月面遺構探査編
ep25/36「こんなのが月だっていうの?」
正直に言えば、どうやって宇宙まで飛んで来たのかはよく覚えていなかった。
リリウスに乗り込み、蛾の姿となって羽ばたいたところまでは覚えている。そして4枚翅を二度三度と羽ばたかせれば、リリウスはたったそれだけで対流圏を抜けてしまったのだ。
雲を超え、鱗粉じみた火の粉を散らしながらの急速上昇。
瞬く間にリリウスの高度は上がり、やがて弓なりに反った地球の輪郭が見え始める――――その時、既にリリウスは宇宙へ足を踏み入れていた。
かつて四苦八苦して辿り着いた静止衛星軌道さえ超えて、リリウスはたった10分足らずの間に真空空間へと漕ぎ出していたのだ。
それもおよそ50時間前のこと。
宇宙に行ってもリリウスから空気が抜けてしまわないかとか、足場も無い宇宙で飛べるのかとか、そういった間抜けな疑問の全ては宇宙に出てからたった数時間の内に霧散していた。
つまり、あらゆる点は全く問題が無かったのだ。
コックピットから空気が漏れ出すような事は無かったし、リリウスは斥力を操って難なく真空中を羽ばたいた。
初めから
「月ってやっぱり遠いのね、まだかしら」
眠りたかった。
しかし、眠れば
「自業自得よね、本当に」
全部、私のせいなのに。心中にそう続ける。
航海に次ぐ航海。今や鉛のように重たくなった瞼を閉じまいとして、アヤカは肌寒さに耐え続ける。ロウソクじみた光に照らされるコックピット内壁には、絶えず変化する影が躍っていた。
リリウスから発せられた炎が、真空中で揺れているのだ。
――――こんな炎、普通じゃ有り得ないわ。だってここは宇宙なのよ。
物理法則の埒外にある永久氷晶をも融かす、正体不明にして解析不能の鬼火。睡眠導入剤に思考を曇らせたアヤカは、無意識の狭間でぼんやりとそんなことを思い出してみる。
しかし、それはリリウスとて同じこと。
そもそも何もわかっていないに等しい。リリウスのことを知らなさ過ぎる自分に気付くと、アヤカは今さらながらにそんなものに命を預けていた事実にゾッとする。
「いや、違うわね。命を預けるしかなかったから、今まで見ない振りをしてきたのかな……きっと。リリウスって、何なんだろう」
サナギに潜む無尽蔵の熱源。
世界で唯一、ハドマに対抗し得る決戦兵器。
一世紀前に地上降下して来た古代人型遺構。
リリウスを表す言葉なら、幾らでも思いつく。
しかし、その全てが
――――そもそも、このコックピットからしておかしいんだわ。
人類が産まれるより遥か以前に滅んだはずの古代文明の産物に、どうしてこうも人が乗れる席が用意してあるのか。何故、1つではなく2つなのか。
一度ならず思い浮かべて来た疑問に、やはり答えは出そうにない。
意識するともなく壁面を見つめるアヤカの前で、絶えず壁を這っていた金文字はにわかに波紋を描き出していた。
未だ解読されていないこの文字体系が、一体何を伝えようとしているのか。それさえも分からないことを考えてみれば、案外、リリウスは惜しげもなく自らの本質と行く末を声高に語っているのかも知れなかった。
自分はどこから来たのか、何者か、何処へ行くのか、と。
「あなたは、誰なの」
リリウスは答えない。
真っ黒な闇に正体不明の炎を散らし、
既に、その姿を蛾に喩えるのは相応しくなかった。誘蛾灯さながらに輝く月に引かれながらも、尾を曳く四枚翅の竜と化したリリウスは光へと向かう。
第108月までは、あと数千km。
先ほどまでほんの小石程度に過ぎなかったはずの月は、既に視界を覆い尽くさんばかりに迫りつつある。数m先と言われても信じてしまいそうなほどに近い。アヤカは今すぐ月面に衝突してしまいそうな錯覚に襲われるも、
永久氷晶によって固く閉ざされた表面は、ここから見ても距離感が狂わされるほど近くに見えてしまうのだ。鏡のような月面にボゥっと浮かび上がっているのは、確かに解読不能の刻印だった。
「リリウスと同じ文字、か……あそこに行けば、何か分かるのかしら」
アヤカは微睡みの中で月面を見つめ続けるも、徐々に身を起こしていった。
身体が重い、つまりコックピット内には
しかし、そのおかげで起き上がろうという意思も生まれて来る。
果たして起きているのかどうかも定かではない、死んだように静かなコックピット。しかし、そこには初めから2人分の寝袋が転がっていた。
「ハナ、大丈夫? 降下ポイントも近付いて来たわ」
アヤカは背中合わせに寝袋に収まるハナに話し掛けてみる。
それが現地調査を言い渡されてから、初めてハナに投げ掛ける言葉となった。何かの見間違いで無ければ、彼女は確かに宇宙に出てから何度か意識を取り戻しているはずなのだ。
この上なく引き延ばされた数秒を経て、アヤカの脳裏には声が響いて来る。
『大丈夫、そろそろ準備するから心配しないで』
無論、それは声帯から発せられた声では無かった。
背中を合わせているハナは、やはり動こうとしない。
「分かったわ」
アヤカは遂に起き上がると、コックピットシートに身を収める。その全身は瞬く間に青い炎に包み込まれ、木魚のような操縦桿に触れた頃には変身も完了していた。
――――結局、まともに眠れなかったわね。
軽度の不眠障害。疲労で重たくなるばかりの瞼を閉じ、アヤカはリリウス固有のレーダーシステムに意識を集中させる。すると彼女の脳裏には、月面を覆う
相対距離把握、相対速度把握、金文字の踊る操縦桿は彼女の手で押し込まれ始める。
「降下シークエンス、開始」
徐々に減速するにつれ、四枚の翅を広げるリリウスは徐々に人型へと戻っていった。
前腕から飛び出ていた骨は折り畳まれ、四本の腕がバランスを取るように四方へと広げられる。腕部展開完了、斥力場による姿勢制御シークエンス開始。それまで翅から発せられていた斥力が真空を歪ませると、リリウスの巨体は数mm単位で姿勢を変えていく。
しばらくすると、斥力場の放出は止んでいた。僅か数十秒で真空中で体勢を安定させたリリウスは、そのまま600mの巨体を徐々に月面へと近付けさせる。
「接地まであと10、9、8……」
1分間に数十m、リリウスは焦れるようなペースで高度を下げ続ける。
これから足を踏み入れようというのは、百年前にリリウスが発掘されたという月だ。月面遺跡は驚くほど滑らかな氷晶に覆われ、時を止めた海のよう。限りなく透明に近いが、奥底は何か霞のようなモノでぼやけて見通す事は出来ない。
――――永久氷晶の底に、まだ何か埋まっている……?
正体は分からない、今は確かめていられる状況でもない。目指すは月面に唯一開いているクレーター。直径100km以上に亘って抉られたすり鉢状地形は、リリウスが這い出て来た時の噴火口だった。
――――降りるのは、あのクレーターね。
そもそも発見当時、リリウスは分厚い永久氷晶層に閉ざされていたせいで接触不能だった。しかし、ハドマの存在を感じ取ったのか、リリウスは突如として炎を噴き上げて眠りから目覚めたのだという。
内から力任せに突き破られたようなクレーターの輪郭は、雨風の無い真空中だからこそ1世紀前の姿を留めている。中に島が収まるほどの大陥没地形を見れば、それは月を揺るがすほどの大噴火だったのだろう、と容易に想像がついた。
「あそこに降りるわ、慎重にね」
『分かった』
リリウスはクレーター中心に吸い込まれるように、更に高度を落としていった。
降下軌道を修正したリリウスは、月面全体を不可視の斥力場で押し込みつつある。すると月面上の
永久氷晶で出来たレゴリスは、粉雪のよう。
――――見る分には、綺麗なものね。
真空中に舞い散る粉雪は、リリウスの炎に触れた傍から白煙へと変わる。
澄み切っていたはずの月面は、今や霧がかった凍れる湖のような光景となりつつあった。クレーターの奥底に身を沈めるリリウスは、遂に月裏側の軌道から遺構へと辿り着こうとしていた。
タッチダウン、成功。足裏を押し返して来る感触に、アヤカは
あとはどうやってリリウスで遺構に入るかだった。マジカルレーザーやフレイムを撃ち込んでしまえば、果たして遺跡の欠片が残るかどうかさえも分からない。
しかし、アヤカがそんなことを心配するまでもなく、
「なによ……?!」
リリウスがクレーターの奥底に達した途端、機体の周囲を取り囲み始めた幾重もの光環。真空中にも関わらずブゥンと唸りを上げるそれは、よく目を凝らしてみれば高速回転する
認証開始。リリウスのコックピット内もまた、光環に呼応するかのように脈動し始めている。壁面で蠢く金文字は角張り、丸まり、やがて複雑な幾何学図形を描いた後に鎮まり返って行った。
遺構とリリウスは、何らかの情報をやり取りし終えたのだ。理解不能のやり取りを見守るしか無いアヤカがそう確信した瞬間、光が弾けた。
瞼を閉じてなお眩しい光は、ちっぽけな目蓋など薄紙のように透かして眼底を照らし出している。眩しい、息苦しい、何か物理的な圧に潰されそうな錯覚さえ覚える。
辛うじて直感的に理解出来たのは、リリウスごと空間転移させられているという事実のみ。彼女を照らしていた鮮烈な光は、いつしか嘘のように止んでいた。
再び目を開けてみれば、アヤカの瞳には飽和寸前の反射光が映り込む。
理解が追い付かない。眼前に広がる現実離れした光景に気圧され、彼女は自然と後退っていた。
「どこなのよ、ここは!」
行き付いた先は、黄金に彩られた半球の内部。得体の知れない黄金の花々が咲き乱れる内部を見渡せば、まるで自分が精巧な金細工の中に紛れ込んでしまったようでもある。
そして隣を見れば、ハナがいた。生身のハナだ。
「アヤ? ここって遺跡の中だよね」
「私たち、いつの間にリリウスから引き離されたのかしら」
光源など見当らないのに、どこを向いても黄金色の壁が視界を埋め尽くす。
距離感を狂わされそうだったが、目の前で胎児のように丸まったリリウスが浮かんでいることを考えればとてつもない広さなのは疑いようもない。
極楽浄土、天国、そんな喩えさえ思い浮かんで来るほどには現実離れした光景だった。
「こんなのが月だっていうの? この花だって……なんでこんなところに蓮の花が咲いているのよ」
「花?」
ハナは一瞬驚いた表情を見せるも、すぐに視線を逸らしていた。
「――――そうだね、何でだろうね」
一瞬、言いよどんだハナには、一体何が見えているのだろうか。アヤカは口を開き掛けるも、結局恐ろしさに負けて口を閉ざした。
月面から入れるというだけで、ここが本当に月の中なのかどうかさえ疑わしいくらいだった。全く息苦しくもない、水中に浮かんでいるかのような無重力感。
「……ッ!」
アヤカはそこまで気付くと、咄嗟に口元を抑えていた。
視線を下ろすと自分が着ているのは炎の
「息、出来てる……?」
同じなのだ、と理解した。入口一つ見当らず完全な気密を保っているはずのリリウスのコックピット内でも、自分たちは一度として酸欠に陥った事は無かった。遺跡そのものにも同様の機能があるらしい、と理解するしかない。
恐らくは、遺跡に迎え入れられてしまったのだ。
そんな直感が背筋を冷やしていくも、足を踏み入れてしまったからには目的を果たさなければならない。何か通路のようなモノを探していたアヤカの目は、早速、半球空間の壁際に数十m大の亀裂を捉えていた。
亀裂の向こうからは、どこか別の場所からの光が漏れ出して来ている。
「あそこは、別の場所に繋がっているのかしら」
「行くしかないね」
黄金の蓮が咲き誇る花畑をかき分けながら、
いかに数十m大の大きさを誇る亀裂といえども、600mを誇るリリウスで遺跡に乗り込んでいく訳にはいかない。胎児さながらの姿勢で宙に浮かぶリリウスを背に、生身での遺構調査が始まろうとしていた。
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