27.酷な駆け引き
これ以上に恐ろしい想いをする日は来ないだろう。
脳内に残存する冷静な部分が、根拠なしにそう確信していた。やはりその冷静な部分が懸命に働き、逃げろと何度も何度も危険信号を全身に送っている。
それでも闇雲に逃げるわけには行かない。穏便に済ませられるかもしれない局面を悪化させるかもしれないし、逃げる方向だって今のところは見当がつかない。
乾いた唇を舐めて潤し、息を殺した。
(にしても臭い。超絶臭い)
尿、即ちマーキングの臭いだ。嫌な予感が膨張する。よく憶えていないがマーキング行為は種の中ではどちらかというと雄の方がよくやっている気がするからだ。何であっても雄の方が身体が大きくて凶暴だと推定される。
マーキングをしたのなら件の動物は縄張り意識が強い。つまり気付かれたら、一体どんな行動に出るのか知れない。向こうが本来人間を食べようとしない小柄な種だとしても、軽視できない。
なるべく動かずに拓真は目を凝らした。徐々に暗さに慣れてきたのがありがたい。
まずは前方の景色を見定め、左にある谷の側面の岩の輪郭をなぞる。
狭くも、恐ろしく深い谷だった。落ちてきたスタート地点があまりもの高さの所為で全く見えない。あちこちに生える木による視界の翳りが多すぎるのも難点だ。
(どうしようもなさすぎ)
拓真は肩や胸に巻いた縄のハーネスが途切れたのを知っている。谷の深さを確かめる為に少しずつ降りて、キリの良い所で仲間たちに引き上げてもらう予定だった。それが急過ぎる傾斜に不意をつかれて縄が切れてしまったのだ。
事の発端は、谷の向こうへと繋がっていたはずのつり橋が切り落とされていた、その不吉な発見にあった。切ったのは北の部族で間違いないだろう。この谷を越えねば彼らの領域に行き着けない。同時に、彼らとて滝神さまの御座す郷を再び訪れる術はなくなるはずだ。
もう人柱を集め終わったのだろうかと思うと、居てもたっても居られなくなった。
――攫われた人たちの生死は――?
すぐにでももっと情報を集めなければならないと思った。
それまで襲い来る多少の苦難は乗り越えればいい。
(案外小型の動物だったりしないかな……)
しゃがんだままの体勢は辛いが、堪えた。急な動きや音を立てるのだけは避けねばなるまい。
ただの希望だった。現実逃避でもある。今しがた指で検証した足跡を大型と勘違いしただけだと、思い込もうとしている。
そして視線を右へと巡らせる。
ふと暗いばかりの視界に新たな色彩が認められた。
脳は急遽その像を処理した。
「ひっ」
もはや息を飲んだ音というよりもしゃっくりに近かった。
声を出すつもりは決して無かった。
生理現象。それだけ突飛で大きな音を立てずにいられなかったのである。
(ひょ、う?)
豹。
居る。
右斜め五メートル先の木の上に。
黒い斑点に覆われた見事な肢体より何段か下の枝には何かが引っかけられているみたいな陰があった。よく見れば食べかけの大型動物の屍だ。
巨大なネコは眠っていたところを邪魔されたかのように億劫そうに首をもたげて瞬いている。
そこで拓真の呆然とした時間が終わった。
(さ、さっきの、落ちてきた音で、起こし、起こしちゃったのかな)
思考回路が躓きに躓く。
ガタガタとした震えが指先に始まり、全身を浸食してゆく。
(死体、ガゼル系かな。ヒョウってせっかく狩った獲物を横取りされないように、木の上に引きずって隠すって、本当なんだ)
その知識を思い出したのも束の間の現実逃避だった。
(どうしよう。すごいなあ。どうしよう。あんな大きい物を枝の上に引きずれるくらい強いんだ)
どうする。五メートルではいくらなんでも近過ぎる。走って逃げ切れるとは夢にも思わない。
槍を投げるべきか。
人間の発達した脳の最も原始的な部分に残る条件反射。選択肢は二つに一つ。
ふたつに、ひとつ。
――戦う? 逃げる?
(逃げられるわけない逃げられるわけない逃げられるわけない逃げられるわけない逃げられるわけない……)
目の前が再び真っ暗になった。
逃げられるわけない。でも戦うのは怖い。コワイ。シニタクナイ。
豹は喉から低い警告の鳴き声を発した。
そして小早川拓真は全力疾走していた。捻挫した足の痛みは意識から除外して。
脳のどの部分がその判断を下したのかはわからない。彼は獰猛な大型ネコに、向かって、走っていた――
それからは奇跡以外の何物でもなかった。
ゴオッ、と豹が咆哮して跳んだ瞬間、運良く拓真は振り仰いでいた。
(来る!)
元々優れていた動体視力が、恐怖から洗練された集中力により、最高の精度に極まっていた。
だが肉体の反応速度は劣る。
覆い被さる大きな陰。
流れる空気から熱と重量が伝わった。
避けろ――――!
「いっつ!」
助走をつけたスライディングで精一杯横に逸れたつもりなのに、右肩は強烈な打撃を受けた。
怪我の具合を確かめる余裕など欠片も無い。起き上がる余裕も無い。
豹は反転して再び飛びかかってきた。
なので拓真は左手を全速力で動かした――
どぶり、と鈍い音と共にそれは刺さる。
「ロオオオオオン!」
怒りと苦痛の咆哮が真上から響く。
いつの間にか手に握っていた槍の穂先は、十分な手ごたえを得られたようだ。
(はやく、はやく。どっか行けっ! 行け! 行って下さいお願いします!)
血飛沫の熱も槍から伝わる痙攣も不快だったが、目を閉じることはできなかった。
ただ祈るように左手に力をこめた。両手が使えれば良かったが、右腕が全く動かないのである。飛びかかられる拍子の重力が無ければ、きっと的に刺さらなかっただろう。
温かな血液が槍から滴って拓真の手を、腹部を濡らしていく。濃厚な鉄の臭いに眩暈がした。
「おねがいです。見逃して下さい。おねがいです」
願いはどうやらどこかへ通じたらしい。
豹は噛み付いたりせずに後退している。どこか怯えた様子である。人間を怖れを見せるからには、何か苦い思い出があるのかもしれない――。
かと言って、逆上してこれまでの倍以上の攻撃性を以て再度襲ってくる可能性は消えない。手負いの動物は常に要注意だ。
(たすかった。逃げよう)
なんとか立ち上がり、豹の双眸が浮かび上がる方角の真逆を進んだ。最初はふらついていた足元も、徐々にちゃんとした走りに変わる。
二者択一であったはずなのに、結局自分は逃げようとしたのか、戦おうとしたのか、拓真自身にも定かではなかった。
(滝神さまのご加護だったならマジありがとう過ぎる。おれの内臓で良ければいつでも差し上げるから)
ひたすら走った。行き先はわからない。わからないが、離れなければならなかった。
致命傷を負わせられたとの直感はあるものの、奴が完全に息絶えるまでにまた襲って来ない保証などどこにもなかった。
(噛まれたりしたら、終わる。傷薬も失くしちゃったし)
どう考えてもこれ以上の怪我からは持ち直せる気がしない。それ以前に、現時点で抱えている傷も、このまま放っておいて平気だとは思えない――
挫いた方の足から急に力が抜けた。
「わっ」
そのまま尻餅付いた。驚くべきことに、着地した地面は雨に濡れた草地などではなく、たっぷりと塗れた泥土だった。
しかもいつの間にか辺りは大分明るくなっている。落ちた地点よりも谷が浅くなっているのか、陽の光が此処まで入り込んでいる。
――その程度で驚いている場合ではなかった。
何度目かの現実逃避で、目線は正面ばかりを避けて周囲を彷徨っている。十秒もすれば諦めもつき、拓真は恐る恐るそれを認識した。
三メートル前にまたなんとも巨大な生き物が居る。
地を這う四本足の爬虫類。頭の上に寄った小さな目と凶悪そうな顎、口からはみ出る尖った歯。その胴体はずっしりと太くて重そうだ。すぐ後ろの水場から這い上がってきたのか、独特の硬そうな皮が濡れて見える。
コイツには、動物園ですら出会えた記憶が無い。ネットの写真かドキュメンタリーで見知った程度の付き合いだ。恐竜の時代より以前から種が続いて来たと言われる、旧き動物。
――ワニ。
強いて言うなれば見た目はナイルクロコダイルに似ている。
無意識に、唇の隙間から乾いた笑いが漏れた。
「死のう」
拓真は自分が何を口走ったのか自覚していなかった。
それだけ気が動転していた。
今から体験するであろう数秒、数分、それとも数時間の恐怖に耐えなければならないくらいなら、もうこの時点で人生を自ら終わらせようという考えが過ぎったのだ。
水分不足気味でなければ既に失禁していた。
(もう、なんなの)
これ以上に恐ろしい想いをする日は来ない、だと? どころか、同じ日に立て続きになんてザマだ。
嫌な遭遇ばかりだ。
拓真が戦意喪失したそんな時、本日で最後のビックリ猛獣が姿を現した。
ごぽ、と水場から泡が立ったかと思えば、海草の塊に酷似した黒い山がぬっと水面から突き出たのである。
それはどう見ても人間の髪の毛――或いは頭頂部――にしか見えないのだった。
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