28.あまりに不味いので

 怪物は「人」の形によく似ていた。

 似ているが、へその下からはねずみ色の鱗に覆われているからには、明らかに別物である。しかも体は集落一体格に恵まれる戦士アレバロロと比べても骨格が一回り大きい。

 怪物は筋肉が盛り上がる腕で地の上へと這い出てきた。下半身に足はついていない。蛇のような長い尾から、所々ヒレが流れるだけだ。

 その黒い肌の醜女しこめが黄ばんだ歯を見せつけるようにして口を開ける。


「ま、みわた……」


 拓真は思い当たった呼び名をうわ言のように呟く。マミワタ、河に巣食う人魚――。

 ついさっき生きることを諦めたはずなのに、まだ往生際が悪く、奥歯が恐怖に音を立てている。人魚の凶悪な姿から目が離せない。

 ワカメみたいな長い黒髪が女の顔をほぼ覆い隠しているが、くすんだ橙色の瞳が真っ直ぐこちらを見据えているのはわかる。

 女の黒い腕から十センチ近い太さを誇る大蛇が身を乗り出した。

 刹那、信じられない速さで足首が捕らわれる。


「嫌だッ!」


 水の中へと引きずり込まれている。なんて圧力だ。噛むよりも締め上げるタイプの蛇か!

 がむしゃらに抗った。泥の中に指を、爪を立てた。

 ずるずると指が泥を抉る。

 視界の端で、人魚に遠慮して後退するクロコダイルの様子が窺えた。どういう上下関係だよと突っ込みたいがそれどころではない。

 脛やふくらはぎに水が触れた。危機感が募る。


「くっそ」


 少しでも引っ張られる速度を緩めたい。動く方の腕で近くの石へと手を伸ばした。しかし石は濡れて滑らか過ぎた――取っ掛かりを見つけられずに指先が表面をむなしく滑る。

 イボだらけの醜悪な手が、拓真の肩を握り潰さんばかりの力で掴んだ。

 拓真はいつの間にか喉から絶叫を発していた。

 その音が途中から水によって遮断される。


 ――深い河だった。


 全身を撫でる生温い水が更なるパニックを誘う。


(やばいやばいやばい)


 叫ぶなんて無意味な行為に及んでしまったがために、溺死エンドへの距離が一気に縮まってしまったのだ。周囲に散る気泡を悲痛な心持ちで見送った。

 蹴っても暴れても足に巻き付いた蛇の力は強まる一方である。

 それでなくともこの状況――

 目の前に人喰い人魚の膨れた面があった。奴は自慢げに口を開いて不揃いの歯を露にしている。

 無駄な抵抗だとわかっていても、拓真はその下顎を殴ろうとした。人魚は向けられた拳を容易く避ける。構わずにもう一発殴りかかろうとした、その時。

 刺されたような激痛が肩にもたらされた。自身の貴重な血液が視界を赤く染める。


(なんなんだよー!)


 振り返る前になんとなく予想がついていた。

 敢えて振り返ってみると、自分の人生がついに終わるのだという疑いようのない状況が迎え入れてくれた。

 人魚は一匹ではなかったのだ。それどころか、この場所だけで十匹近く集まっている。

 たくさんの橙色の視線に射抜かれて、疲れと諦めが手足を満たした。全ての抵抗を止め、ダラリと四肢を意識下から解放した。


(溺れながら食い殺されるエンドか……むごいなぁ。ごめん久也、おれもうここまでみたい)


 運命共同体である青年を真っ先に思い浮かべ、それから遠い故郷での祖父母にも心の内で謝っておいた。あまり心配していなければいいが。祖父は今でも毎朝テレビ観ながら太極拳を嗜んでいるのだろうか。祖母は今でも日替わりカレンダーにプリントされた名言を毎日ノートに書き留めてから前の日のページを破り捨てているだろうか。


(サリーも心配してくれるかな。ユマちゃんの料理もう食べられないのは悲しいな……)


 己の血に世界が染まる中、集落で出会った人間を順に思い浮かべ、今日まで過ごしてきた日々に想いを馳せた。それは心が温まる時間でもあり、同時にたまらなく切なかった。


(……ん?)


 ふと気付く。


(おれを捜しに戦士たちも谷を降りるよね、きっと)


 今度は同じ失敗を繰り返さないように縄をもっと慎重に扱うだろう。豹に遭遇しても余裕で倒せるかもしれない。その後は? 水辺は、集落の民にとって鬼門。それでいてこの人魚の数だ。

 追って来られると危ない。

 かと言って地べたを這って虫の息になってでも彼らに警告を伝えに行ける可能性はあるだろうか。もう気が遠くなってきているのに――

 なんと、そこで異変が起きた。

 最初に肩を噛まれて以来、あちこちに噛み付いてきていた人魚たちが、身を引いていたのだ。互いの姉妹にでも順番を譲っているのかと思えば、そうでも無さそうだ。人魚たちは各々苦痛の表情を浮かべている。


(よくわかんないけど、チャンス)


 蛇も離れている。拓真は重くなっていた瞼を必死に見開き、泳ぎ始めた。

 まともに動くのは腕と足が一本ずつだけなのに、かろうじて上へと泳ぐことができた。不思議と誰も妨害しない。


「ぷはっ!」


 ただの空気がこれほどまでに美味しいと感じたことはこれまでに無かった。素晴らしい。空気とはなんて素晴らしい物なのだろうか。

 喘ぎながらも肺を満たし、岸を目指した。

 身じろぎひとつしないクロコダイルの横で座り込む。逃げたいのに、逃げる力がもうどこにも残ってなかった。


「げええええええ」

「ぎいいい」


 水から次々と顔を出す人魚たち。その奇声にぎょっとした。


「えっ! 何!?」


 人魚たちは赤い汁をペッペッと吐き出している。奴らの口内の液と自分の一部だった肉が混ざったナニカであることは考えてはいけない。吐き気がするので。


「不味い」


 低くしゃがれた声がそう呟いた、ように聴こえた。


(マクンヌトゥバ語じゃなかったよね?)


 耳が拾った音節と、脳が読み取った言葉に関連性は無かった。無いと判断できたのは、自分の知らない言語だったからだ。言葉を形成するとはまるで思えない音――数種類もの舌を鳴らす音や、「キィキィ」との甲高い鳴き声や、喉の奥からの威嚇音みたいなのが混じっている。

 ならばなぜ意味が通じたのか。


「やはり、滝の神が染み込んだ肉は不味いの」

「喰えたもんじゃないわい」

「不味い不味い」


 文句の羅列だ。拓真は反応に困った。


「薄味じゃが、ぬしは滝神と縁があるのじゃな。白いのに」

「白すぎるのに」

「異界の人間のくせに」

「珍しい異界人の肉にありつけると思うたのによ」

「噂だけは聞いていたが、実物は想像以上に白いのう」


 聞き流している内に段々と拓真は言いがかりに返事をしたくなった。なので一言だけ漏らした。


「はあ、すみませんね」


 人魚たちは一斉にこちらに視線を注いだ。

 よく観察してみると、人魚たちは手に六本ずつ指が生えているようだった。どうでもいい発見である。


「謝っても許さぬぞ。ああ、不味い。この後味が半日は続くと思うと、ああ」

「半日ってすごいね。ねえ、なんで話通じるの?」


 好奇心が高まって、つい訊いた。

 滝神さまのおかげで助かったとわかった以上、気が緩んでしまっているのだろう。それに彼女らの口ぶりだともう食べられる心配は無さそうだった。


「わらわたちがぬしと話したいから、話せるようになった。それで十分であろ」

「いっやー、そんなノリで済むなら翻訳者とか要らないよね」

「いらぬわい。ぬしは阿呆じゃな」


 ぎょろりと睨まれて、拓真は少しだけ怯んだ。しかしせっかく命拾いしたのだ、情報を引き出すくらいはしたい。めげずにまた話しかけた。


「えっと……人間の肉が好物って本当だったんだね」

「わらわたちは人間の肉が好きじゃが、人間だけじゃないぞい。地の上で育った肉はどれも美味ぞ」

「滝と縁が浅ければ浅いほどになあ。滝の神はわらわたちには毒じゃ」

「へえ、そうなの」


 もしかしたら、英が人間の餌を持って人魚たちと交渉したとは限らないのか。彼の人間性の中に良心がまだどこかに残っているのではと期待してしまう。


「ほれ、ちょうど美味そうな肉が来た。ああいうのも好きじゃぞ」

「え?」


 拓真は指差された方向を振り返り、数瞬ほど思考が停止した。

 二十五メートルほど先に既に乗り越えたつもりでいた試練が舞い戻ってきていた。鮮やかな緑色の茂みの中から、黄褐色と黒い模様の毛並がのぞいている。さっきのヒョウが遅れながらも追って来ていたのだ。

 おそらく腹部の怪我からは鮮血が滴り続けているのだろう。放って置いても力尽きるまで間もないはず、そう自分に言い聞かせる。


「そうじゃ、ぬし、あれを狩れ」

「ちょ!? もう一回あのお方と戦えって!?」


 問い質す声がうわずった。何故突拍子もなく無理難題を振り掛けられなければならないのか。


「できぬのなら、ぬしはワニのエサじゃ。選べ、あれに喰われるか、ワニに喰われるか」


 人魚の群れは揃って不気味な笑い声を立てている。そこに口が裂けんばかりの笑顔が添えられる。背筋がゾッと冷える光景だった。


(理不尽だなあ!)


 奴らは拓真にこの場を逃れるだけの体力が残っていないとわかっていて弄んでいるのだ。要望に応えたところで見逃してくれる保証だって、きっと無い。


「どっちも無理だって」

「両方同時に喰われるという道もあるぞい」

「…………あちらのネコさんとじゃれ合わせていただきます」


 深く考えたわけではない。単純な距離の問題だ。まだちょっと離れている豹の方が比較的怖くないような気がする。


(止めを刺すのかぁ)


 道徳について考えている暇は無かった。やるかやられるか、命のやり取りは今も続いている。

 ボロボロの身体に鞭打って、ゆっくり立ち上がってみる。コン、と足が小気味のいい音を立てて何かに当たった。目線を足元に落とすと、そこには自作の投槍器アトルアトルが二本の槍と共に落ちていた。

 きっと先ほど尻餅をついた拍子に落ちていたのだろう。拓真は誠心誠意、神に感謝した。


(これならいける。チャンスは、たったの一度だけど)


 槍が二本あっても、一本目を外せば二本目を投擲する機会など来ない。拓真は己の運も能力も過信していないし、手負いとはいえ野生の豹を過小評価する気も無かった。

 じっと豹を見つめている内に、向こうが茂みから踏み出てきた。歩みは随分と緩慢で苦しそうだ。

 拓真は投槍器に槍を設置して頭上に構えた。


(ごめん)


 今更謝っても仕方がない。罪悪感は残っても、絶対に目を逸らしたり瞑ったりしてはいけない瞬間だ。

 豹が走り出した。物凄い威圧感だ。


 ――怖気づくな。眉間を狙え!


 何百何千回と練習してきた動作を繰り出した。

 槍はほとんど狙った通りの軌道を辿ってくれた。だが最後の最後で豹の動きに誤差があったのか、槍は眉間の代わりに眼球を貫いた。


 ――断末魔が響く。


 心臓が踏み潰されていると錯覚するような、悲痛な咆哮だった。耳を塞ぎたい衝動を堪えた。

 再び静まり返った頃、拓真は重いため息をついた。奪ってしまった命に対する申し訳なさと感謝がない交ぜになる。


「これでご満足デスカ」

「うむ。ワニよ、取って来い」


 人魚たちは当然のように食物連鎖の最上位捕食者エイペックス・プレデターをパシらせている。末恐ろしい。


「君たち普段はどうやってごはん獲ってるの」

「ワニか蛇を行かせておる」


 人魚たちも岸に上がり、大型爬虫類の顎から豹を受け取っている。ペットの労働を労ってのことか、肉も一片与えた。

 この辺りからは動物番組の捕食映像がお遊戯に見えるくらいの凄惨な場面になった。ので、拓真は地面へと視線を落とした。目を逸らしたかと言って音や臭いは消せないが。


「そのヒョウさ、おいしい?」

「美味じゃぞ。滝から離れたこの地の水を飲んでいただけにな」

「結構大きいでしょ」


 人魚の一人が貪るのを止めてこちらを睨んだ。今のところ見分けられるだけの特徴も見当たらないので、この個体がリーダー格であるのかさえもよくわからない。手当たり次第に声をかけているだけだ。誰か一人でも話を聞いてくれるのならそれで十分有難かった。


「なんじゃ、その物言いは。何か報酬でも欲しいのかえ。エサの分際で図々しいぞよ」

「大したモノじゃないよ」

「ほお。言うてみよ」

「じゃあ遠慮なく。えっとね――」


 拓真は僅かの間を置いて、下唇を舐めた。

 欲しい物は情報に決まっている。


 ――派手に転んだからってタダで起きてたまるか。

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