23.形無く象るモノ

 祭壇の周りの気温が上がるのと同時に下がるのを感じた。そんな事態はありえないのに、確かにそう感じたのだった。

 水飛沫が跳ねる音が何度も繰り返されている。

 朝霧久也は背後の音の方に身体を向けた。


(……現実なのか?)


 立ったまま夢を見ているのだと疑うのも無理はない。

 皿に収まる少ない質量しか持たないはずの水が、球になって膨らみ、震えた。

 そして水滴はグンと収束し、皿の上で何かの形を作った。


「――サリエラートゥ!?」


 出来上がった形は確かによく見知った少女の姿に重なる。

 思わず手を伸ばして触れる。ところが指先が読み取ったのはぬるい水の感触のみ。

 幻は笑みを浮かべる。それはサリエラートゥには似つかわしくない、邪悪なほどに悪戯っぽい表情だった。そっくりなのに、どこか違う。目の前のコレは透き通る水の幻影であり、肌や髪や瞳などの、『色』を伴っていない。裸体であっても、本物と比べて質感がまるで別物だ。


「そなたはわらわに会いたかったのだろう」

「なっ……」


 反射的に後退ろうとして、久也は思い止まった。すぐ後ろは底なしの穴だ。


(喋った!? いやそれよりこれって)


 久也は瞬時に理解し、身構えた。


「そなたに見えるこの形は、わらわの巫女の姿態を元にして作っただけじゃ。人間の形で『言葉』をった方が、伝わりやすいと思ってな。この言葉遣いも、そなたがわらわに投影するイメージを元にしている。ただしこれは長くはもたぬぞ」

「アンタの巫女って――じゃあまさか……?」


 囁いて問う。緊張に握った拳から汗が滴った。答えはもう、訊く前からわかっていた。


「うむ、わらわの本体は滝であり、滝を通る水であり、滝と縁深いこの洞窟じゃ。して青年、わらわに何を望む?」


 サリエラートゥの姿を借りた滝神は、歌うように訊ねた。一方で久也は頭を抱える。


「本当に意志疎通が可能だったんだな」

「この通りじゃ。大抵の民はそれを望まないだけで、何も、隠しているつもりはない。過去の巫女姫も似たようなことをしたぞ。彼女らに比べてもそなたが一番思い切りが良いと思うが」


 滝神は久也の新鮮な傷口をじっと見て言った。


「わらわが叶えてやれる望みの大きさは生贄の量と、わらわの力を内包している度合い次第じゃ。『界渡り』であるそなたが払った血肉の代償に対して、答えてやれる質問はおよそ三つまでかな。遠慮なく問うが良い。時間が惜しいぞ」

「三つか……」


 久也は水でできた幻をまじまじと見つめながら考えた。生贄候補であるだけに――滝神の神力を糧に育って来た人間ではないから、小さな代償も効果が大きいという意味だろうか。集落の民ならば、もっと大きな代償を払わねば滝神と謁見できないのだろうか?

 酒の効果がまだ残っているので、思考は晴れ渡ったようにクリアだった。息を大きく吸い込み、質問を形にする。


「まず一つ目。俺と拓真が元居た世界とこの世界は一方通行だと聞いたが、戻るのは不可能なのか?」


 余計な前振りは必要ない。一番知りたかった答えを――自力では得られなかった答えを――滅多と無いこの機会を最大限に利用して得なければならない。

 それがどんな答えであっても、耐えられる。

 滝神の幻影はぐっと眉根を寄せた。


「…………方法が、無いわけではない」

「帰れるのか!?」


 素っ頓狂な声が喉から出た。

 そんなまさか、ずっと諦めねばならないと思っていたのに――


(今になって手に入るかもしれない、だと!?)


 動悸が速まる。己の心臓の音が、頭蓋骨の中でこだましているような錯覚さえ覚えた。

 しかししばらくして期待感が萎み始めた。滝神が、ひどく悲しそうな顔をしたからである。サリエラートゥの姿でそうされると、何故か自分も悲しくなってきた。


「能動輸送」

「は?」

「この単語なら、そなたに伝わりやすいのではないか」


 ぽつりと滝神が呟いた。気を遣って、久也の語彙力に合わせたらしい。


(能動輸送って、生化学かよ)


 境界の向こう側に置いて来た知識だが、現在の集中力であれば難なく思い出せた。

 確か、生物の細胞の内外を隔てる細胞膜と関連している。

 物質の流れは常に濃度の高い方から低い方に向かって自然に起きる。必要な物質を取り入れたい際に、膜の外側の方がその濃度が高いなら、チャンネルを開くだけで勝手に物質は中に入ってくる。そうして必要な分だけ取り入れた後、チャンネルを閉じれば済む話だ。

 細胞膜の場合、その種の物質透過は自然に起きるがゆえに、余分なエネルギーを必要としない。

 だが濃度勾配に逆らわねばならない場合は、そうは行かない。自然な流れに逆らうには工夫が必要になる。


「この場合の輸送物質って何だ? 『人間』か?」


 滝神は目を輝かせるだけで言葉では答えない。答えてしまったら、それも三つの質問の内に数えられるからかもしれない。


「だとすると濃度勾配は……人口か」

「流石そなたは察しが良いな」

「で、エネルギーが『神力』なのか。要するに膨大な神力が無いと逆方向に物質を輸送できない……アンタがそんな顔をするぐらいに、人二人を運ぶのは大変だってことか」

「そうさな」


 それがどれくらい大事おおごとなのか、言われずとも久也には掴めそうな気がしていた。


「じゃあ第二の質問。藍谷英は、この真実を知ってるんだな」


 質問というよりは確認だった。

 瞬間、滝神の面貌から表情が抜け落ちた。気味の悪い光が双眸に宿る。

 祭壇の左右の炎が刹那の間、勢いを増した。


(英が滝神を恨んでいるとしたら、もしかしたらその感情は共通しているのかもな)


 寒気がして、つい腕を組んだ。傷口から溢れる血が胸についたが、気にならなかった。

 やがて滝神は笑ってみせた。


「うむ。奴は知っている。知って、企んでいる」


 何もかもが腑に落ちるのを久也は感じた。英が固執している「人柱」とやらも、きっとそういうことなのだろう。


「どうやって聞いたんだ?」


 これが質問になった。


「細かい経緯は知っても足しにならん。要約すると、人魚マミワタに聞いたのじゃ」

「ま……人魚って実在するのか……」

「実在するが、奴らは人肉が大好物じゃ。一生遭わぬ方が良いぞ」

「ソウデスネ。気を付けるよ」


 藍谷英が人喰いの化け物と何をどう交渉したのか、想像したくはない。

 久也は長いため息をついて、気を取り直した。


「最後の質問。アンタは、どういう存在なんだ?」

「ほう」


 滝神は瞬いた。そして、口の端々を吊り上げた。


「大きく出たな。どう答えて欲しい?」

「そうだな、とりあえずアンタが『代償』だ何だと言うからには、願望を具象化できる存在なのはわかってる。そこんとこをもっと詳しく。どうしてアンタがその力を持ってるんだ? 他の部族の神も同類なのか? そもそもこの世界における神ってのが――」

「落ち着け。わらわがそんなにたくさん答えたらそなた、生贄となる前に失血死するぞ」


 蜃気楼が祭壇から降り、久也の左腕に顔を近付けた。幻の舌を伸ばし、傷口を舐める。何やらくすぐったいような気がした。触れられた「舌先」を構成する水が徐々に赤く染まっていく。

 出血は止まるどころか悪化した。洞窟の中に居て、神力を与えられるよりも奪われていると言えるような状況は、初めてだった。

 頭の奥で燻る熱が、更に熱くなっていく。


「なにゆえ今それを訊くのじゃ。他に知りたいことはあろう?」

「ほぼ好奇心だけど、突き詰めれば、俺と拓真の将来に関わってるからだ」

「ほほう」


 顔が逆さになりそうなくらいに首を傾げる滝神が、「喉」を鳴らして笑っていた。


(水なのに、人間の真似が巧すぎてキモい……)


 と、口に出しては言えない。

 そうしている内に滝神である水の塊は皿の上に戻り、脚を組んだ。


「神は、長きに渡る人間の畏怖の念や敬う気持ちが一箇所に蓄積された結果、誕生する。わらわの場合はその一箇所が滝だった。そうして生贄という代償を以て世界の仕組みに干渉する権限が託された、とでも言えば良いかな」

「仕組みに干渉する権限……」

「逆に恐怖や不安の念に影響されて誕生したのが人魚だが、その話は今は省こう」

「へえ……東洋の妖怪みたいだな」


 何故か妙な親近感が沸く。しかし権限を託したのが何者なのかまでは、話に上らない。


「わらわが仕組みに干渉するのは、民が望み、わらわが承った時のみじゃ」

「両方の同意の上でってことは、片方が嫌がったらどうもならないってわけか」


 これは意外な事実を知った、と久也は感心した。


「相違ない。民の望まぬ変化をわらわはもたらせないし、わらわが承諾しない望みは具象化されない」

「ってことは……待ってくれ」


 久也はこめかみを押さえて考え込んだ。

 滝クニに来た当初、滝神とは民の生活を支える為にだけ存在するシステムだと勘違いしていた。民が生贄を捧げ、神力が生命に循環して生活を潤す、そしてそのプロセスを円滑に進める超常的存在が滝神。

 だが本来の神にはそれ以上の機能、世界の仕組みそのものに干渉する能力があると言う。


(普段使われていないだけなのか? 今の時代は誰も知らないだけかもしれないが……それとも仕組みに干渉するには毎回代償が大きすぎる?)


 考え進める内に一つの問題に行き当たった。


「そもそも生贄と神力と集落の関係性、人間の内蔵を神力に変換するシステムは最初からあったんじゃないのか? 滝神が人々の畏怖の念から誕生したってんなら……システムもまた、人間が望んだから作られた?」


 ハッとなって顔を上げると、サリエラートゥの姿をした水が、慈しむように微笑んでいた。


「すまぬな青年、答えるのは今は止めておく。その傷ばかりは自力で止血して回復させねばならんからな」


 滝神が指差した先では、己の左腕からおびただしい量の血が滴っているのが見えた。痛みは相変わらず感じないのに――


「また会おうぞ、青年」


 短い挨拶の言葉が降りかかる。


 ――ぱしゃん!


 水は浅い皿の中に一滴残らず戻り、そうして全く動かなくなった。

 祭壇を照らす炎は弱まり、天井からまた水が落ちてきた。

 久也はそれから数分はその皿の中に浮かぶ波紋をぼんやりと見つめ続けた。

 突如、フッと松明立ての炎が消え、完全な闇が舞い戻る。


 ――生贄システムが人間の意思で作られたのなら、失くすこともできる?


 或いは、不変だと思っていた自分と親友の運命にも路線変更の余地があるのではないか。そして巫女姫の務めも、もっと楽にしてやれる可能性もあるかもしれない。

 僅かな希望が、胸を満たした。

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