11.キロク

 久也と拓真が異世界に渡ってまだ二週間経たない頃、ついにそれは境界を超えてやってきた。


 ――新鮮な死体。


 早朝にサリエラートゥが洞窟の入口付近で発見し、即座に彼女は「儀式」に取り掛かった。言わずと知れた、滝の神に生贄を捧げる儀式である。

 久也は己にそれを見届ける義務があると感じ、見学したいと申し出たのだった。巫女姫はすんなり許可を出した。

 そして儀式が終わった今は、集落の中でも人があまり来ない石板ベンチに座って木陰で一人涼んでいる。台地の上から見渡せる緑に焦点を合わせずにぼうっと青空を目に入れた。


(これが、この世界の現実)


 気を抜くとすぐに映像が瞼の裏を移ろう。瞬くのが億劫だ。

 医学生だった久也は以前、人体の解剖に立ち会ったことが何度もあった。動物の解剖ときたらミミズから豚に至るまでにすべて高速で開いて臓物を並べることだってできる。けれどもそれと「新鮮な」人間の死体とでは雲泥の差があると思い知らされた。

 化学製品混じりの臭いよりもずっと生々しかったし、何より人間性のようなものが生贄には鮮明に残っていた。解剖に似た行為でも、科学の進歩や教育を目的としたものとはてんで異質といえよう。

 巫女姫は対象の顔を隠そうともせずに手際よく服を剥いでいった。

 生前の気配がまだ色濃く表れていたのに。特に素足の白さとペディキュアの明るい黄色が脳裏に焼き付いている。

 今回現れた死体は状態から察するに飛び降り自殺をした若い東洋系の女性だった。誰かに突き落とされたまたは自分たちのように誤って落ちたという線もあるかもしれないが、そうだとすれば生きて現れたはずだ。


(そういえばこっちと繋がりのある向こうの自殺の名所って飛び降り系が多いのか?)


 よく考えれば入水や樹海で首を吊るなど、そういう名所もありうる。グロテスクさでは飛び降り死体よりも見るのが楽――ならいいのだが。先進国にありがちな睡眠薬や麻薬の意図的な過量摂取は特定の場所で数多く行われるものではないので、対象外なのだろうか。


(我ながら空しい物思いだ)


 集落の民が生きる為には必要なことだと、自分はそう割り切れるだろうか。そしていつかは自分たちもああなるのだろうか。あんな風に丸裸にされて。暗い洞窟の中で「重要な臓物」と「その他」にパーツが仕分けられ、それぞれ別々の深い穴に落とされて。いるかどうかも確認できない神に全部捧げられて。親指の爪だけ、不特定多数の生贄用の墓石の下に埋められて。

 そうして故郷では、遺体の無い葬式が挙げられ、親族の下には灰も骨も残ることなく。

 心底望まない限りはそうならなくても良いのだと、わかってはいる。

 わかってはいるが、恐ろしいことになんら変わりは無い。


 ――突如、頬を撫でる風があった。


 ベンチの冷たい石に振動が伝わり、ふわっとやわらかい髪が膝をくすぐる。久也は左を向いた。

 長い黒髪をハイポニーテールに縛ったサリエラートゥがちょうど飛び込むように腰を下ろしていたところだった。

 朝の作業の後に身を清めてきたらしい。石鹸の香りがチュニックの肩辺りから微かに漂っている。優しげでいい匂いだ。


「こんな所に居たのだな、ヒサヤ」

「ああ。拓真は?」


 ちなみに拓真は儀式に立ち会うのを拒んでいた。普通に考えて、誰だって立ち会いたいモノでもないだろうけれど。


「アレバロロたちとの朝稽古の後、とんでもない形相でユマロンガの家に駆け込んで行ったと聞いたぞ」

「あー……あいつ腹減ると凶暴化するからな。元気だな……」

「そういうヒサヤはいつにも増して顔が白いな。また胃か? それとも熱か」


 ここで彼女の言う「熱」はマラリアやら黄熱やら出血熱やらをまとめて示唆している。この世界はどうやら多くの点で地球と酷似しているようで、流行しうる病の種類もその一点らしい。ここでよくある病の説明を聞き出して、危惧していたままだと知った。そのため常に長袖長ズボンを着るなど、蚊対策も抜かりなく行うようになった。飲み水はギニア虫を警戒して、集落の人たちが井戸水を濾過する過程をしっかり観察するようにもなった。


「ご心配なく。普通だよ」

「普通でそんなにぐったりしているとはいかんな。もっと精をつけろ。大体お前は食べる量がタクマに比べて三分の一も無いじゃないか」

「あのブラックホール胃袋と比べられても困るんだが」

「『黒い穴』? 穴は決まって闇の色なのに、わざわざ黒い穴と言うのはどういうことだ?」


 サリエラートゥは不思議そうに首を傾げた。


「黒い穴つっても特殊な穴だよ。光を含めたあらゆる物質を吸い込んで呑み込んでしまう引力を持った、宇宙に存在する高密度の……それを胃袋にたとえて……悪い、もうなんか説明するのがめんどくさい」

「う、すまん」

「別にアンタが謝ることじゃないぜ」


 未だにぐったりと肩を落としたまま、久也はベンチの隣の木の幹にもたれかかった。


「本当に大丈夫か?」

「大丈夫大丈夫。精神的に疲れてるだけだから。アンタはよく平気だな……って、儀式中の記憶は残らないんだったっけか」


 久也は平常運転に喜怒哀楽を表している巫女姫をじっと見た。彼女いわく、儀式はトランス状態に入って行うものだったとか。

 そういえば始まる前は身を清め、全裸になってレッド黄土オーカーで特殊な模様を塗っていた。そして妙な酒を飲んでから、巫女姫は取り憑かれたかのように機械的に作業を進めるようになった。


「そうだな、儀式中は出来事に対する意識はあるのだが、それを自身の身体と心で経験している実感が無いな。切り離されたような感じだ。だが夢の中で記憶として再現されることはあるぞ」

「恐ろしくなって目が覚めないか?」

「たまに。でも大体は起きた途端に内容を忘れていて、後味の悪さだけが残る」


 なるほど、と久也は相槌を打った。

 会話はそこで途切れた。


(しっかし暑いな)


 何かに抱き付かれていると錯覚するほど、今日の空気はたっぷりと熱気と湿気を含んでいる。風も無い。エアコンや扇風機の無い世界で涼みたければ、もう水を被るとか穴を掘って入るくらいしか残ってないのではないか――?

 こうなったら坊主頭に刈るかな、などと思っていたら、


「お前が扇いでいるそれは何だ? 布切れか」


 サリエラートゥの呼びかけが静寂を破った。彼女の指差す先には、五枚重ねた綿製の布があった。右手の中に握っていたそれを無意識にうちわ代わりにしていたらしい。


「紙の代わりだよ」


 と、久也は答える。知識や語彙の吸収を早める為に、仕立屋から余った布を貰って、黄土オーカーでメモを記すことにしている。


「紙?」


 何故ならこのクニには紙どころか文字という概念が無いからである。


「色々書き留める為だよ。えーと、文字って言うか……絵で、思ったことや起きたことを残すんだよ」

「出来事を残した絵なら洞窟にあるじゃないか。お前が書く必要など」

「それは集落や神様といった規模の歴史だろ? そういうのだけじゃなくて、自分が忘れたくないものも書くんだよ」

「忘れたくないことは覚えていればいいだろう」


 理解できなそうにサリエラートゥが眉根を寄せる。


「人間が覚えられる量には限界があるんだよ。他にも、人に伝えたいこととか書けるし」

「口で伝えればいいんじゃないか」

「自分が死んだ後にも残す場合は?」

「それも、誰かに伝えてもらえばいいはずだ。そうやって先祖から伝承が受け継がれてきた」

「……それはいいんだけど、正確さに欠けるからな」

「せいかくさって何だ? ヒサヤは相変わらずわけのわからないことばかり言うんだな!」


 知恵熱で爆発しそうな顔で、サリエラートゥが手足をバタバタさせた。普段の巫女姫の姿とは違う、ただの小娘みたいな反応になっている。忘れていたが、十代後半くらいの歳なのだった。


(面白い)


 久也は木にもたれかかっていた体勢から起き上がって、彼女に向き直る。


「遠い所の、会ったことも無い人間と言葉を交わすことができるんだ。自分の言いたいことを寸分違わずにな。それに会うはずの無い、過去や未来の人間とも自分の身に起きたことや考え方を教え合える。凄いだろ? 文字、それか記号ってのは」

「そんなものが無くても私は過去の巫女姫の名前や人となりを知っているぞ。先代のオビンナ、先々代キトゥンバ、三代前のイパンガ、それから四代前の………………」


 顎に手を当てたまま、サリエラートゥが黙り込んだ。そら見ろ、とは言わずに、久也は様子を見ることにした。


「四代前……ん? そういえば四代前のマヴルマは何かを残していたぞ。お前の言っているモノと同じような」

「残してたって? 記録!?」


 なんとなく胸が高鳴った。


「キロク……そうだ、記したモノの連なり……四代前の巫女姫、マヴルマは母親が遠い東の部族の出身だった。あの頃は東と交流があってな。東の民は粘土の中に変な記号を彫る習慣があった」

「く、楔形文字かな。まさかとは思うが」

「わからん。洞窟のどこかにまだ残っているはずだ。見るか?」

「見る。超見る」


 もう先ほどまでの億劫な気持ちが吹き飛んでいた。


「けどアンタの許可がないと滝には近付けないんだったな」

「それは主に集落の民の為にあるルールだ。濃い神力の前では体が急に大量に吸収しようとして、あてられるんだ。私が一緒なら神力はより適した器である『巫女姫』の方に引き寄せられる」

「避雷針みたいなもんか……?」


 久也はひとりごちた。


「異界から来たお前たちは神力を必要としない生活をしていたから、体もそれを吸収しようとしないはずだ」

「なるほど。けど俺らも長くこっちで生活したら? 神力の影響を受けた食事や水を摂取しているし……そういえば神から得た力を『還元』するんじゃダメだって言ってたな。最終的には、生贄としての力も減るんじゃないか」

「さあ、それが実はよくわからないんだ。最後に生きた生贄が来たのは二十年前、私が生まれる前だったし、その時に来た男は集落からすぐに脱走したからな。そういえば、お前たちは歳は幾つになる?」

「俺は二十一で拓真が二十歳だ」

「既にそれだけの年数、それと最も成長の著しい幼少期を別の世界で過ごしたんだ。今更少し神力を体内に入れたところで、生贄としての効力はあまり失われないだろう……多分」

「そうか」


 喜ばしいことなのかそうでないのか、複雑な気分である。

 とはいえ、生贄として用無しとなれば、自分たちはただの集落民として働くことになるだろう。それももしかしたら、雄としての役割を果たして子作りをしろなんて言われかねない。見たところ、早くて十五歳で家庭を築いている男たちもいる。


(これまた微妙な物思いだな)


 もしや二十年前の男が脱走したのは、そんな所帯染みた生活よりも、何か違うことを始めたかったからかもしれない。

 なんてふと考えながら、久也は洞窟へ向かう為にベンチを立ち上がった。

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