D. Turbulence

24.死者に逢わせる花

 気を抜いた時間はほんの一瞬に過ぎない、そのはずだった。だがその一瞬の間に容易に説明の付かない事態に陥った。

 一度瞬いただけだったのに、気が付けば小早川拓真は見ず知らずの場所に移動――していなかった。


(な、に……コレ……)


 むしろ、目の前に広がるこれはよく知った場所だと、脳の記憶を司る部分が訴えている。

 なのに遠い昔の光景のようだった。

 圧倒的な既視感に吐き気さえ覚える。

 長い間目にしていない、電灯による淡い光。省エネを意識した電球。平坦な天井、整理整頓された本棚。生真面目さが滲み出る、教科書の広げられた机。

 一方で、女の子が好きそうなぬいぐるみの並ぶベッド、所々視界を彩るピンクや赤の小物。本当は内装にもっと少女趣味を充満させたいはずの部屋の主は、金銭的に苦しい家計を想って、何かと欲しい物を我慢していた。将来は奨学金をもぎ取って家族の負担を減らす為に、絶え間なく勉強していた――。


(この部屋は……どうして……)


 何故、自分はこの部屋と、その主のことを、こんなによく知っているのだろうか。部屋自体に入った回数はそれほど多くないはずだ。だがこの家の香り、夕飯の残り香には、確かに記憶があった。しばらくの異世界暮らしの所為か、靄の向こうのひどく遠い場所に認識を置いてきたような感覚だった。

 果たして自分は何処に居たのか。

 いつの間に、何処に行ったのだろうか。


(待って、匂い? 夢に匂いはあったっけ?)


 ――ガチャリ。


 長らく聴いていない音が、振動が、鼓膜を打った。

 戸を開けた人物の姿が、焦点の合わない眼鏡を見通しているみたいにぼやけている。何だ。一体、この輪郭は誰のモノなんだ――?

 少女がこちらの視線に気が付いた時、混乱の度合いはピークに達した。


「拓真お兄ちゃん!?」


 叫び声で、輪郭がはっきりとした。


「朱音ちゃん!」


 呼ばれて少女が手を伸ばすのが見える。

 だが瞬き一つもしていない内に、伸ばされた手の指先がもやとなって実体を失った。





 ひどい頭痛と眩暈がする。しゃがみ込んで頭を抱えるしかなかった。

 そんな拓真の肩に、温かくて肉厚な手がそっと触れた。


「急にどうしました?」


 落ち着いた声が問いかける。見上げるとそこには集落を代表する戦士三兄弟の次男、アッカンモディの気遣う表情があった。いつものような全てを包み込む微笑みでなくとも、不思議とこの顔立ちを目にすると心が落ち着く。頭痛までもが和らいだ気がした。三度もゆっくり呼吸してみれば、眩暈が収まった。

 アッカンモディはさりげなく手を差し伸べてきた。


「血色に青みがさしています。そんなこともあるのですね、初めて見ました」

「これは『顔色が悪い』って言うんだよ、モディ」

「顔の色に良いも悪いも無いのでは……? そもそも変化しうるものだったとは知りませんでした」

「あはは、こっちの人たちは変わってもあんまりわからないよね」


 元々の肌色が濃いがゆえに、顔色が悪くても頬に熱が集まっていてもわかりにくいだろう。


「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。もう大丈夫だよ」


 何か大事なことを忘れている気がしないでもないが、とりあえず拓真は差し伸べられた手を取った。


「では、見て欲しい物があるのですが、いいですか」

「うん。何か見つけた?」

「こちらに」


 そう言ってアッカンモディは拓真の手首を掴んで先導した。そうでもしなければ簡単にはぐれてしまいそうなので助かる。

 視界は瑞々しい緑色に埋め尽くされていた。大げさな表現ではなく、本当に緑以外には何も見えない。

 数時間前に拓真は巫女姫サリエラートゥの指示で捜索隊に加わり、集落から失踪した人間の痕跡を追って北進した。そしてこの地――成人男性の身長すらをもゆうに超える長い草が生い茂っている一帯――に辿り着いた。ここから先には例の沼沢林がある。あの辺りまではまだ、滝神の恩恵を受ける地域だ。

 更に北上すれば北の部族の領域、つまり現在の集落民や拓真にとっては未知の世界が控えている。

 もはや失踪した人間の去った方角が北である事実には誰も驚かない。


「この足跡を見てください。解せないものがあります」


 肌を撫で付けるしなやかな草むらが途切れ、視界が少しだけ開けた。アッカンモディは岩の傍にしゃがんで土の窪みを指差した。まず、一つ一つの足跡の進む方向がバラバラなのを指摘した。加えて、誰かに運ばれたり、引きずられたり、抵抗した跡が無いと言う。

 拓真も一緒になってしゃがんだ。足跡に一つずつ指先で触れてみる。


「自分の意思で出て行ったってこと……?」

「そう見えます」


 始めは不規則だった足取りが直線を紡ぎ、母指球にかかる体重を増やしてどんどん深く刻み込まれていったのがわかる。最初は不安定だった足取りが最終的には確信を持って走り出したかのように、間隔が長くなる。


「それぞれの歩んだ道が交錯した様子も無いのだから、失踪した人間の一人一人を別個の事件として捉えるべきでしょう。稀に重なる所があっても、干渉し合っている様子がありません」

「同じ時に同じ場に居たとしても、互いに気付いたり声を掛け合ったりもしなかったと言うのか」


 アッカンモディの兄、アレバロロが長い草をかき分けて姿を現した。声が聴こえるほど近くに居たらしい。


「そういえばそれはかなり変だね」


 いくら視界が遮られていると言っても、人が動き回る音や気配はわかるはずだ。早朝に自分以外の人が動き回っていれば不審に思って声をかけるぐらいはするだろう。


「同じ時に同じ場に居たとも限らない。午後の雨は激しかったし、他に足跡は残っていない。たまたま岩の陰にあったからこの足跡は無事だった。しかし、やはり雨に多少表面が流されていて、付いた時間までは割り出せない」


 アレバロロがつり目を細めて言った。それにアッカンモディは首肯する。


「そうですね。同じ時間に作られた跡なのかまではわかりません。こうなっては、今夜から見張りの者をつけるのが良いでしょう」


 彼の提案に一同は賛同した。

 これ以上ここからは何もわからないだろうと判断して三人はその場を引き上げ、一緒に来ていた他の十数人の捜索隊員を呼び寄せて草むらの端に集合した。そして互いの発見を報告し合う。目ぼしい情報は少なかった。

 そう落胆した時、一人の短足の中年男が手を挙げた。彼は長すぎるズボンを地面に引きずりながら前に出た。確かこの者は、集落の中では特に植物や薬草に詳しい男である。植物を燃やした煙が使われたかもしれないとの仮定の元、巫女姫は彼を指名して捜索に加わらせたのだ。


「煙の残り香ですが、雨に流されてわかりづらいものの、微かに残っていました」

「何の植物が使われたのかわかったの?」


 拓真は期待を込めて訊ねた。


「滅多に嗅がないので思い当たるのに時間がかかりました。――――――――、ですかね」

「え? くふぁ……何?」


 思わず訊き返すも、なんとか~の花、と言ったらしいのは文脈と合わせて大体伝わった。


「クファモルタナロンベ。川底に咲く、幻のような珍しい花です。すりおろした花びらを酒に混ぜて飲むと、長らく会っていない人間、特に死に別れた相手が夢に出ると言われています。ゆえに、『死者に逢わせる花』と呼ばれます。そう言っても我々は人魚を怖れて川底まで潜ることなどありませんから、たまに岸に流されてくる花しか調べたことはないです。新鮮な花となるとまた威力が違うかもしれない」

「その延長で、燃やせば幻覚剤になるの?」

「聞いたことはありませんけどきっとそうなのでしょう。死者を追い求める人の心を利用した、なんと悪辣な策か」


 男は怒りに歯を噛み合わせた。

 一方、彼の話を聞き終えて、拓真は叩かれたような衝撃を覚えた。


(……あ! 何で忘れてたんだろう。さっきぼーっとしてた間に見たのって、朱音ちゃんの部屋……!)


 煙の影響で、自分も長らく会っていない人間の幻に触れたのだろうか。そう考えるのは自然な気がするけれど、どこか納得が行かない。

 幻の中の朱音からは返事があった。拓真の知る限り、それは過去の出来事の一片ではなかった。ついて来るように、と朱音は惑わす言葉を発したわけでもなかった。

 あの驚愕の表情や呼び声に、うそ偽りは全く感じられなかったのだ。

 だとすれば、一体なんだったと言うのか。


「アァリージャ、しっかりしろ」


 脈絡なく横からアレバロロの声がした。そっちを振り向くと、呆然と視線を彷徨わせる弟を兄が揺さぶっている。

 数秒後、アァリージャの目の焦点が再び合った。


「兄者! 兄者! おかしなものを見たぞ」


 アァリージャが広い鼻からしきりに息を吹き出している。


「落ち着け。おかしなものとは何のことだ? まさか幻覚を見せる煙が残ってたのか? いや、そんなはずはない。他の人間は平気だったからな」

「兄者、おれは今まで起きていたであろう」

「ずっと目を開けて立っていたのなら起きていたでしょう。何です?」


 隣のアッカンモディが微笑んで答えた。


「見たことのない風景を見た」

「リジャ、その話もっと詳しく!」


 拓真はすかさず食いついた。まさかとは思うが自分の経験と同じだったとしたら――。


「う~ん、四角い大きな物が並んでいた。その四角の中心にもまた長い四角があって……それがパタパタ開いたり閉まったりするんだ。四角の向こうからは声がした」

「それは多分、建物だよ。開いたり閉まったりする四角は扉」

「そうなのか! それで見入ってたら人が扉を通った。その人は……そうだな、ちょうどヒサヤみたいな黒くて真っ直ぐな髪をしていた。黒い服を着ていて、こう、首の周りに長い布を巻いていた。顔に四角が二つあったぞ! 手にも四角い荷物を持っていた。なんだか、四角っぽい光景だったな」


 アァリージャはジェスチャーも交えて説明した。


「スーツ・ネクタイ・眼鏡とアタッシュケースのことかな……」


 既存の常識をここまで超越する発想力が、アァリージャにあるとは思えない。

 なのに彼が描写しているのは現代の地球に類似した世界の風景だ。

 これらが何を意味するのか、悔しいが全くわからない。


「……こうなったら、早く帰ろうよ。サリーにも報告したいし」


 拓真の提案に異を唱える者は居なかった。

 皆は集落に向けて一斉に走り出した。左右の景色が目まぐるしく流れてゆく。


(おれの頭じゃ何が起こってるのかわかんないや)


 早く戻って久也に相談しよう、そう思えば思うほどに走る速度を上げた。

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