final36/36 終極のセレナーデ

 アヤカは四方を赤熱する壁に囲まれながら、ゆっくりと目を閉じていった。地獄の業火に空気は弾け、瞼の向こうで鬼の臓腑が徐々に灰と化して行く。

 そしてアヤカは、ふっと前髪が引っ張られるような錯覚を覚えた。

 空間転移開始、耳元でぱちぱちと爆ぜていた音がふいに捻じ曲がる。局所空間歪みに呑まれた身体は、崩れ行く火葬炉から消え去っていた。


『ごめんね、もう身体も無くって』


 再びアヤカの視界が開けた時、脳裏にはそんな言葉が届いていた。

 冷気に侵されたリリウスのコックピットの只中で、アヤカは何処から発せられたとも知れない声に耳を澄ましてみる。

 自分以外には誰もいない。それなのに、残り香のように漂う気配がハナの存在を確信させてくれる。今はそれだけで充分だった。


「でも、分かる……そこに居るんでしょう、ハナ?」

『うん』


 宙を撫でるように手を伸ばし、姿なきハナと言葉を交わす。

 ハナの存在を証明するモノは、もはや頭の中にしかない想い出と、現世に形を留める髪飾りだけだった。情報を代償として蘇らせる彼女の命は、アヤカ自身に刻まれた記憶そのものだ。

 それは、明日これからを2人で生きる為に、2人で生きて来た昨日これまでを捧げることに他ならない。じきに髪飾りも燃え尽きる。


「大丈夫。ハナと過ごしてきた思い出は、無駄にはしないわ」

『アヤは、やっぱり忘れちゃうんだよね』

「でも、良いの。ハナがいない世界に生きるくらいだったら、私だけが忘れてしまう方がずっといい」

『……アヤはどんな世界に生きたい?』


 ハナの問いが耳朶を打つ。

 ずっと考えて来た答えに、躊躇いなど要らなかった。


「2人でいられる世界――――その為に、マカハドマとリリウスを合体させるわ」

『敵同士だったんだよ? 一つに合わせるなんて、そんなこと……』

「どちらも初めは同じモノだったんだもの、大丈夫」


 かけがえのない想い出が、望む明日を繋ぐ可能性になる。アヤカはそう自分に言い聞かせ、2人が持てる全てを最後の賭けに投じようとしていた。

 リリウスは目醒めて、別宇宙へと漕ぎ出す者。

 マカハドマは眠りの中で、悠久の時を待つ者。

 両者の機能を同時発動させるには、結局のところ魂を重ねた2人が必要に違いなかった。事象の地平面を超えるのだ、2人と1機で。


「あなたが生きた世界は、証は、まだ私の中に残っているから……ハナを覚えている世界・・・・・・・・・・の可能性だって、絶対に探し出してみせる」

『でも、そんなの何年かかるか分からないよ? リリウスだって何回も宇宙を渡れるわけない、その間にアヤだって……!』

「大丈夫、何年かかっても構わないわ」


 アヤカは懐かしいくらいに思える操縦席へと、その身を収めていた。

 幾度となく戦いを潜り抜けて来た座席。懐かしむように指先をなぞらせていけば、指先には僅かな凹凸が引っ掛かる。

 浅く刻まれていたのは、バイバイの四文字。

 そして、アヤカの身を覆い出す氷晶はドレスを形作り、すっかり馴染んだシートを豪奢な氷細工で飾り付けて行く。座面を覆う薄氷によって、いつしか別れの言葉もかき消されていた。


「マカハドマで方舟を凍り付かればいいんだもの。昔見た森と同じよ、そうすればきっと何百年だって……何億年だって乗り切れる」


 保証なんて無い。

 しかし、今はマカハドマから引き継いだ氷晶さえ、こうしてリリウスに融け合おうとしているのだ。

 2機が合わされば不可能なんてない。そう思えるのは、かつて死闘を繰り広げた両機の力に、身を委ねているからなのかも知れなかった。

 鬼の似姿にも見える保護外骨格ドレスを着込んだアヤカは、不意にすぐ傍で流れて行った気配に耳をそばだてる。


「ハナ、良いかしら」

『アヤが良いなら、いいよ。いつでも』


 はっきりと、心の裡に声が届いた。

 隣の座席に、戦装束を纏うハナの姿を幻視た。

 互いに伝わる覚悟に、それ以上の言葉は要らない。

 今やすっかり真逆の衣装に身を包む2人は、それでも同じ目的の為に想いを重ねようとしていた。操縦桿を介して鼓動がシンクロして行くにつれ、アヤカは揺るがぬ視線を上げていった。


「方舟って新天地に渡る為のものなんだから。やれるわ……2人なら!」


 四葉のクローバーが、遂に手中で砕け散る。


 ――――融合開始。


 どくんと心臓が脈打ったかのように、死んでいたはずの巨人たちは身を震わせる。着込む者を喪った鬼の甲冑は、新たな纏い手を求めてリリウスの骨格へと宿り始めようとしていた。

 籠手があてがわれるのは前腕骨。

 鎧が嵌められるのは、剥き出しの肋骨。

 鎧武者が徐々に骸骨へと朽ちて行く様を、まるで逆再生しているかのような光景が月面上で繰り広げられる。そして仕上げとばかりに、3本のスリットを刻まれた無貌の兜が頭部を覆い込めば、骸骨は四つ腕の鬼神と化していた。


 リリウスとマカハドマが、合一を終える。


 リリウスの骨格を転用していたマカハドマの鎧を纏えば、辿り着くべきは鬼の姿。全身から眩いばかりに放たれる光の正体は、透明無垢の甲冑に閉じ込められた炎の煌めきだった。

 同一の存在から別れ、反転存在として作られた二機は、数十億年もの歳月を経てここに先祖返りを終える。

 もはやそれは鬼でもなく、阿修羅でも無く、元来の役割を取り戻した一隻の何者かと呼ぶ他に無い。強いて名を与えるのなら、それはまさしく方舟リリウスだった。

 黄金に輝ける方舟は、月面から急速に高度を上げて行く。


「応えて」

「応えなさい」


 方舟を操るのは姿ある者、そして姿なき者。狭い宇宙をあまねく照らし出すほどの光を放ち、方舟はやがて箱庭宇宙の中心へと辿り着いた。

 今だ。

 重なる筈もない声が、遂に1つの呪文ことばとして結晶化し始める。いつか遺跡で目にした梵名は、古き金文字となってモニターに浮かび上がっていた。


「――――小夜曲の方舟リリウス・セレナーデ


 アヤカとハナが最後の呪文ことばを口にした途端、方舟リリウスは呼ばれた名の下に自らの本質を露わにし始める。

 それは腕だった。

 際限なく増える腕だった。

 ぐぐぐ、と軋む甲冑を突き破り、丸めた背からは次々に大樹のようなそれが生えて行く。

 背から放射状に突き出す手は、まるで自らが放つ光を具現化しているかのよう。8本、16本とみるみるうちに数を増して行く手は、100本を超えてなお止まることを知らぬ勢いで成長し続けた。

 実に四桁もの腕を得て、機体の変貌はようやく完成に至る。千の掌を掲げる方舟リリウスは、遂に二面千手千眼の姿へと成り果てていた。


 しかし、虚空に輝く方舟リリウスを見る者はいない。

 その姿を千の手を持つ者サハスラブジャに喩えられる者さえ、もはやこの世界からは消え去ろうとしていた。

 終わり行く箱庭宇宙を満たして行くのは、千の腕から噴き出し続ける劫火だ。

 金魚鉢のような宇宙を隅から隅まで舐めて行った炎は、地球も、月も、太陽も、生けとし生ける者全てを飲み込んでは火の粉と変えて行く。

 それはまるで、方舟の出航を告げる大洪水のよう。

 ちっぽけな太陽系は全て劫火によって洗い流され、最小構成単位クォーク・グルーオンプラズマへと還って行く。

 宇宙は数百億年もの年月を遡り、熱く、白い闇によって徐々に曇り始めていた。


 ――――2人の手で、宇宙が終わって行く。


 地球もまた、まるで自ら崩れ去るようにはらりと解けて行く。

 火の粉となって一挙に解けて行く地球は、まさに光の華。同心円状に闇を押し退けて行く光の散華は、あの夏祭りの夜に見上げた花火のようでもあった。

 火の粉は大河となって方舟リリウスの元へと流れ込み、千本もの手がその一粒一粒を余すことなく掴み取る。


 船出の時は来たれり。

 この宇宙に生ける生命全てを吸い上げ、運び行く方舟としての身に収めた後は、マカハドマの権能が時空を凍り付かせて行く。

 途端に冷め上がった宇宙からは、ようやく曇りが取り除かれていった。まるで霧を払うように晴れ上がった宇宙には、正真正銘何も残されていない。

 方舟リリウスは熱的死を迎えた宇宙から旅立つ。

 三千世界を巡り、永劫に等しい年月を漂う為に。


「これで全部、終わったのね」


 もう、2人でやるべき事は終わってしまった。

 アヤカはひどく重たくなった身体をコックピットシートに横たえ、他には誰の姿も見当たらない辺りを見渡してみる。

 次に目を覚ました時、今度こそハナのことを思い出せなくなっているはずなのだ。


 ――――怖くない、はずがない。


 何か伝えなきゃ。まだ伝えていないことがあったはずと焦る度に、言葉は指の間をすり抜けて行く。これまで何度も恐れ、夢見て来た瞬間だったというのに台詞の一つも出てこない。

 あと一分もせずにこの想いは消える。言葉を選ぶ余裕などなかった。


「私、ずっと前から、ハナのことが好きだった」


 その一言に込めた重みは、計り知れない。

 でも、飾りなんて要らない。こうまでしなければ伝える事さえ叶わなかった想いの一片を、アヤカはあるがままの形で口にする。


「これからもそう。あなたが居てくれたから私はここまで出来たのよ。でも今までのことを忘れるのがこんなに怖いのも、全部ハナのせい」


 今も見えないハナが隣にいてくれる、そんな気がしてならない。

 どんなに振り回されても、振り回しても、今はそう思えるだけで何もかもを許せてしまうのだ。だが、そんな相手に初めて伝えられた『好き』の言葉は、もう二度と同じ想いで口にする事は無い。

 あれだけ勇気を振り絞ったのに、少しだけ呆気なかった。


「でも……やっと言えたわ」

『アヤの口からやっと聞けたな。嬉しい』


 こんな言葉で、この身体を焦がしそうなほどの想いの何万分の一を伝えられたというのだろう。アヤカは徐々に蒸発して行く記憶を漁りながら、あまりに無力な言葉に打ちのめされそうになっていた。

 怖い、まだ何も伝えられていないのではないかという事が怖い。命と同じくらいにかけがえのないモノが、頭の中から音もなく零れていく実感に彼女は震えた。

 時間が欲しい。

 記憶は解けて行く。

 時間はもう止まってくれない。

 記憶が止めどなく零れ落ちて行く。

 ハナの返事を聞くには、ほんの少しだけ時間が足りない事は分かっていた。アヤカは誰もいない空へ腕を伸ばすと、重さも形も無い気配を抱き締める。


「だから、返事は後で聞かせてくれる?」

『分かった』

「次に会ったら……約束よ。返事は私に伝えてくれるかな」

『うん、絶対』


 これくらいのわがままは許して、とアヤカは心の裡に想いを沈め込む。

 そして、とうとうその瞬間がやって来たことを理解すると、自分から宙に伸ばしていた腕を下ろしていった。記憶が徐々に曇って行くにつれ、自分が今、何を抱き締めようとしていたのかも分からなくなって行く。


 ハナと何を話していたんだろう。


 ハナとどうやって出会ったんだろう。


 一体、これまで誰と戦ってきたんだろう。


 何もかもはっきりとは思い出せない。命に替えて連れ戻したかったはずの少女の名前も顔も、その全てが曖昧な霧の向こうへと溶け去っていく。

 一体何を忘れてしまったのだろう、と自問してみても、果たしてどこまで忘れてしまったのかも分からないのだ。

 いつの間にか、自分が何かひどく大きな代償を支払ったのだという理解だけが残って、それがただ恐ろしかった。空っぽになってしまった過去を収める頭蓋は、堪えがたい孤独の重みに押し潰されそうになっている。


「一人は……いやだな」


 アヤカは朦朧とする意識の中で、ふと呟いていた。

 誰か、誰かが隣にいたはずなのにもう思い出せない。アヤカはひどく虚ろになってしまった自分自身をかき抱こうとして、しかし果たせない事に気付いた。




 それなら――――今、この手を握ってくれているのは、誰だろう? 




「アヤ」


 霞み行くアヤカの視界には、こちらを覗き込む少女が映り込んでいた。何故か自分の名前を知っている少女は、痛いくらいに手を握り返して来ている。

 彼女が誰かは分からない。

 しかし、ひたすらに寄り添おうとしてくれている少女の顔を見て、アヤカは自分がひどく満足していることに気が付いた。もう誰の為にこんな所にいるのかも分からなかったが、きっとそれは間違いではなかったのだと安心できた。


「わたしは忘れないから、わたしだけは……憶えているからっ」


 少女が微笑みながら流す涙を見れば、何故か泣かないで欲しいと胸が痛む。またこの子に会いたい、自然とそう願っていた自分が不思議でならない。

 そして夢か幻とも知れない幻想世界の中、意識は閉ざされて行く。

 徐々に凍り付いていく空気に身を沈めながら、2人は互いの手を絡め合っていた。永い長い眠りにつこうとするアヤカは、繋いだ手を無意識の内に握り締める。


 手には微かな温もりを感じ取りながら。

 いつかまた2人で出会える日を信じて、アヤカは漕ぎ出す方舟に身を任せた。



 * * *



 果て無き流浪の旅路。底など見えない重力井戸の暗闇を、方舟は数千億年に亘って彷徨い続ける。別宇宙を目指す旅の中、方舟リリウスは幾度もあらゆる膜宇宙ブレーンを渡って行った。

 時に、星の無い宇宙を渡った。

 時に、コンマ数秒で潰れた宇宙を渡った。

 時に、直径数百mに満たない宇宙を渡った。

 数多の可能性を体現する三千世界、まるでブドウの房のように連結された親宇宙と子宇宙の只中を、億や京では足りないほどの年月をかけて彷徨う。


 奇蹟と呼ぶのも憚られるほどの量子論的確率を掴み取るまで、何度も、何度でも、重力井戸の海に浮かぶ孤島のような膜宇宙へと入り込んで行く。

 だから、幾星霜の果てに訪れたその奇蹟は必然だった。

 正しく〈劫〉と呼ぶべき、永遠に近似されるほどの年月。黄金の方舟リリウスがようやく辿り着いた膜宇宙は、かつて少女たちが生きることを夢見た可能性に満ちていた。


 そこには、太陽の卵たるガス円盤があった。

 溶岩海たる原始地球があった。

 月はまだ生まれてもいなかった。

 方舟リリウスは己が辿り着くべき場所を見定めると、およそ150天文単位にまで広がったパンケーキのようなガス円盤へと身を沈めて行く。

 超高温の水素ガスと塵にまみれた大波を裂き、赤子たる太陽から噴き出す恒星風に逆らい、かつては黄金に光り輝いていた装甲を焼かれながらも泳いで行く。

 その腕々が千切れるまでゆっくり、ゆっくりと太陽の方へと漕ぎ続けた。

 天文学的年月が流れる。数千年に亘って荒波を凌ぎ続けた末に、遂に方舟リリウスは真っ赤な原始惑星地球へ辿り着いていた。


 ――――解放。


 かつては千の腕を生やしていた一柱の方舟は、今や2本しか残っていない腕を広げていった。見えざる十字架に磔にされた機体からは、まるで血潮が噴き出すように炎が噴き出し始める。

 それは、かつてその身に吸い上げた情報そのものだった。

 自らの裡に封じ込めていた情報を、方舟リリウスは種を蒔くかのように放出し始めたのだ。可能性という土壌に蒔かれた情報たちは、空間を満たし、未来と過去へ続く時間軸にさえしっかり根を張っていく。


 終わり行く宇宙から別の宇宙へと繋がれた生命の可能性。蒔かれた情報はやがて、初めからこの宇宙に存在していたかのように芽吹き出す運命にある。

 生けとし生ける者たちの情報を収めた方舟リリウスは、生命が存在しなかったはずの宇宙に1つの可能性をもたらしていた。


 ――――故に、方舟の旅路は終わりを告げる。


 役目を終えた方舟リリウスは、溶岩海たる地球の重力へと落ちて行く。

 薄い二酸化炭素の大気に光跡を伸ばし、まだ火星にも満たない重力に引き摺られて機体は加速し続ける。身に秘めたエネルギー総量を含めれば、それはまさしく原始地球へと投下された一発の爆弾に他ならない。

 そして、落着。

 方舟リリウスに裂かれる痛みで唸っていた大気さえ、一瞬で抗議の声を鎮める。危うく原始地球を砕きかねない破滅的衝突劇ジャイアント・インパクトは、地球全てを舐めるほどの津波を巻き起こしていた。


 灼熱のマグマはまるで噴水のように宇宙空間へ打ち上げられ、冷えた傍から岩石へと固まっていく。地球を取り巻く環と化した残骸の中には、かつて千の腕を操っていた方舟の姿も混じっている。

 それからおよそ一カ月。

 岩石群は赤道上空を取り囲む環を作り上げていた。中でも著しい成長を続ける微惑星は、未だ歪ながらも直径数千kmにも亘るサイズを成している。

 数十億年の後、月と呼ばれる衛星の核となる運命も知らぬまま、力尽きた方舟リリウスは岩石の奥深くへと埋もれようとしていた。


 漂う塵で七色に分光されたコロナ光は、方舟リリウスに寄り集まった岩塊をボゥっと照らし出す。座礁した舟が海原へ戻ることは無いのだと、その虹は静かに告げているようだった。

 停滞と滅びの時代、夜曲に相応しい闇は明けて行く。

 方舟は自ら漕ぎ出すことなく、永き冬の先へと流れ着こうとしていた。



 * * *



「じゃあまた明日ね、アヤっち」

「うん、アカリ先輩にもよろしくね」


 校門でアカリが待っているからと、ヒカリは走り去って行ってしまう。高校生になってもなお小柄な背姿は、やがて人混みの中に紛れて消えた。

 島で唯一の学園、高等部の入学式当日。アヤカは寮の廊下を歩きながら、既に役目を終えた原稿を懐にしまい込む。

 それは成績優秀な生徒代表として、全校生徒の前で読み上げた答辞。空虚な自分を悟られまいと先生に添削を頼み、可もなく不可もない美辞麗句を並べた原稿だった。

 しかし、それはやはり他人事で、自分の言葉とは思えなかった。


「やっぱり高校生になっても何も変わらない、か」


 ふと晴れた空を見上げれば、頭上にはうっすらと浮かぶ月が1つ。

 最近、月震から得られた断層データに巨大な埋設物ヒトガタが映り込んでいたとか、いないとか、天文界隈を賑わせている衛星が、この春に色付いた地上を見下ろしている。

 しかし、アヤカが見る景色に色は無い。

 原因不明。青い瞳を通してみる世界は、その全てがモノクロに沈んでいた。暖かな小春日和を映してさえ、すっぽりと色彩が抜け落ちた景色は心を温めてくれない。

 ふわり、と温度のない風が金髪を弄んで行った。


 ――――いつから、こうなったのかしらね。


 それは、今に始まった事ではなかった。小学生の時も中学生の時も、そして高校生としての始まりを告げた今になってもまるで実感が湧いてこない。

 何か大切なものを置き去りにしてしまったような喪失感。

 そして、何を失くしてしまったのかさえ分からない空虚さ。


 ――――親友ヒカリも、心配してくれてはいるけど。


 十分もしない内に、寮部屋の扉へと辿り着いてしまう。

 割り当てられたのは、よりにもよって相部屋。

 もう一人のルームメイトがどんな子なのかは全く聞かされていなかったが、きっと誰が来ても――奇妙な言い回しではあったが――納得できないだろうという予感があった。

 顔も名前も分からない誰かたった1人を、ずっと待ち続けている。そんな妄想に憑かれている限り、いつか何かが変わるかもしれないという希望はとっくに捨てていた。

 この扉を開いたところで何が変わる訳でもない。

 ポケットから取り出した鍵を扉にあてがう。そして差し込もうとした矢先に、アヤカは何の前触れも無い言葉を耳にした。


「好きです」


 鍵を差し込もうとした矢先、背後からいきなり掛けられた一言。

 驚いたアヤカが振り返ってみれば、そこには黒髪をサイドテールに束ねた少女がいた。四葉のクローバーを象った髪飾りは、春の陽射しをきらきらと反射させている。

 まだロクに自己紹介もしていないというのに、ほぼ同い年と見える少女は眼前でにこにこと微笑みかけて来ている。


「うそ……」


 アヤカは、その澄んだ視線から目を逸らせなかった。

 目の前の子が誰かは分からない。講堂に集っていた同級生の1人や2人、見逃していてもおかしくは無いからそれは当然の事だった。


 しかし、ようやく、失くしていたモノがカチリと嵌り込む音を聞いた。


 それまでモノクロに沈んでいたはずの世界が、はっきりと色付いていく。

 唐突に咲き開いて行く色彩は、アヤカの全身へ染み渡っていくと同時に、何か途轍もない感情の渦で呼吸を詰まらせていった。

 彼女が誰であるのかなど、とっくに頭から吹き飛んでいた。


 ――――一目ぼれ・・・・って、本当にあるんだ。


 まだ名前も知らぬ他人同士。初めての会話。

 だが、彼女が口にしたその言葉を、何故かずっと待ち続けていたような気がする。

 アヤカは唐突に訪れた胸の高鳴りを、その高鳴りが意味する感情を、徐々に受け容れていった。


「わたし、ハナって言います。よろしくね」

「私はアヤカ……不思議ね、あなたと会えたのがこんなに嬉しいっ」


 これからは彼女ハナと同じ部屋で暮らすのだ。この部屋こそが2人で帰るべき場所になって、そして何でもない明日が始まるのだ。

 朝は一緒に登校するだろう。

 昼は共に学園で過ごすだろう。

 夜は共に星空を見る事だってあるだろう。

 ただそれだけの、本当に当たり前の日常これからに想像を巡らせるだけで、何故か胸がいっぱいになってたまらない。

 だから、アヤカはまとわりつく既視感を突き破るように、右手を差し伸べていた。そして、すぐにその手を握り返して来た温もりの先に、屈託のない笑顔を向ける。


「これからよろしくねっ、ハナ!」


 永く冷たい冬を経てようやく訪れた季節。

 遠からず交わる想いの予感に、少女たちは未来を夢見る。

 春のアヤに満ちた出会いは、白く咲き香るハナ々の上で始まろうとしていた。

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