37.閉ざされる未来
――ガタンゴトン。ガタンゴトン。
彼女は電車に揺らされてうつらうつらとしていた。向かう先は、高校生時代の友達との待ち合わせ。久しぶりに一緒に食事でもどうかと、先々週辺りに誘われたのである。
滅多に使わない路線や滅多に行かない町であるため、寝過ごしてしまわないか少し気がかりだ。
――あと駅四つかな……。
夢現をたゆたいながら、薄っすらと思考する。
耳に挿し入れたままのイヤホンからは十年前に流行った曲が流れている。女性ボーカルが高らかな歌声で可愛らしい歌詞を連ねる傍ら、伴奏は激しいサウンドを叩き出しているという、聴けば聴くほどクセになるタイプの曲だった。流行った当時はハマりすぎて、誰彼構わずに布教したものだ。
――ガタンゴトン。
アイツにも強引に音源を押し付けたっけ、と懐かしさがこみ上げる。
そんなまどろみは突如破れた。
「
空間を裂くような懇願が鮮明に彼女を打った。何処にも居ないはずの人間の、もう一度聴きたいと切望していた声。
「いきなり何言ってんのよあんた!?」
薄ぼんやりとした頭が咄嗟に選んだ受け答えが以上だった。
「っ!?」
まるで全身で叫んだかのような激しい振動によって意識が覚醒した。
カッと目を開けると、周囲からは白けた目線が注がれているのがまず見て取れた。もしかしなくても、夢の中だけでなく、実際に叫んでしまったようだ。
「す、すみません。うるさくしちゃって」
羞恥に顔が火照る。周りの人間は返事をせずに、ただ静かに注目の視線を解いてゆく。
(……今のは何?)
夢にしては、おかしい。会いたい気持ちが幻をつくったなら「殴って」なんて物騒な単語が出てくるはずがない。
(足止めしてってどういうこと)
わけがわからないまま、待ち合わせ場所があと二駅までに迫る。
胸騒ぎがした。
このまま何もなかったことにして予定通りに一日を過ごしていいのだろうか。きっと後悔する。根拠なんて何も無いけれど、確かにそう感じた。
藍谷香は携帯をバッグから取り出し、メールを早打ちした。急用ができたから行けない、この埋め合わせは必ずする、と。相手方の返事を待たずに携帯を仕舞った。
(戻らなきゃ!)
次の駅で降りて、すぐに帰路についた。それでも家に着けたのはそれから四十分後だった――。
*
寄り道一つせず、小早川家にも(気になったものの)寄らずに、香は真っ直ぐに自宅に帰った。きっと兄の名を久しぶりに聴いたからか、主の居ないあの部屋を確かめたくなったのだ。
だが玄関前まで駆け寄った香は異変に気付いた。
正面から人が入った痕跡がある――
(取っ手にこびりついてるこの茶色って……乾いた血……?)
思いのほか警戒せねばならなかった。
両親の靴が無い。扉は無理矢理こじ開けられた風でもなく、侵入者はまるでちゃんと暗証番号を使ってロックを解除したかのようだった。
あまりにも、不審な点だらけである。
携帯を片手にいつでも助けを呼べる状態にしつつも、香は慎重に歩を進めた。
(なんなの、この足跡。泥がついてる)
土足で上がってきたのかと思いきや、足跡は裸足でつけられたもののように見えた。そんな泥の道は玄関のすぐ直前で始まっている。靴を脱いだら裸足にも泥がついていた、なんて状態は考えにくい。
(まさかいきなり玄関前に下り立ったとでも言うの)
そんな馬鹿なことがあるか、と自ら否定する。
泥の道は二階へ続いていた。また、不審な点に当たる。いつもなら階段の真ん中で寝そべっているはずの飼い猫の姿が無いのだ。
110番をいつでも鳴らせるように携帯を操作してから、香は全身に程良い緊張を走らせた。大学が忙しくなって道場通いを止めたとはいえ、これでも格闘技の経験者なのである。
音を立てずに二階へ上がった。
すると、何処からか声が聴こえる気がした。起源をおそるおそる辿った。
(どう、して……! よりによってその部屋なの!?)
気付いた途端、握った拳がわなわなと震え出した。
問題の部屋は物置に使われるようになって久しいが、金目の物があるわけではない。なら何の為に、その者はそこに留まっているのか。
廊下から中がかろうじて窺える程度の微妙な距離まで近付いた。
なんと、部屋は全く荒らされた様子が無い。
「……――の歳で、履歴には説明のつかない空白。今から人生をやり直しても定年退職なんてできるわけがなかったな」
侵入者はボソボソと独り言を連ねている。大人の男の人の声だった。独り言の内容そのものは、極めて不可解である。
「私は、なんて無駄な時間を過ごしてしまったのだろう――――などと、誰が言うか。無駄ではなかった。願いの為に足掻いている時間は決して無駄ではなかったよ」
男性は鼻で笑った。どこか、聴く者を縛り付けるような抑揚だった。
香はその場に凍り付いて、息をするのも忘れた。それからも独り言は怒涛のように続く。
「頭のどこかではわかっていたさ。元の世界に戻っても、何も得られるものはない。徒労に終わるとわかっていても、望みを捨てることはできなかった」
「私は戻りたかっただけなんだ。その願いの為なら何でもやるつもりだった。私にはそれしか、無かった」
「何者をも押し退けてでも欲しい物があるのは――時には狂おしいほど辛くとも、恐ろしく幸福であった」
「ああそうだ。幸福だったさ」
「ほかならぬお前たちなら、この気持ち、手に取るようにわかるのではないか」
男性は一方的に話している。なのに、まるで会話相手がいるかのようだと、今になって気が付いた。言っていることに至っては半分くらいしか飲み込めなかったが、或いは混乱した頭が理解しようとしていないだけかもしれない。
せめて後ろ姿だけでも一目見よう。そう思って、香は靴下が触れるか触れないかの感覚で、そっと足を忍ばせた。
そうして盗み見ることができた男性は、随分と見慣れない服装をしていた。古代マヤを舞台にした映画にでも登場しそうな格好は、和室にひどく不似合いである。
褐色肌で贅肉の少ない肢体、細かい三つ編みと鳥の羽根の混じった長い髪、怪しげな刺青とピアス、派手な色の腰布――褌とも言うが前後に垂らした布がかなり長い――どれをとっても香には馴染みの無い物ばかり。
ところが男性の腕の中には、よく見知った毛むくじゃらの生き物が抱かれていた。彼の肩の上に顎を休めていた猫がこちらに気付いて、頭をもたげる。
(しまった)
ナァ、と飼い猫は一声鳴いた後、するりと男性の腕から飛び抜け、香にすり寄ってきた。
(こンのバカ猫! あんた人見知りでしょ!?)
やや今更な八つ当たりを含めて睨んだが、猫は構わずにのんびりと歩み去る。
どちらにせよ、時既に遅しだ。不審者の紫色の双眸はしっかりと香の姿を映していた。
(……って、紫色?)
よく見ると男性は全身から淡い紫色の燐光を放っていた。
信じられない心持ちでそれを眺める香を、向こうは更に信じられないと言いたげな面持ちで見つめ返した。
こうなってはもう観念して部屋に踏み入り、攻撃態勢を取った。終始、男性の挙動や表情からは一時も目を放さずに。
乾き荒れた唇がゆっくりと開くのも当然見届けた。
「…………かおり、か?」
男性の一声は彼女に新たな驚愕をもたらす。
――何でなんでナンデ何で。
どうして名前を知っている、と問い詰めようにも声が出ない。
「さすが我が妹。美人に育ったな」
「いもうと」
呆然とオウム返しをする。身構えていたはずの手足から力が抜けて、持ち物をことごとく取り落とした。
「なに、言ってるの」
「そうだ。ちょうどいい。誰か帰って来たら文句を言おうと思っていたんだ」
男性はひとりでに話をした。こちらの言葉なんて耳に入っていないみたいだ。
「仏壇なんて、ひどいじゃないか。僕は死んでなんかいないのに」
長い髪の男が全身をこちらに向け、一歩横にずれた。その向こうには、つい最近用意された仏壇と遺影が置かれている。
「や、めてよ。何言ってるのよ。誰、アンタ」
「そっちこそ何を言っているんだ、香。兄の顔をもう忘れたのかい? ほら、悔しいけど遺影そっくりじゃないか」
背筋が冷えた。
歪に笑った不審者は後ろの写真とは一見似ても似つかないのに、何故かじっと注視すると類似点の方が目に付いた。目の形や鼻の高さ、顎から頬骨にかけたラインに至るまでが、重なって見える。
(のまれるな!)
屈してなるものか、と香は背筋を伸ばしてハッキリと抗議した。
「だからって不法侵入した男に泣いて抱きつけるほど、あたしは純粋じゃないわ」
「法はともかく、侵入ではないな。あのロックは初めて見たけど、試しに僕の誕生日を入力してみたら解除できたよ」
「――!」
信じられない。信じたくない。
あんなに恋しかったたった一人のきょうだいが、あの穏やかで優しかった兄が、こんなに変わり果てるなんて。
「こんなの嘘よ! ちょっと見た目をお兄ちゃんに似せただけの詐欺師なんでしょ!」
叫びながらも、的外れな言いがかりだとわかっていた。詐欺師ならもっとうまく似せる方が理にかなっている。こんなよくわからない民族衣装を着た変人じみた格好で家族を騙せるなどと、思うわけがない。
異臭に包まれ、血にまみれ、極めつけには超人みたいに光っているこの目の前の男は、何者なのか。
認識が固まれば固まるほど、拒絶も強まる。
「ありえない! ありえないわ!」
気が付けば侵入者に襲いかかっていた。横蹴りに、半月蹴り。掌底に後ろ回し蹴りと、容赦ない攻撃を次々繰り出す。
英もどきはそれらを全て、素早い身のこなしで軽々かわした。
「ご挨拶だな! おかえりって素直に言えないのかな、この妹は!」
「そういえば『殴っといて』って頼まれたもんでね!」
あの幻聴の意味が、今ならわかりそうな気がした。
香の知る理屈で説明できるレベルをとうに越しているが、きっと何もかもが繋がっていたのだ。それなのに、どうしても素直に「生きていたのね」と泣いて喜べない。
――だって、もう居ないんだってやっと割り切ろうと頑張ってたのに――。
「ぐっ」
腹部に激痛が走った。反射的にその部位を腕で押さえたのも束の間、気が付けば足が床から浮いていた。気管が圧迫され、無意識に喘ぎ声を出した。
首を絞められている。
実の兄に、首を絞められている――!
手足をばたつかせた。蹴るか殴るか噛むか、何でもいいから、何かしないと。この力、尋常じゃない。
焦る。ひたすら焦る。視界は過度に潤ってぼやけていく。
(も、だめ。もう意識が)
そう思った途端、尻餅付いた。
(え?)
咳き込み、目を擦る。眼前ではつい今まで自分を殺そうとしていた男が別の誰かと揉み合っていた。第三者の登場で絞め殺されるのを免れたのだ。
が、廊下から誰かが来る気配は無かったはず。それに、玄関の鍵はちゃんとかけ直したのに。
どこから現れた――?
ぱちり、ぱちり。緩慢とした動きで目を
そこには信じられない光景があった。もう会えないと思っていた人物がそこに、二人揃って殴り合っていた。
「拓真!? 何で!?」
「ごめん、香ちゃん! マジごめん! 説明してる暇ゼロ! 五分が限界なんだ! 加勢して!」
「はああ!?」
と、返しながらも、香は跳ね上がった。二人がかりでなら或いは動きを止められるのではないか――などと思ったのも、甘かった。
英はまるで後頭部にも目がついているのではと思わせるほど、隙が無かった。香と拓真がタイミングを合わせて攻撃をしかけても、どうにかしてかいくぐっているのだ。ここまで触れられない相手は初めてだ。苛立ちが募る。
狭い物置部屋で暴れている所為で、雑誌や服などが次々散乱する。
ふと、英の動きが止まった。ほんの一瞬の出来事だった。
(あ! 誘導してたのね)
やっと香にも拓真の狙いがわかった。さりげなく誘導して、後ろが無くなるまで、隅まで追い詰めたのだ。
それだけでなく英の背後は仏壇だ。当人としても複雑なんだろう。振り返らずに目線だけが動いてそれを意識したが、隙としては十分だった。
今だ、と香が殴りかかろうとした時。
横から「ばきっ」と何かが折れる音がした。
脇から人影が跳び上がったのと、拓真が英に足払いをかけたのは、ほぼ同時だった。
人影は長い棒を杭のようにして――英を床に縫い付けた。跳んだ勢いに重力が合わさって、杭はズブリと難なく刺さった。
「ひっ」
香はこみ上がる嘔吐の衝動を必死で抑え込んだ。
折れた箒を腹部に生やした兄の傍に、もう一人、行方不明者が身を屈めた。その男の姿を認めて、英は芝居がかった口調で感嘆した。
「末恐ろしい連中だな」
「喜べ、俺らが恐ろしくなったのはアンタの為だ」
屈んだ黒髪の男はにべもなく答える。
(朝霧先輩、相変わらず目付きこっわ……)
残酷なやり取りから目を逸らしたくて、どうでもいいことに意識を回した。
せっかくの再会を喜べる状況では決してなかった。
久也や拓真でさえも、最後に会った記憶に比べて――血生臭い。もはや容易に声をかけられる雰囲気ではなかった。
何より、英を見下ろす双眸には、絶対に邪魔をしてはいけないと思わせる凄みがあった。
――否。あれは英などではなく、ただのよく似た別人だ。別人でなければ、ならない。
そうでなければ、今目の前で繰り広げられた惨劇を、どう捉えればいいのか。久也たちを、兄を刺した加害者として糾弾すればならないのか、それとも……。
きもちわるい。頭が痛い。
「香、いいことを教えてやろう。世の中は理不尽でありえないことだらけだし、生きている内に解明できる謎の方が圧倒的に少ないんだ。何故、この世界とあの世界は繋がっているのか? 何故、僕やコイツらだけがこんな目に遭ったのか? 理由なんて、きっと無い。意味は、人間が後から自分で作って結び付けているだけだ」
紫色の英もどきが、優しい目をして語りかけてくる。その肩や腹を、それぞれ久也と拓真が膝で押さえていた。
「さようなら、妹。お前は、さっさと全部忘れて自分の人生を歩め。でも、意味を見出したいなら、それでもいいだろう」
「え……」
目を見張った。三人の姿が、半透明になって消えかかっているのである。
「待って!」
掴みかかろうとしたが、すり抜けた。
香は己の掌と拓真の姿を交互に見やった。その拓真が、もの悲しそうな顔で口を動かす。
声は、しなかった。
――ごめん。ごめんね、香ちゃん。おれらは平気だから、自分を責めないでね――
白い煌めきと共に、部屋は無人となった。
遅れてやってきた飼い猫の鳴き声だけが静寂に響く。
――世の中は理不尽でありえないことだらけだ。
香はその場に膝からくずおれた。頭を抱えて、溢れる涙で袖を濡らす。
言いようのない虚脱感。一度失ったと思った大切な人たちを、もう一度失った。この瞬間に思い知った寂しさと喪失感を、生涯忘れはしないだろう。
(勝手に現れて、何あっさり勝手に消えてくれちゃってんの。訊きたいことどんだけあったと思って)
兄が流した血に指を一本伸ばした。最初は指先だったが、やがて掌ぜんぶをソレで濡らした。そこからはもう、ほとんど体温が失われてしまっている。
「おにいちゃん……拓真……」
アイツは、何をあんなに謝っていたのか。
神隠しに遭ったことに対する自責の念を背負わせたから? それだけとは思えない。
けれどももう訊くことは、できない。
(電車、降りなきゃよかったかな)
今日のことが悪夢だったならよかった。たくさん涙を流して、悪夢も苦しい記憶も溶けてなくなればいいのに。
散らかった部屋と畳に広がったこの血だまりが、一連の出来事が現実であったことへの確証だった。
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