ep27/36「わたし、やっぱり憶えてたみたい」

 小夜曲の方舟リリウス・ラ・ヴォルダ

 方舟、そして小夜曲という言葉を接ぎ合わせたリリウスの真なる名。それはアヤカ達が扱う言語に翻訳してもなお、意味合いを推し量るにはあまりに奇異な組み合わせだった。

 蛾であり、巨人でもあり、三面六臂の姿をも併せ持つリリウスならば、まさに名は体を表すのだと納得もできそうだった。


「名前まで継ぎ接ぎなんて、リリウスらしいわね」

「でも、リリウスが『方舟』って何の事なの?」

「『方舟リリウス』の方なら、まだ分からなくもないわ。多分、方舟伝説の方舟Ark……きっとその言葉が当てはめられたんだと思う」


 一体どこへ向かうはずだったのかも分からない方舟、それがリリウス。

 しかし、『小夜曲ラ・ヴォルダ』だけはどうしても突飛に思えて仕方がない。何故、その単語を当てはめようと思ったのかも分からない。

 アヤカはしこりとなって残る違和感の正体を、どうにも掴みあぐねていた。


「待って、続きがある……」


 ハナが指で示した壁面には、依然として幅1mほどの文字列が 縫い留められている。数秒おきにゆっくりと輝きを強める様は、脈動と表現するより他にない。


「『方舟リリウスがラ・ヴォルダへと至る時、人は唄う』って。多分、ラ・ヴォルダっていう言葉には全然別の意味があるんだよ、リリウスがいつか到達する何かなんだと思う」

「何か別の意味があるのかなって、私もそう感じているわ。けど、小夜曲セレナーデが何だって言うのよ……」


 言いつつも、アヤカとてそれが本質でない事くらいは分かっていた。

 ラ・ヴォルダには、何か、もう1つの意味合いが隠されている。しかし、ハナでさえ読み取れないというのなら、自分に理解できるはずもない。


「……痛っ」


 アヤカはじっと文字列を見つめ続けた末に、壁から目を逸らしていた。

 頭蓋を割らんばかりの痛みに視界が明滅する、強烈な偏頭痛が脈打っている。これ以上は耐えられない。雪崩れ込んで来る膨大な情報は、今や物理的な痛みを伴って血管の一本一本を苛んでいた。


「アヤ、辛いならあんまり無理しないで」

「平気よ、このくらい私だって……」


 食い入るように壁面を見つめるハナの隣で、アヤカは自身が知覚できるギリギリの情報量に喘いでいた。

 息も荒く見上げた壁面では、水槽へ閉じこめられた鑑賞魚さながらに金文字が漂い続けている。その一文字一文字が恐るべき情報密度を秘めた記憶構造体であることを、アヤカは身を以て理解しようとしていた。

 この壁を一気に読み取ろうとしたなら、このちっぽけな脳髄など一瞬で焼き切れてしまうことだろう。そんな確信が背筋を冷たくさせて行く。


 ――――無理ね、これ以上は私のあたまが保たない。


 古代文字、それ自体が高度遺失技術オーバーテクノロジーの産物なのだ。予め用意して来た機材も無しに留まっていたところで、これ以上の収穫があるとは思えなかった。

 たとえ有益な情報を見つけ出せたにせよ、引き換えに喋ることさえ出来なくなっていては意味がない。アヤカは出口に向けて歩き出すと、最後にリリウスの名が記された金文字を視界に収めていた。

 妙に頭の中に引っ掛かる響き。真言ことばに秘された未知なる意味を噛み締め、口元は自然とその名を形作る。


「……小夜曲の方舟リリウス・ラ・ヴォルダ、ね」


 あるいは、それこそが切っ掛けだったのかも知れない。

 アヤカに続いてハナが壁際から離れようとした矢先、2人の足元は唐突にぐらりと揺らいでいた。

 バキ、と鼓膜を打ち付ける鈍い破断音。

 喉から短い悲鳴が零れ出る間もなく、揺れに突き上げられた床面は目の前でひび割れ出す。真っ暗に閉ざされた遺跡の内部は、もはや立っていられなくなるほどの地震に襲われていた。


「いきなり、なに……?!」


 こういう類の揺れは、身に覚えがある。胸の奥で嫌な予感を膨らませながら、アヤカは努めて冷静に辺りを見渡していった。

 傍らで膝をついているハナ、相変わらず暗闇の中で燐光を放っている骸骨の数々。瓦礫が津波さながらに押し寄せたかと思うと、アヤカの身体は透明な鈍器に殴り付けられていた。

 眼球が押し込まれ、肺が潰れる。

 大気圧の急激な変化に思わず折れかけた膝は、戦装束ミニドレスの炎に支えられてなんとか踏み止まる。


「ハ、ハナは……っ、大丈夫?」

「アヤ、前を見て。何か出て来るッ!」


 危機感に尖らされたハナの叫びが、咄嗟にアヤカの視線を導く。

 まともに見通せなかったはずの大部屋は、ひび割れた床から滲み出して来る光に照らされつつあった。蜘蛛の巣さながらの亀裂を広げた床面は、もはや静かに噴火の時を待つ火口のようにしか見えない。

 下から、今から何かがやって来る。

 その予感に身体を強張らせた直後、二度目の爆風が身体を打ち据えて行った。見えない圧に潰されそうになった眼を細め、アヤカは煙の向こうに眼を凝らす。


「あれは、木……?」


 床から突き出している、枯れ木の一本。

 爆風に押し流されて行った粉塵の向こうには、視界を上下に貫く幹がそびえ立っていた。唐突に生えて来た大樹としか思えないそれは、パキキと軋み出し、明らかに自らの意志で以て動き出そうとしている。

 その頃にはもう、アヤカも正体に気付いていた。

 見ている間にもぐぐぐと曲げられ始めた幹は、指の1本でしかない。続けて2本、3本と次々に床を貫いて来た指の数々は、やがて民家さえ握り潰せそうな拳を形作っていった。


 一体、何のために?

 それよりも、今は拳が何をしようとしているのかがよほど重要だった。


「ハナ、走ってッ!」


 即座に手を取り、駆け出す。

 アヤカとハナ目掛けて伸びて来た拳は、予想に違わず後を追い上げて来る。根のようにも見える指は、まとめて数十人と締め上げてしまえそうな圧延プレス機そのものだった。

 今、足を止めれば命はない。

 握り潰されて肉片にはなるまいと、アヤカはハナを連れてひたすらに走る。2人はほとんど飛び込むようにして、大部屋に繋がる通路へと入り込んでいった。


 背後で轟音と共に抜け出しつつある掌、瓦礫混じりの爆風が2人を前へ前へと追い立てる。無機質な殺意。背が焼かれるほどの熱さに、アヤカはたまらず後ろを振り返っていた。

 途端に、両者の視線が交錯する。

 床面から這い出ようとしているのは、人では有り得ぬツノを備えた骸骨。今にも灰となって崩れ落ちそうな熱を発する骨格は、あまりに見覚えのある姿だった。


 ――――こんなのが居なければ。

 かつてそう言い放った記憶さえ、脳裏で徐々に解凍され始める。ぎり、と噛み締めた奥歯が軋んだ。


「こんな所に……なんでいるのよ!」


 棺の底に葬り去られた宿敵。

 死骸と化しても、なお勝ち誇る鬼の首領。

 遺跡の底から這い出して来た骸骨は、否応なしにそんなマカハドマの姿を連想させて来るのだ。

 しかし、それだけだったら、どんなに良かったことか。

 マカハドマの似姿としか思えない鬼の骸が、全身から噴き出し始めた炎。決してマカハドマでは有り得ない姿を前に、アヤカはただ息を吞むしかない。


「違う! まさか、この骸骨って……!」


 鬼の象徴たるツノを備え、リリウスの証たる炎を纏う骸。

 これがマカハドマで無いとしたら、何なのか。

 リリウスでも無いとしたら、一体何だと言うのか。

 恐らくはそのどちらでも無いという事を、アヤカはその姿から理解しそうになっていた。

 多数の検体を並べた解剖室のような大部屋、上半身や下半身だけが遺されたバラバラ死体のような骨格、きっとそれらのイメージは正しかったのだという確信が、吐き気と共に込み上げて来る。


「これはマカハドマへ作り替えられる途中の、リリウス、なの……?」


 古代人はリリウスを捕らえ、切り刻み、改造する術を持ち合わせていた。

 そして何らかの目的の下に、リリウスを素体としてマカハドマを生み出した。リリウスの故郷たる遺跡の有様を見るに、もはやそうとしか考えられない。

 巨人同士が殺し合った戦いに、何の意味があったというのか。人型古代遺構同士の生存闘争が、地球を凍て星に変えたとでも言うのか。


 ――――全部、月遺跡ここに滅茶苦茶にされたんだわ。


 アヤカは生まれて初めて、月の存在を呪っていた。

 この月さえ無ければ。

 リリウスとマカハドマが、この月から目覚めさえしなければ。

 燃え盛る巨人の骸骨は、この古代遺跡がもたらした災厄そのもの。全身を紫の炎に焼かれながらも、巨人は遺跡を崩して這い寄ってくる。

 植え付けられた本能プログラムに導かれるまま、通路の奥に逃げ込んだ2人を追って来るのだ。


「アヤ、止まらないで! ここで止まっちゃだめ!」


 ハナの言葉でハッと我に返る。

 通路を突き崩しながら這い寄って来る鬼は、縦に3つ並んだ眼窩をこちらに向けていた。人一人すっぽりと入れそうな空洞には、空っぽの殺意が満たされている。


 ――――マズい……っ!


 視線の先で引き絞られた拳に、アヤカは身体を強張らせる。


MAGICAL 空間転移マジカル・シフト!」


 重ねた声が響いた途端、2人の周囲はぐにゃりと歪む。

 音速の砲弾と化した拳に抉られる前に、アヤカとハナはその場から消え去っていた。直後、2人の後に残された炎が、ヴェイパーコーンを纏う殴打に散らされて行った。


「まだ遺跡の中で生きていたの……? どうしてなのよ!」


 照らし切れない暗闇に全身を包まれながら、アヤカは吐き捨てる。奇妙に生温い床の感触を感じることは出来たが、自分が今どこにいるのかさえ判然としない。


「ここ、リリウスの中じゃないよね?」


 リリウスへ戻ろうと思ったにも関わらず、2人は全く見知らぬ場所に出てしまっていた。遺跡の中では転移精度が著しく鈍るらしい。

 失態だった、アヤカの背を冷たい汗が伝う。

 空間転移が万全に発動するかどうか、こうなる前に確かめておくべきだったのだ。しかし、今さら自分の迂闊さを悔いてももう遅い。

 リリウスから離れてしまうとしても、今は逃げるしかない。


「今はこっち!」


 ハナの手を引いて、アヤカは手探りのままに歩き始める。

 これから何処へ?

 そんなことも分からぬままに、大部屋に繋がっていた遺跡通路を駆けていく。

 そして、血管じみた中空空間を縦横に走り回っている内に、遺跡のあちらこちらからの振動が伝わり始めていた。


 ――――もう、どこに行けば良いの?!


 通路の行き当たりから、横合いから、背後から、ありとあらゆる場所からパキパキリという軋み音が聞こえて来る。本当に逃げられる場所はあるのか、と思わず手に込める力は強まっていた。

 しかし、握り返して来るハナの手は異様に冷たい。


「ハナ、どうしたのよ」

「ちょっとね……何でだろう、ちょっとフラフラしちゃって。大丈夫、少し休めば動けそうだから」


 膝を折ったハナは、その場で座り込んでしまっていた。壁に背をつけて肩を上下させる様子は、言葉とは裏腹に徐々に弱っているように見えて仕方がない。

 このままハナを休ませてあげたい。

 しかし、敵はいつまた現れるとも知れない。

 ごめんなさいと心中に呟きながら、アヤカはほとんど強引にハナの身体を起こしていった。血の気が引いて真っ青な顔を見れば、こうして無理矢理走らせようとしている自分が憎らしく思えて来る。

 この状態でまた走らせようというのか。

 その通りだ、とアヤカは心を決めた。


「ハナ、もう少しだから頑張って」

「……ん、うん」


 ハナは自分が何と答えたのかも分からぬ様子で、力なく手を握って来る。

 腕を引っ張れば、ハナはそのままの勢いで転び掛けるという有様だった。

 立ち眩みを起こしたらしいハナを支えつつ、アヤカはもたれかかって来る身体を引き摺り出す。無我夢中で駆け出していった。


 ――――どうして、ハナはどうしてこんなに辛そうなの……!


 今はその理由さえも分かってあげられない。

 やはり近付いて来た轟音がアヤカを追い立てるものの、背を焼かんばかりの熱はどんどん高まっていく。戦装束ミニドレスに守られていなければ、通路の奥から押し寄せて来る熱気で火傷しそうなほどだ。

 確実に、敵は後ろから迫っている。

 しかし、脚は思うように動いてくれない。


 進むのを止めかけた足裏には、地鳴りが伝わって来る。際限なく強まりつつある揺れが最高潮に達した瞬間、通路の先は吹き飛んでいた。

 細い通路を埋めるように膨らんでいく粉塵、その先には超高温を放つ指が見える。皮膚が焼かれてしまいそうな熱気にむせ返りながらも、アヤカは反対方向へと足を踏み出していた。


「逃げ、なきゃ……!」


 指は通路を突き崩しながら、2人の背を焼きつつある。

 ハナは今や、肩を支えないと歩けないまでに弱っている。が、ヒリヒリと焼け付く喉を抑えるアヤカもまた、そんな彼女を支えて歩くのが精一杯だった。

 白熱する指は、ほんの20m先にまで迫っている。

 背に腹は代えられないとばかりに、彼女はハナをぐッと抱き締めていた。


MAGICAL 空間転移マジカル・シフトッ!」


 遺跡に入ってから2度目の空間転移が、2人を別座標へと飛ばす。

 転移完了。再び瞼を開けて行ったアヤカは、またもリリウスの中へと戻れなかったことに失望せざるを得なかった。体感として理解出来るのは、どうやら自分達が更にリリウスから遠ざかってしまった事。ただそれだけに過ぎない。


「また失敗なんて、そんな……2度目だったのよ」


 身体は更に重さを増し、視界は貧血じみた目眩に暗む。アヤカだけで2人分の空間転移を実行した代償は、確実に身体を蝕みつつあった。

 ちょうどその時、腕の中でハナがずるりと体勢を崩していく。つられてアヤカまでもが膝を屈すると、2人は何処とも知れない通路で立ち止まってしまっていた。


「……ハナ?」


 アヤカは、応えようとしないハナの頬に触れてみる。いつの間にか冷え切ってしまった肌は、今や残熱を帯びて仄かに温かい。

 その身体が異様に冷たいと思ったのは、ただの気のせいなのだろうか。

 抱えた身体から鼓動が伝わってこないのは、焦り故の錯覚なのだろうか。


 ――――そんな事、あるはず無いじゃない……ッ!


 それなら確かめてみればいい。そんな事は分かっている。

 しかし、それを確かめてしまえば、二度と歩けなくなるかも知れないという確信があった。身体を動かしてさえいれば、何も考えないで済む。それではまるで、ハドマの群れに島が焼かれた夜の再現だ。

 しかし、あの時、再び立ち上がる為の言葉をくれたハナは、今は黙して動かない。


「ハナ、しっかりしてよっ」


 祈るように呟く、その声は震えていた。それでもアヤカは意識を失ったハナを抱え、骸骨が発する轟音から逃れようと試みる。

 しかし、人一人を抱えていれば、すぐに体力の限界はやって来る。

 せいぜい10分も走った頃には、今度こそ脚が鉛のようになっていた。自分が一体どれほど移動出来たのかも分からなかったが、少なくとも骸骨たちから逃れるにはまだ足りない。あまりにも足りない。


「はぁ……っ、はぁ……っ」


 鼓膜に心臓が張り付いてしまったようだ。酸欠寸前の全身へ血液を届けようとする鼓動は、刻々と迫って来る轟音をかき消してしまうほどにうるさい。酸素を求めて喘ぐ度、喉は焼けついてしまいそうだった。

 どこまで歩けばいいのか。

 どこへ歩けばリリウスに戻れるのか。

 あるいはこうして歩みを進める度に、ハナの苦しみは増しているのかもしれない。そう思ってしまえば、何処かも分からない通路をひたすらに進む事さえ怖くなる。

 アヤカが歩みを止めざるを得なくなったのは、その時だった。


「……っ!」


 踏み入れてしまったのは、戦装束ミニドレスでは照らし切れないほどの大部屋。見覚えがある構造だったから、一体ここに何が居るのかも分かってしまう。


 ――――お願い、何も起こらないで。


 そう願ったにもかかわらず、遥か500mもの上空では次々に鬼火が灯り出す。解剖室は一つや二つではきかないくらいに存在していて、自分は迂闊にもそこへ入り込んでしまったのだという事を、アヤカは全身の肌で感じ取っていた。

 意識を失ったハナを背に庇いながら、アヤカは骸骨の数々を見上げる。後退り、そして脚がガクンと支えを失った感触に総毛立つ。

 地面が、無い。

 下で口を開けていた亀裂にも気付かず、足を取られてしまったのだ。ふわりと内臓を浮かせる0Gの中で、2人は底も見えない亀裂に落ちて行った。


 ――――早く、飛ばなきゃ。


 しかし、次はどこに飛ぶかも分からないという恐れが、判断を躊躇わせる。襲い掛かって来た疲労に耐えかね、遂にアヤカの意識はブラックアウトしていた。

 落ちる、地獄の底を目指して2人は更に落ちていく。

 そして体感的には数秒の意識喪失を経て、アヤカは徐々にはっきりとしない思考を起ち上げていった。


「今度は、どこに出たのかしら?」


 自分が発したはずの声は、不思議とくぐもって聞こえる。

 それは空気を媒介していないから。骨伝導で聞いているからだと理解した途端、アヤカは目の前に広がっている景色の意味にも気付けた。

 鏡のような氷に閉ざされたここは、月面上・・・

 アヤカが腰を落としているのは、遺跡の内側でさえない月の表面部だ。

 亀裂に吸い込まれてから目覚めるまでの間に、月の内側から表面まで落ちて来た・・・・・。しかし、おかしいのは重力の向きばかりではない。


 ――――ここは真空のはず、なんだけど。


 煌々と燃え盛る戦装束ミニドレスが、揺らぎながらも全身を保護している。そのおかげで真空に身を晒していられる。しかし、もはやいちいち驚けるほどに、アヤカの脳は状況に追いつけていなかった。

 そんな彼女でさえも、視線を上げれば我が目を疑わずにはいられない。


「あれが、地球だっていうの……?」


 アヤカは自らの眼で、生まれて初めて地球の姿を目にしていた。

 かつての蒼き水の惑星、地球。

 一世紀前に凍て星へと変貌した地球の姿は、きっと白い雪玉さながらに輝いているのだろうと思って来た。だとしたら、今こうして見ている地球の姿は、夕陽に照らされたガラス球・・・・・・・・・・・・にでも喩えれば良いのだろうか。

 まるで分厚い水底に沈んでいるかのように、ガラスの艶を帯びた地球の輪郭はひどく屈折している。

 あまりに想像とかけ離れた姿に、アヤカは途方に暮れそうになっていた。


「あんな所に暮していたなんて、嘘よね……ねぇ、どうして? 島もあそこにあるはずなのに、なんでこんな事になっているのよ」


 目を凝らしてみれば、リリウスが飛び立つ時に残して来た噴煙は、未だにほぼ静止したままで残っている。

 ゾッとする感覚に耐え切れず、アヤカは身を抱いていた。地上を発ってから少なくとも2日が経っているのに、雲は全く消えていないのだ。

 太陽の輝きもあまりに弱弱しい、他には光源1つない常闇の宇宙。

 月から見る景色には全く、何の変化も無い。


「いつの間に、こんな事になっていたの……」


 地球の時間は外から見ればほぼ止まっている、そうとしか見えなかった。脳裏に渦巻く混乱は増すばかりで、自分が一体何を見てしまったのかさえも分からない。

 地球が静止したのは、いつの日からだったのだろう。

 気泡一つ入り込ませずに凍り付いた月の海は、アヤカとハナの周りに限っては鏡面じみた艶を失っていく。戦装束ミニドレスの炎が徐々に永久氷晶を融かしているのだ、と。アヤカはしばらく経ってからようやく気付いた。

 しかし、違うのだ。


「もう分からない……っ、あの骸骨も、地球も、リリウスも……何なのよ! 私もう分からない」


 こんなモノに覆われている月より、地球の方がよほど奇妙なのだ。


『――――思い出したよ、アヤ』


 極まる混乱に追い打ちをかけるように、脳裏にはハナの言葉がよぎっていく。意識を失っていたはずの彼女は、アヤカの傍らで音も無く身を起こそうとしていた。


『あれは、最初はただの夢なんだろうなって思った。けどね、違うみたい。思い出しちゃった』

「え、夢……?」


 夢――――その単語が引き金トリガーとなった。

 壁面から流れ込んできた映像イメージが、アヤカの脳裏にもフラッシュバックし始める。

 見知らぬ夜空、鬼に潰された街、そしてハナ。

 夢とは、まさかあれの事なのだろうか。地球へと向けられた彼女の横顔に、アヤカは掛けるべき言葉を見失う。


『わたし、やっぱり憶えてたみたい……あの夜のこと。ハドマとリリウスが街に降りて来た夜のこと』

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