15.忌むべき楽園
滝神の巫女姫サリエラートゥは雨に打たれる大地を俯き気味に横切った。
天気が晴れであったなら滝神さまをぼんやり眺めて過ごしたいところだが、今日はそれができない。
滝の後ろの洞窟まで走り込み、心地良い空間にほっと一息ついた。次に濡れそぼった衣類を手早く脱ぎ捨てた。束ねていた髪も下ろし、素っ裸になったところで祭壇へと続く闇の中を裸足で踏み進める。濡れた衣服を脱ぐ時の解放感は溜まらない。
彼女はぺた、ぺた、と歩を進める。やがて気が付けば、今日の不満が舌から転がり落ちていた。
「……何でもかんでも私の責任か? 十七歳の小娘には荷が勝ちすぎるというに。タクマだって、何をあんなに怒鳴っていたのやら」
異世界から現れた青年の異様な剣幕を思い出して、サリエラートゥは解せない想いで一杯になった。
「私は滝神さまの代行者であって、別に五百人の長になりたかったわけじゃない。それもこれも全部、三代前の巫女姫が当時の長と決闘なんかした所為だ。しかも勝ったりするから、それ以降は最高権力者は巫女姫一人になったんじゃないか」
ここでなら延々と愚痴っても誰の耳に届くことがないという安心感のままに、彼女はしばらくぶつくさ言い続けた。
「トラブルになる度にすぐ私に頼らないで欲しいものだな。もっと年長者を頼れ。何が最善策だなんて私にだって全くわからん。喧嘩の仲裁に天災対策に生贄の儀式に………………長い休みが欲しい」
祭壇の前の長方形ベンチを手探りで見つけ、冷たい石の上に横向けに腰をかけた。膝を腕で抱き抱えて、膝小僧の上に顎をのせる。
「あーあ、巫女姫なんて辞められないかな。もっと適性の高い人現れないかな」
それは誰にも漏らしたことの無い愚痴、求めた所でどうにもならない望み――望んでしまった時点で罪悪感が小さく胸を突く。なんて無責任な発言だろう。
自己嫌悪に唸りながらサリエラートゥはぎゅっと唇を噛み締め、ベンチの上で身体を揺らした。
――誰かに代わって欲しい。
少なくとも今は叶わない願いだった。己の責務から逃げたら皆が苦しむことになる。サリエラートゥはそれを平気でやってのけるような神経の持ち主ではなかった。
気分が沈めば沈む程に泣き出しそうになる。一度スンと鼻を鳴らした。
直後に、右の方から衣擦れのような物音がした。
「何奴! 曲者か!?」
立ち上がり、サリエラートゥは条件反射で腰に提げているはずの骨製ナイフを探した。
(しまった、服と一緒に入り口に置いてきてた!)
行き場を失った手をなんとなく拳に握って、物音のした方向を睨む。
祭壇の左右の壁際にもベンチがある。雨宿りをしようと思って誰かが休むにはもってこいの場所だ。それも外部の人間でなければそんなことはしないはずだ。集落の民は皆、滝神さまの近くが立ち入り禁止区域だと熟知している。
「誰って……わかりきったことを訊くなよ」
完全なる闇の中から返ってきた眠そうな声は若い男性のものだった。爽やかと言えなくもない、程よく澄んだ低音。低音でも、濃厚に響く集落の成人男性たちと比べてトーンがやや細いのが印象的だ。
今となっては聴き慣れた声である。
「あ、ああ、なんだヒサヤか。いつから聴いてた。というより真っ暗なのに何をしていたのだ」
「いかがわしい想像をしたんなら安心しろ。寝てただけだから。いつから聴いてたのかっていうと、『拓真が怒鳴ってた』辺りで起きたと思う」
「って、ほぼ最初から聴いてたんじゃないか!」
恥ずかしさに火照る。とにかくベンチにまた腰を下ろした。
彼は更に「アンタの愚痴りスポットだったのか。占領してて悪いな」と付け加えた。
最近のこの男の行動パターンを思えば此処で遭遇することくらい想定の範囲内だったのに、今日に限って失念していた。
サリエラートゥは誤魔化すように話題を逸らした。
「試しに訊くが暗闇の中で一人営むいかがわしい行為とはやはり……」
「他人のそーゆーのはあんま深く考えない方が気楽に生きられるぜ」
「わ、わかっている。お前もタクマも妻の一人二人娶る年頃だろう。故郷には相手が、子供が居たんじゃないのか」
「妻ァ?」
ヒサヤの声が裏返った。次いでパッと起き上がる気配がする。そんなに意外だったのかとこっちも思わず驚いてしまう。
「無理無理。性欲は人並みにあるけど、特定の女の機嫌をずっと取らなきゃなんないのとか俺には鬱陶しいだけだ」
「……身も蓋もないな」
何やら苦笑を誘う言い方だ。
「それが事実だ」
「その言い草だと、試したことくらいはあるんだな」
「まあ、長くて一年付き合った相手は居たけど。
「……冷めているな」
そんな感想を伝えると、「ふぁ~」とのんびりとした欠伸が返った。実にどうでもよさそうである。
「本気で惚れたことがないと言えばそれまでの話だ」
「それは勿体ない気がする……」
どうしてそんな言葉が出たのか、サリエラートゥにはわからなかった。もしかしたら、自分が切望してきた機会をこの青年が自ら逃しているからであろうか。
巫女姫という役職に就いている以上、別の候補に引き継ぐまではサリエラートゥはずっと清い身で居なければならない。
よく考えたら、役割を全うしている内にいつも気が付けば日が暮れるのだから、恋だ愛だとそんなものに割く時間は無い。しかも民は無償で食物を分けてくれるしどんなことにも手を貸してくれるから、家庭を築かなくたって生活に困るわけじゃあない。
(ただ、皆が楽しそうだから)
集落の他の女性たちとたまに一緒に暇を過ごしても、入り込めない話題がある。決まってサリエラートゥは横から皆の恋愛話を聞くことしかできない。女性たちは舞い上がったり不安になったり、時には食事が喉を通らない程のひどい失恋をしたりと、何かと大忙しだ。なのにどんなに傷付けられても飽きもせずにまた誰かを好きになっている。
自分だってあの輪に混ざりたいと、何度思ったことか。
「サリエラートゥ」
「!?」
急に呼ばれて、己の意思とは無関係に鼓動が速まった。
名前を呼ばれたくらいで何だと言うのだ、落ち着け、とサリエラートゥは心臓に命じながら右手を胸に置いた。呼んで欲しいと頼んだのは自分だったはずだ。
(でも名を呼ばれたのは何年ぶりだろうか)
姉たちには大分前からずっと「姫さま」と呼ばれている。最後に実名を呼んでくれたのは、先年息を引き取った母親だけだった。
「な、何だ」
とにかく狼狽を必死に隠して返答をする。いつの間にか、愚痴を垂らしたい欲求は消え失せている。
「……? いや、外で何かあったのか? さっき拓真がどうとかって」
「ああ、それだったら――」
少年が溺れそうになったのをタクマが救ったという一件をかいつまんで話した。少年の家族が恩人であるタクマに抱き着いて離れなかったのが面白かった、とも。
「誰一人泳げないってスゲーな」
「お前もタクマと同意見なのか。ならば逆に訊くがお前たちの世界は誰もが泳げるのか」
「日本だったら教育の一環として学校で習わされるよ」
「?」
覚えの無い単語が並んだ所為で、サリエラートゥの思考回路が詰まった。教育や学校という概念はわかりそうでわからない。言葉の意味がなんとなくイメージできても、何の為にそんなものが存在するのかがさっぱり掴めないのである。大勢の子供や大人を一箇所に集めて漠然とした何かを教えるらしい、が。
そこでヒサヤが話題を転換する。
「ところで粘土板のことだけど、『違う時間の流れ』って言葉に心当たりが無いか」
「うーむ。特に無いな」
「他に手がかりは……この粘土板を解読してる時、たまに誰かの記憶がちらつくようになってきたな」
「それは凄いな。お前の狙い通り、書いた本人の思念に触れられたのか」
「多分そうだ。で、内容は単に人の姿なんだけど、それが俺らみたいな来訪者っぽいんだ」
「それで!?」
まさかあの粘土の塊がここまで特別な物になると以前は全く想像できなかったサリエラートゥにとって、心躍る話だった。ベンチの端を両手で掴んで身を乗り出した。
「それだけだよ。でも、人の姿は代わる代わる見えるんだ。それぞれ別人なのはわかる。俺に視える最後の一人だけが、生きてるんだ」
「そうか……生きた界渡りはそんなに以前にも来てたんだな」
「他の歴代巫女姫についてもそういう話は聞いてないか?」
どうだろうな、と答えてサリエラートゥは考え込んだ。
「生きた界渡りの話は本当にあまり聞かないんだ。ただ、そうだな。三代前のイパンガは特に長く巫女姫をやっていたから、会った可能性は他より高いが」
「もっと詳しく頼む」
ふいにヒサヤの声が近付いた気がした。もしも隣に座る気があるのならと思ってサリエラートゥはベンチの場所を空けた。だがしばらく待ってもヒサヤは座らない――なのでそのままで答えることにした。
「巫女姫になる為に必要なのは適性のみだ。身体と神力の相性などが最も良い処女がなるしきたりだ。そして自分より適した人間が現れたら引退して普通の民として生きる。イパンガの代には彼女より適性の高い人間がなかなか現れなくてな、四十年以上は巫女姫の役職に就いていたそうだ」
「へ……え。大変だな。四代前はちなみに何年やってたんだ?」
「確か二十年前後だったかな」
ふーん、とヒサヤは相槌を打った。
「しかし、記憶の中の対象が界渡りだとどうやってわかったのだ? やはり肌色か?」
サリエラートゥはさっきから気になっていたことを訊ねる。
「別に全員が全員、色素が薄かったんじゃないぜ。服装で一発でわかった」
「なるほど、服装か。確かに毎度生贄の着る服は全然違うな」
「ん? 待てよ、服?」
何かに気付いたようにヒサヤが口を噤んだ。
(服から何かわかったのか)
数十秒待てば、また彼が口を開いた。
「時間の流れ……そうだ。服装は、特に先進国のそれは、時代背景を顕著に表してる。生きた地球人が現れたなら、他の生贄の遺した服を見るだけでも色々わかる。何気に捧げられた生贄の私物って洞窟の中で第三の穴に埋められるし、繊維によっては分解されるのが遅い。過去の生贄の遺物から何かに気付いて、巫女姫に話したのかも。そうだ、きっとそういうことだ」
興奮気味のヒサヤの声がまた遠ざかる。
火打石の音に続いて、急な明るみが洞窟を照らした。青年が物置棚から拾い上げた粘土板を凝視する。明かりに目が慣れるまでに何度も何度も瞬きながら。
「おいおい、これが本当だとすると此処は海底の楽園じゃねーか!」
あまりに急な大声にサリエラートゥは怪訝な顔になった。叫ばれた内容もおかしい。
「は? 何を言っている。海底なわけあるか」
「暗喩だよ! こうしちゃいられない、早く拓真にも伝えないと!」
ヒサヤは粘土板から視線を上げてくるりとこちらを振り向いた。
瞬時に界渡りの青年は百面相し出した。驚愕、焦り、呆れ、諦め……と表情は続いた。
「しょーがねーな。ホントにアンタは」
「いきなり何だ」
やれやれと頭を振るヒサヤに苛立ち、サリエラートゥが頬をぷくりと膨れさせる。
「自覚できないとこが余計性質が悪い」
「だから一体何だと言うのだ」
ヒサヤは濃い茶色の双眸をサリエラートゥの両目としっかり合わせ、一音ずつを区切って発音した。
「ふ、く、き、ろ」
ようやっと理解したサリエラートゥは唇で「おぉ」の形をつくる――。
*
二人の家まで土手道を上る途中、先にこちらに気付いたタクマが内から扉を開いた。
「サリーに久也ってばいいとこに! 探したんだよ!?」
「どうした」
ただならぬ雰囲気にサリエラートゥが即座に問い質す。
「北の民が来てるんだ。今バローの家に留まってるよ。正式な挨拶だって言ってアンテロープ一頭の手土産まで持って」
「なんだと?」
無意識に声音が低くなる。
「明後日、沼沢林にて会合したいってさ。長が直々に来るって言ってるけど、ホントかなあ。罠だったりして」
タクマは薄茶色のボサボサとした髪を引っ掻いた。
(これは奴らの挑戦かもしれない)
すぐにでも使者に会わねばならない、とサリエラートゥは奥歯を噛み締めた。
「拓真、そんなことより俺からも重要な話がある」
「え、なになに。どったの」
家にも入り切らない内にヒサヤが切り出した。余程の発見をしたのだろう、声に緊張が張っている。
使者に会うのはこの後でも良いとサリエラートゥは判断した。
「私も聞きたい。結局粘土板にはなんと書いてあったのだ?」
「つまりこういうことだ」
家の中に入り、床に胡坐をかいてヒサヤは己が導き出せた仮定を手短に話した。
「粘土板から拾えたのは『違う時間の流れ』以外にもいくつか単語があって、それを強引に繋げると『絶望した、場所が無いから』みたいなことになった。それで俺はもう一度、書き手の記憶の映像を視てみたんだ。記憶は一瞬だから自信を持って断言できない」
それがついさっき、服の話をした直後に火を付けて確認していた時のことだ。
「もう一回視たら、最後の生きた人がそれまでの生贄さんの服装から時代情報を拾った、って仮定の裏付けが取れたの、久也? あれ、時代情報? ん~?」
タクマが理解に苦しんでいるように口元をぐにゃぐにゃと歪ませている。サリエラートゥといえば挟める口も無いくらいに理解できていない。
「他国だと細かい時間の変化はわかりづらいから、多分同じ文化圏の人の服をみつけたんじゃないかなと俺は思う。記憶の映像はこれを肯定している。生きた界渡りの人と似て非なる服を着た生贄が居た」
「わかった! その人は自分の知る国にとっての時代遅れの服をみつけて知ったんだ!」
「そういうことだ。この世界と俺たちの元居た世界は、時間の流れが違うらしい。おそらくこっちの方が遅い。つまり近い内に帰る方法を見つけないと、大学では欠席が重なりすぎて途中退学扱いになるし、最悪の場合は浦島太郎だ。場所が無い、つまり帰る居場所が無くなるんだよ」
「う、浦島太郎!? 玉手箱!? それって結構ヤバイんじゃない!」
「ああ、ヤバイ」
いつしか二人して青ざめている。
「ウラシマタロー? お前たちがさっきから連呼しているその呪文は何なんだ? いい加減に教えてくれないか」
取り残された気分にしびれを切らしてサリエラートゥは二人ににじり寄った。
「故郷の昔話だ。俺たちとの重要な共通点は、もしかしたら物語の最後には故郷に帰れても誰も知ってる人が居なくなってるかもしれないってとこだ」
「居なくなる?」
「時間が流れ過ぎて知り合いが全員死んじゃうんだよ、サリー。こりゃ思ってたより深刻だなぁ」
「………………なんていうか、済まない……」
集落代表としての義務感に突き動かされて彼女は謝罪した。すると二人は面食らったようだった。
「いいよー。最初に謝ったじゃん。サリーがおれらを召喚したんじゃないし、帰れなくてもしょうがないよ」
明るい笑みを浮かべるタクマが、こちらの落ち込み具合を和らげようとしているのがよくわかる。その心遣いがかえって苦しい。
複雑になってきた彼らの状況を想って、サリエラートゥは深く頭を垂れた。
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