E. Denouement

33.moralization

 意識が戻った後、石の破片に埋もれているのだと自覚するまでに、三十秒はかかった。

 顔面に当たる土の感触。背中や脚の裏を潰さんとする硬い重み。こめかみ辺りでは生温かい液体が髪を濡らしている。

 とりあえず生きているのだということだけはわかった。


(揺れ、終わった……?)


 五体満足と断じて良いのか――何かまだ違和感が残るが、それ以上考えるよりも先に拓真は体勢を正そうと試みた。

 ダメ元で起き上がろうとする。しかし筋肉が軋むだけでびくともしない。

 背中にかかる石の欠片は絶妙に重なり合っているらしい。上から誰かが一個ずつ剥がしてくれない限り、容易には抜けられないようだ。

 と言っても左右に転がるくらいの余裕はあった。せめて仰向けになってみようと考え、今度はもぞもぞと動いてみた。腕などを擦ったり圧迫したりと地味に痛い想いもしたが、なんとか裏返ることに成功した。

 欠片の隙間から光が入り込んでいる。

 この空間はこんなに明るかっただろうか。松明の数が増えたとしたら、理由が気がかりだ。

 声を出してみた。


 ――誰か――


(ん?)


 再び違和感を覚える。


 ――誰か助けて。動けないんだ――


 何がおかしいのか、その時点で気が付いた。声を出しているつもりなのに、聴覚はさっきから何も認識できていない。声帯を損傷している可能性もあるが、そうではないだろうと率直に思った。

 何も認識できていないけれど、静寂に感じているのとは違う。さまざまな音が反響して混ざり合っていて、むしろうるさい。洞窟の中の音響環境のせいかもしれないし、頭を打ったせいかもしれない。たとえるなら、酒の飲みすぎで何もかもが大音量に聴こえ、耳の中で「ザー」って音がずっと続いて人の話が聴き取りにくくなるあの現象だ。

 とにかくこれでは個別に声や音を識別するのは不可能だ。


(頭を打ったせいなら、おれの声は誰かに届くはずだけどなあ)


 応答が無いのは何故なのか、そのことに意識を向けて――


「はなせ!」


 一人の声が耳に届いた。この低くもハスキーな響きは、ナマユニに違いない。随分と切迫した声音だ。

 耳をそばだてる。続いて、他の仲間たちの怒声が聴こえた。その間には聴き慣れない喚声が混じっている。


「貴様ら、どうする気だ!」

「――――――――――――」

「死しても我らの同胞だ! 連れて行かせはしない!」

「――――!」


 何やら仲間が敵とやり合っている。敵方はマクンヌトゥバ語を話していないので、何と答えているのかは理解不能だ。仲間たちとの緊迫した「会話」が実際にかみ合った会話であるかも疑わしい。どちらにせよ、落ち着いた対応でないのは明らかだった。これでは自分の呼びかけが誰にも届かなくて当然だ。


 ――埋もれている場合じゃない!


 脆そうな箇所を求めて両手で破片を探った。集中力が途切れ、適当に殴った。押した。蹴った。

 ふいに、ボコッ、と手応えがあった。崩れた一点を肘や膝で殴り、ようやっと出ることが叶った。


すすと血の臭いだ)


 明るさに目が慣れるまでに繰り返し瞬く。

 至るところで戦闘が勃発しているが、敵の数の方が二倍以上多い。仲間の戦士たちは防戦に徹している。

 敵の発する舌打ちや言葉のイントネーションの雰囲気は、過去に聞いたンドワンゲレ語と一致している。そして比較的明るい肌色、身体中に通る太い棒状や輪状のピアス――北の部族である。

 人魚たちが言った通り、トンネルは本当に北へと通じていたのだ。

 どうやら意識が無かった間にこの空間は占領されてしまったらしい。自分たちが持って来たたったの二本の松明なんて必要ないくらい、壁や床に設置された数々の燭台からも炎が上がっている。

 最初に受けた印象よりもこの場所は奥行きがあったようだ。死体の並べられていた向こうには五段ほどのちょっとした上り階段に囲まれた盛り上がったエリアがあった。一辺約五メートルの正方形、その上には長い卓が置かれている。中心の四角い窪みは黒い。まるで底なし穴の如く、黒い。


(って、あれは!)


 合点が行った。

 祭壇の間だ。滝神への生贄を捧げる儀式と同様に、神官の役割を担った人間が内蔵を取り出して穴に落とすのだろう。

 ただし、捧げられるのは滝神タキガミさまの御座おわくにからかどわかされた集落民。自己中心的かもしれないが、どこの誰とも知れない自殺者が捧げられるのとは意味合いが違う。

 拓真は視界の中を余すところなく凝視した。

 北の部族たちが数人ずつで死体を運び去ろうとしているようだった。そこに、滝クニの仲間が追いすがる。

 祭壇の上の卓の傍に人影が揺れている。


「させない!」


 ここから祭壇までに最も邪魔の少ない道を見定めて、拓真は疾走し出した。そこら中で繰り広げられている乱闘の隙間を三回ほど縫った途端、風切り音が耳朶を打った。

 離れた場所から誰かが矢を放ったのだ。矢は耳を掠っただけで、後ろの壁に突き刺さった。反射的に硬直した。背後からはガラガラと嫌な音がする。


「いけません!」


 強く突き飛ばされた。

 地面に肩を打った衝撃で我に返る。二度目に破片に埋まらずに済んだ恩人を探す。

 庇ってくれた相手は代わりに埋もれていた。這い寄って掘り出すと、彼の出血の量に驚愕した。

 呼吸も脈拍も無い。打ち所が悪かったのか、先刻の拓真と違って致命傷を負ったようだ。

 頬に母斑のある若者である。


「ちょ、嘘……まだ名前を憶えてなかったのに……君の家族にどうやって謝れば……」


 悔しいのに涙が出てこなかった。

 皮膚を突き破らん勢いで両の拳を握りしめる。すぐ傍では敵が数人、じりじりと迫っているのをぼんやりと認識した。意気消沈しているあまり、動く気になれなかった。


「ルング=ワ! その者の名はルング=ワだ。どうか憶えてやってくれ。家族には、立派に戦士の務めを果たしたと、お前が直に伝えるんだ」


 そんな時、頼もしい気配が通り過ぎた。


「バロー!? じゃあまさかそっちの道もここに繋がってたの」

「どうやらそのようだな。遅れてすまなかった」


 集落最強の戦士・アレバロロは、無駄口を叩くことなく次々と敵を薙ぎ倒していった。

 アァリージャやキチャンガチュイ、心強い味方が次々と奥の通路から湧き出る。それでも数での不利は変わらない。


「やめろおおおおおお」


 ナマユニの悲痛な叫びが周りの喧噪から飛び出て響いた。

 悲鳴のした方へ素早く振り返る。

 暴れるナマユニは三人もの敵によって取り押さえられている。彼が必死に階段を上ろうと足を踏み出し、腕を伸ばす先には――


「――その子は!」


 走り出した。間に合わないと、心のどこかでは知っていながらも。

 走り出さずにはいられなかった。

 長方形の卓に、小さな身体が横たわっている。

 すぐ傍で揺らめく人影が、腕を振り上げた。

 振り上げた腕の先には鋭利そうな刃物が握られている。


「まだ、生きてるんだよ……!」


 拓真の叫びもやはり、人影には届かない。

 刃物は少女の胸を突き破った。

 小さな身体は何度も何度も激しく痙攣し、やがて力尽きて静止した。





 それから何をしたのか、はっきりとは憶えていない。

 がむしゃらに闘った。

 立ちはだかる北の部族の民を切り、殴り――他にもたくさん、一文では形容できないような汚い暴力を振るって捻じ伏せた。死人も出たかもしれない。しかし敵も同等の殺意を抱いて向かってきたのだから、気にするまでもないだろう。

 満身創痍で、祭壇の階段を上るまでに至った。

 とてつもなくリアルな悪夢だと思った。


 ――そうだ、夢に違いない。だって人間が、紫色に光るわけがないから……。


 そんな現実逃避も無意味だった。

 この血と腐りかけた死体の臭いが、足にねばりつく生温かい血液の感触が、夢であるはずがない。これだけ不条理が多い世界では、祭壇に佇む神官が淡い紫色の輝きを放つくらい、どうってことはないだろう。

 神官はあれからも何人かを捧げていた。残すところ後一人らしい。ついには止めることができなかった。


「も……やめて、すぐる、にいちゃん……」


 神官役の男はチラリとこちらを一瞥したが、まるで拓真の登場が大したことではないかのようにひとりごちた。


「おお、おお、みなぎるぞ。我が民でも試してみたが、滝神の神力を内包した人間を精霊に捧げた方が爆発的な力を得られるようだな」

「北の部族の民まで殺したの……? 信じて、ついて来てくれた人たちを……」

「この儀式は悪天候の日にまとめて執り行ってこそ最大限の効果が得られるもの。精霊の加護で今日まで死体を保ったのは正解だったな」


 こちらの話は完全に無視されている。

 が、死体が置かれていながら仲間たちが死臭に気付けなかったのはそういう理由か、と納得した。


(きっと最後の一人を捧げれば儀式が終わる。止めなきゃ――)


 力を振り絞って踏み出した。

 次の瞬間に首筋に悪寒が走る。薙ぎ払われた槍を、サッと身を屈めて避けた。一人の細身の男が下の段で目をぎらつかせているのが横目に見えた。機を伺い、次の動きを待つ。

 ヒュン、と突き出された槍を絶妙に避けて、拓真は槍の持ち主に足払いをかけた。転んで横になったところで、槍を奪う。棒の部分で何度か敵を殴って沈めた。

 突然、耳鳴りのような、サイレンのような、容器の中の空気が圧縮されてまた伸ばされるみたいな、妙な音が洞窟内に響いた。

 次いで、高笑い。


「ははははは! やった! うまく行ったぞ! 貴様らはこの腐った世界で朽ち果てるがいい! 私は帰る! これでやっと帰れる!」


 内容を飲み込んで、戦慄した。

 緩慢な動きで首を巡らせる。祭壇の真上には何か、細いひし形のモノが宙に浮かんでいた。周りの風景を裂いて穴を作ったような真っ白い亀裂。平たく言えば異世界へのワームホール。ベタな外観だからか、他の可能性は考えなかった。

 そしてこれを開く為の代償が、一体何人の命であったのか――!


「間違ってる……! こんなの間違ってる!」


 そう叫びかけると、ようやく、藍谷英だった人間はこちらに目を合わせてきた。

 紫色の靄がかかったみたいな、濁った目だ。


「ふん。この世界に善悪の概念などない。あるのはせいぜいペイバックの概念だけだ。滝の神を崇める集落でも、人殺しを禁忌とする掟はあったか? 無いだろう? 人を殺さないのは、報復されたくないからだ。『人として正しくないから』ではない。大事なのは己と家族と同胞だけだ。私は順応したのだよ、拓真。この世界の価値観に合わせてやった」

「違う! それは順応じゃなくて、自分の中にあった道徳観から逃げる為の口実だ! 善悪の概念が壊れたのは英兄ちゃんの方だよ……!」


 全力で食い下がったが、英は聞く耳持たないようだった。


「もはやどうでもいいさ。さらばだ」


 何かが吹っ切れたみたいな後ろ姿に、憎悪さえ覚えた。追いかけて手を伸ばしたが、この期に及んでまだ邪魔が入る。飛びついて来た敵を払っている間にも、英が亀裂に触れるのが見えた。

 掃除機みたいに、ズズッと吸い込まれて彼の姿は消えた。

 だが、亀裂は劇的に輝き出して消えたりはしなかった。

 あくまで堂々と存在し続けている。

 普遍の現象のように、宙に浮かんだまま蠢いている。


(ダメだよ、英兄ちゃん。今その格好で現代日本に戻ったって、ただの不審者として逮捕されるよ)


 血まみれ・ほぼ全裸・大量のピアス――どこを取っても「撮影です」と誤魔化せるレベルをゆうに超えている。などと、ひどく間抜けな思考が脳裏を過ぎった。

 もう一度、白い亀裂を呆然と眺める。


(あれに触れば、帰れるのかな……元の世界に)


 一抹の切望が胸の奥で煌めいた。戻れるだろうか。あの平和で、忙しないながらも楽な生活に。

 濁流のような感情と思考の波に耐え切れずに腰が抜けた。

 思い悩み、迷い、それすらも満足にできずに、笑った。

 笑いながら泣いた。


 ――もうどうすればいいのか全然わかんないよ、久也……。

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