもりだった。


 あと一歩、この病室から足を踏み出す勇気が出ない。相反する心で歪んだ笑顔は、今にも泣き出しそうな気配すら漂わせている。

 もうとっくにヒカリに浴衣を着付けて貰ったというのに、未だ躊躇っている自分が情けない。


「そりゃ、行こうとは思ったけどさ、行くつもりだったけど……これじゃ、あとでヒカリに怒られちゃうかな」


 情けない事ではあったけど、尤もらしい言い訳ならいくらでも思い付けそうだった。諦めに導かれた指先は腰の裏へと伸びて行き、ヒカリが張り切って締めてくれた帯に手をかける。


 ――――そういえばヒカリ、久しぶりにねーちゃんと出かけられるんだもん、なんてはしゃいでいたっけ。


 小さい頃は、隙あらば飛びついて来た妹。

 元気過ぎるくらいに元気で、それでも繊細な心を抱える妹。

 そんな彼女が未だに心配にはなるけど、今のアカリにはその真っ直ぐさが眩しい。こんなところで足踏みしている自分よりも、よっぽど強いのだろうとさえ思えた。

 ごめんね、臆病なお姉ちゃんで。

 指先がスッと帯の間に滑り込む。しかし、その時、ふと彼女の脳裏をよぎっていく言葉があった。


『アカリ先輩も、夏祭りに来てくださいね』


 帯を解こうとしていた指は動きを止め、アカリは外の景色に目を向ける。

 その眼に映り込むのは、街明かりにボゥっと浮かび上がるサナギのシルエット。ちょうど今から一週間前の夕暮れ、アカリは自分が誰と約束していたのかを思い出していた。

 いや、あれでは約束とも呼べないだろうけど。


「ふふっ、そっか、アヤカちゃんもハナちゃんも帰って来たんだよね」


 思わず緩んだ表情には、しかし、ほんの僅かな熱が宿り始める。

 きっと二人は辛い戦いを乗り越えて来たのだろうけど。

 リリウスで戦ったことのない自分には、想像もできないような苦しみだったのだろうけど。

 ならば自分も小さな一歩でせめて二人に追いつきたい。先代として、一人の人間として。

 逡巡を帯びたアカリの横顔を、夜空に咲いた花火が照らし出す。


「あっ、花火も始まったんだ」


 夜空に咲き誇る大輪の華。この景色をまた見る為に、後輩たちは命を賭して島外から帰って来たに違いなかった。

 この病室で日々を終える、たったそれだけでこの日を迎えられた自分とは違う。

 だからこそ、自分も踏み出してみようと思える。否、もうとっくに進まなければならなかったことを、後輩たちがようやく思い出させてくれたのかも知れなかった。


 ――――私も、行かなきゃ。


 遅れてやって来た音に背を押されるように、アカリの決意は固まっていた。

 あと一歩の勇気をくれた後輩たちの、なんと頼もしいことか。


「どんな顔して会えばいいのかな、まずは……ありがとう、かな」


 アカリは病室で一人、着付けた浴衣姿を鏡の前でチェックし始めていた。

 久方振りに着飾ったことで心が華やぐ、身体が軽くなる。自然と零れる微笑みは、自分でも驚くほどに明るいものだった。


「うんうん、似合ってるよね。バッチリ!」


 一度踏み出してしまえばこうも気が晴れるのかと、アカリは子供っぽい笑みを浮かべて背後を振り返っていた。


「ねっ! これ、どう思う?」


 無意識のうちに零れた問いかけは、しかし誰もいない病室の中で反響する。

 誰もいない、そんな事は分かっていたはずなのに、誰に向けたとも知れない言葉だけがおぼろな闇の中に溶け去っていく。

 誰かがそこにいた気がしてならない。

 いるはずだった・・・・・・・気がしてならない。

 何も無い空間、ベッドの傍らにすっと伸ばしていった手は、なにかをつかみ取ろうとするかのように空を切っていた。


「誰かそこに――――」


 アカリとて何も見えてはいなかった。

 それでも確かに脳裏を掠めて行ったイメージに導かれるまま、彼女は身を焦がすような衝動に突き動かされて口を開こうとする。

 直後、ヒビ一つ無かったはずの天井が、決壊したダムのごとく弾ける。暗闇に手を彷徨わせるアカリは、頭上で何が起こったのかさえも気付けなかった。


 ――――私はいったい、誰の名前を呼ぼうとしているんだろう。


 それこそが、彼女が最期に浮かべる思考となった。


 弾けた天井から瞬く間に雪崩れ込んで来るのは、洪水のような瓦礫の数々。コンマ数秒前まで病室をなしていたモノが瓦礫と化し、数千トンもの重みに押し潰される。

 次の瞬間には、衝撃波があらゆる重みを木っ端微塵に砕き散らしていた。

 塵と化して宙に放り出される、かつて意識を宿していたモノの残滓。少女の身体をも飲み込んでいった灰色の雪崩は砕け、理不尽なまでの唐突さでその意識を刈り取っていた。

 もはや誰も聞く者など残っていない空間に、鉄骨が捩じ切れるような轟音が響き渡る。


 一体何が起こったのか、遂に少女は気付けなかった。

 意識はぶっつりと途絶える。病院が天から注いだ氷塊に貫かれ、遅れて崩れて行った様を見ることもなく。巨大な墓標と化した病棟は、積み木が崩れるかのごとく崩壊していくのだった。



 * * *



 神経を焼き焦がすような狂乱、叫び声。地を震わせ続ける地鳴りの連鎖。一挙にパニックと化した人々が怯え惑う最中、アヤカは身も凍るような光景を目にしていた。

 街を挟んだ山のふもとで、突如として爆発が起こる。ビルがそのまま天から降り注ぐにも等しい位置エネルギーが、一帯を抉り飛ばすほどの運動量となって炸裂する。

 岩屑が高々と打ち上げられる様を目にしながら、アヤカは呆然と立ち尽くしていた。


「ダメよ……だって、あそこは……」


 たった今吹き飛んだ場所には、一体何があったのか。

 もうもうと立ち込める土煙の向こうにあった建物の正体を、本能がそれ以上考えるなと叫んでいる。思い出してはいけないと告げている。

 しかし、傍らで消え入りそうに発せられた一言が、アヤカの胸を刺し貫いていた。


「うそ、あそこ、ねーちゃんが……」


 それが答えだった。ヒカリがへなへなと膝から崩れ落ちる様を目にして、アヤカは振り返ってしまったことを後悔する。

 わなわなと震えるヒカリの身体、見開いた目はもはやクレーターと化した落着地点しか見ていない。次の瞬間には自分たちまでもが、氷塊に押し潰されるかもしれない。そんな恐怖さえ忘れて揺れる瞳は、たった今、目の当たりにしてしまった喪失に釘付けとなっていた。


 彼女はきっとそこにいたはずで。

 でも、あと10分もしたら待ち合わせ場所に来るはずで――――。


「あぁ……あああっ!」


 もう、絶対に来ることはない。交わした約束がもはや永遠に守られないと悟った時、ヒカリの喉からは身を引き裂くような慟哭が絞り出されていた。


「いやああアアァァッ!」

「ヒカリッ!」


 糸が切れた人形のように倒れ込んだヒカリを抱え、アヤカはじっとりと全身から噴き出す汗に肌を焼かれるような錯覚すら覚える。

 涙が出てこない、今は何も考えられない。揺れる足元に転びそうになりながらも、彼女は縋るようにハナを見上げていた。

 ハナの手にしていたかき氷が、滴に混じってべちゃりと石畳に落ちる。


「どうして……どうしてなの……」


 鼓膜をも破らんばかりの轟音。その中で恐怖と混乱に揺らめく瞳を見れば、きっと今の自分もそんな表情を浮かべているのだろうと理解出来た。恐怖も混乱も、きっと同じだった。


 ――――そうだわ、ヒカリを運ばなきゃ。


 アヤカはもはや自分が何を考えているかも自覚しないまま、ヒカリの身体を背負う。ハナも無言で手を貸してくれていた。

 義務感に突き動かされるように踏み出した脚は、昏倒したヒカリを抱えて境内に生えていた木のもとへと辿り着く。

 木の根元にもたれかからせたヒカリは、いっそそのまま意識を失っていた方が幸せなのではないかと思えるくらいに悲痛な涙を浮かべていて。


「もう安全な場所なんてないと思うけど、ここなら」

「……アヤ。もう、終わったんだよね。なのにっ、なんでこんな事になってるの! 終わったんじゃなかったの!? わたし分からないよ、どうして……こんな」


 そんなの、私にだって分かるわけない。

 しかし、悲痛に叫ぶハナはそれすらも分かっているように見えて、何も言えなくなる。胸を焼き尽くすような想いの全てを飲み込んで、アヤカはただ一言だけ叫んでいた。


「行かなきゃ……!」


 ――――MAGICAL空間転移マジカル・シフト


 心に念じた2人は、しかし、空間を跳躍する浮揚感がいつまで経っても来ないことに気付いていた。それは何度やっても同じこと。

 全身が煮えてしまいそうな焦燥の中で、アヤカは指が白くなるくらいに拳を握り締めていた。


「どうして飛べないのよ……! こんな時にっ」


 思わず噛み切ってしまった唇からはツーッと血が滴っていく。今は流せぬ涙、その代わりに石畳で弾けて行った滴はアヤカの足元を汚す。

 いったいリリウスに何が起こっているのか、近付いて確かめるより他に道はない。木に寄りかからせたヒカリに顔を近づけながら、アヤカはその冷え切った頬に触れていた。


「私たち、行かなきゃならないところがあるの。ごめん」

「ヒカリっ、無事でいてよね! 動いちゃダメだからね……!」


 これが今生の別れになるかもしれない。その予感に脚が縛り付けられて動けなくなってしまう前に、アヤカとハナは走り始めていた。

 その視線は真っ直ぐとサナギの方角を見つめ、境内のふもとで火の海と化した街へと飛び込んでいく。


 サナギに近付けばなんとかなるかもしれない。なんとかなるはず。

 自己洗脳じみた論理を氾濫させる脳髄は、もはや満足に痛みすら受け取れない。下駄を投げ捨てたアヤカとハナは、瓦礫と氷片の散らばる路地を裸足で駆けていく。

 ぬるりと滑りそうになる足裏、刺さるガラス片は数知れず。きっと今は爪の二三枚も剥がれているに違いなかったが、アヤカは束ねた髪ポニーテールを振り乱しながら走り続ける。

 今はただ、がむしゃらに走っていれば、失ったモノの大きさを考えないで済むような気がしていた。こらえ切れない涙を溢れさせる2人は、砕けそうな心を支えながらひたすらに脚を動かしていく。


 ――――今はダメ、何も考えるな! 何も考えるな! 何もっ!!


 地を揺るがす轟音に混じって、背後からはハナの荒い吐息が聞こえて来る。しかし、燃え盛る街を駆けて行くアヤカは、どうしても振り返ることが出来なかった。

 ここで振り返ってしまったら、もう二度と走れなくなると分かっていたから。今は目に映る全てを悪夢と信じて、焼け付きそうな肺にも構わず走り続ける。


「だいぶ、近付いたわ……っ!」

「かなり……っ、はしった、けど!」


 浴衣の裾がボロボロになり、煤で見る影もなくなっていた頃には、二人はようやくサナギの近くまで辿り着いていた。

 息も絶え絶えな2人は、元は商店街だったはずの道で立ち止まる。焼けるように痛む肺、今にもふくらはぎが千切れてしまいそうに熱を帯びた脚。何度転んだかも分からない腕は、細かな擦り傷が数えきれないほど。

 もはや2kmと離れていないサナギは、2人が見上げる先で場違いな静けさを保っている。


「やっぱりダメ……リリウス、動かないよ」

「どうしてよ、こんな時だっていうのに! ねぇッ!」


 喉が張り裂けそうな叫びをぶつけても、なおリリウスは反応しない。MAGICAL空間転移マジカル・シフトにも応えない。

 身を支えてくれるのは、もはや出口を見失った後悔でしかない。

 苛烈な視線をサナギの表面に注ぐアヤカは、生まれて初めてと言ってもいいくらいに、殺意に似た感情を覚えていた。誰よりも、他ならぬ自分が憎かった。

 やり場のない激情で、赤く染まっていくようにも感じられる視界。しかし、それでも青く澄んだ瞳は、見上げるサナギがキラリと艶めいた事に気付いていた。


「アヤ、リリウスがなんかおかしいよ!」

「なによ、あれ」


 2人の少女が見つめるサナギは、足元で燃え盛る炎に照らされている。つやつやと反射する表面を輝かせる様は、サナギ全体が氷山と化してしまったかのような有様だった。

 いや、違う。氷山そのもの・・・・・・と成り果てていた。

 リリウスが本当に氷で覆われているのだと悟った瞬間、アヤカは世界から音が消え去ったかのように錯覚した。街が轟々と燃え盛る音も、傍らのハナが上げた悲鳴も、全ては凍り付いた思考の中でかき消されていく。


「こんなの……」


 脈打つ心臓、弾け飛びそうな血管、自分の中を巡る音だけが支配する世界で、アヤカは不思議と大きく聞こえて来た独り言を、まるで他人事のように耳にしていた。

 自らの内から湧き出して来た絶望が、すっと全身の血に溶け込むのを感じていた。


「こんなの……どうしようも無いじゃない」


 そして無音の世界を打ち破るように、そびえ立つサナギが轟々と唸り始める。噴火寸前の火山さながらに震えるサナギは、今にも弾け飛びそうな勢いで変態を始める。

 パキ、パキリ。鋭い音を轟かせる度に、その姿は人型へと変わっていく。

 気付けば、サナギからは刀身が生えていた。

 気付けば、サナギは自らの脚で歩み始めていた。

 リリウスを包んでいたサナギは今や歪な人型となり、一対のツノを備えた姿と化して変形を果たしていた。

 二振りの日本刀、一対のツノ。その眼に真っ赤な鬼火が灯された瞬間、アヤカは遂に目の前の物体が何であるかを理解せざるを得なくなっていた。


マカハドマ・・・・・……ッ!」


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