29.奈落に通じる

 青年は、それが奈落の底だと信じて疑わなかった。

 底であるなら、上ればいい。そう考えが直結するのは当然だった。なのに最初の一歩を踏み出す勇気がどうしても持てない。

 元々青年はボルダリングを嗜んでいたので、高い壁を登る為の技術や筋力だって持ち合わせているはずだ。ロッククライミングに於ける「最初に石を掴むまで」に必要とされる心構えや洞察力がいかがなものかを熟知していた。

 だが彼は目前の道たりうる石の筋を分析し、その険しさを理解して怖気づいたのではない。それ以前の問題だった。先刻、橋から落ちた際に、高所恐怖症に芽生え始めたのだ。

 今や谷を見上げるだけで眩暈や動悸がする。

 降りしきる雨を凌ぐ為、他に成す術もなく、彼は岩の下に身を隠して丸まっていた。丸まって、震えている。奇跡的に怪我の少ない身体を抱きしめながら、浅い息を繰り返していた。


 ――無理だ。無理だ……!


 本来ならば活発で好奇心旺盛であったはずの彼は、混乱していた。自分に課せられた運命を恐れて、逃げてきた矢先にこれだ。無理もない。


 ――僕は、肉塊になんて成り下がりたくない。人間だ! 生きる未来はこの手で獲得する!


 そう決めて逃げ出したのに、既に心が押し潰れそうだった。潰れた心がどうなるのか、青年にはわからなかった。

 怯え震える自分が情けない。

 これからどうすればいいのだろう。周囲を探索して回る勇気もないのに。たとえ雨が止んだとしても、岩の下から出て行くのは恐ろしい。


 ――のぼる、だと?


 不可能だ。あの高さの岩壁を登り切るのに一体いかほどの時間を要するのか。途中で下を見ようものなら――いや、上を見上げることですら、心はきっと折れてしまう。想像しただけで泣きそうになる。

 彼は無意識に岩の壁を殴り始めた。


 ――あいつのせいだ……!


 何度も何度も壁を殴った。拳の痛みは感じない。

 現況は、果たして誰かの所為であったのか。さまざまな困難を経て記憶は曖昧となり、改ざんされかけている。一旦思い込んでしまえば真実はどうでもいいものだ。


 ――出てやる。こんな世界、絶対出てやる! どんなことをしてもだ!


 帰り方など微塵も見当が付かないけれど、それでも青年は血と涙を流しながら誓った。

 そうだ、もっと別の道を探そう。どれだけ時間がかかっても構わない。不条理などに負けてたまるか。這ってでも進んでやる!


 ――この憎しみが生きる原動力だ――!





「……マ、タクマ! おい!」

「ぶわっ!?」


 激しく揺さぶられて目が覚めた。やめてやめて、と揺さぶる本人に訴えかけ、揺れがやっと収まる。視界はその十秒後にクリアになった。


「よかった……。最初に見つけた時、死んだのかと思ったぞ。ヒサヤになんと詫びれば良いのか、本気で悩んだ」


 巫女姫サリエラートゥの美貌が間近にあった。質感たっぷりの黒髪が頬にかかってくすぐったい。眉間に思いっきり皺を寄せていても美しさは大して損なわれないのは、素直にすごいと思った。


「おれの落ち度だし、久也はこんなことでサリーを怒ったりしないよ」


 なぜかそんな風に弁解していた。


「ああいや。そういう問題じゃなくてだな。一体あの後何があった? 私が合流した時には皆慌てふためいていてひどかったぞ」


 巫女姫の背後には戦士たちが十五人ほど控えていた。その中には、かの三兄弟の心配そうな顔もある。


「えーと、イロイロですよ。聞いて下さいよお姫さま、もう、何十年分も疲れた感じ」

「まずは落ち着け。口調が大分おかしくなってる」

「あ、そうだね」


 拓真は深呼吸して起き上がった。辺りを見回し、記憶の断片と現在地を照らし合わせてみる。木々の生え際や岩の形からして、どうやらここは最初に落ちた地点と人魚と遭遇した河の中間くらいに思えた。

 次に、身体中の痛みがいくらか和らいでいることに気付いた。肩など噛まれた箇所の出血もすっかり止まっている。


「サリーが神力で助けてくれたの?」

「ああ、発見次第すぐにな。そうでもしなければ手遅れになりそうだった」

「そりゃーそうだったろうねー」


 自分でも吃驚するくらいのんびりと答えてしまった。見知った顔に囲まれた安心感からだろう。取り囲む仲間たちはと言うと、不審そうに見つめてくる。


「笑いごとではない。獣の痕跡があったぞ、遭遇したのか?」


 拓真と目線を合わせるようにしてアレバロロが屈み込み、訊ねた。


「うん。ヒョウとワニと蛇と人魚、で全部かな」


 何気なく応じると、戦士たちが色めき立った。


「ま、人魚マミワタ!?」

「信じられん。遭遇して無事で済んだなどと!」

「わあああ! ダメだ、彼はもう一生呪われてしまった! 姫さま、悲しいと思いますが離れて下さい!」


 他にもただならぬ動物を三種挙げたのに、集落民は人魚ばかりに注目した。


(ていうか最後の君! 「一生呪われた」とかヤメテくんない!)


 まだ名前を憶えていもいない、頬に母斑のある二十代半ばの男の喚声に少なからず動揺した。せっかく人魚に食されるのを免れたのに、後になって他にも不安要素が浮かび上がるとは。考えたくない問題である。


「落ち着け! 気持ちはわかるが、タクマの話を最後まで聞かずして、何の結論も付けられない」

「サリー…………結論って、おれを隔離するとかそういうんじゃないよね……?」


 さんざんな目に遭った後でのまさかの対応に、気分はダダ下がりだ。


「隔離? 必要ない。たとえ怪獣の牙や爪に穢された身であっても、滝神さまは必ず清めて下さる」

「な、なら良いんだけど」


 滝神の巫女姫が腰に手を当てて自信満々に答えるのに対し、拓真は苦笑しか返せなかった。やはり彼女も、穢されたと思っているのか……。


「では、詳細を話しなさいな、タクマ」


 常時穏やかなアッカンモディが珍しく両目を開いて言った。


「わかった。ヒョウとやり合った経緯は省くね。逃げ切ったつもりだった後のことから……」


 アァリージャの肩を借りて立ち上がり、拓真は己が経験した出来事と、聞き知った事柄をなるべく丁寧に思い出して語った。人魚が好きな食べ物をお代に、この世界の仕組みについて話してくれたこと。滝神が久也に言ったように、世界の境界を逆流する方法があること。それを果たすということは多くの人の犠牲を意味すること。

 話している間、サリエラートゥや戦士たちは時折相槌や文句を挟んだりして聞き込んでいた。


(でも、一つだけ許して)


 ひとしきり話し終えた後、拓真はため息をついた。言わないことは一つだけある。

 人魚から聞いた話と自身の体験を重ね合わせて、藍谷英がどういう心境で集落を逃げ出したのか、わかってしまったのだ。わかっても、話すことはできない。

 サリエラートゥたちにとって集落を去って結果的に当代の巫女姫を死なせた英は「悪」である。どういう風に説明しても、その解釈が変わるようには思えなかった。

 彼らの生活には生贄が必要で、これから生贄になりうる人間がどういう心持ちであるのかは、きっと共感し難いだろう。

 拓真の突然の沈黙から深読みする人はその場におらず、全員が各々唸りながら情報を咀嚼しているようだった。気を取り直して、続きを話した。


「それでね。あっちにトンネルがあるって人魚たちが言ってたよ」

「トンネル?」


 すぐ隣のアァリージャが期待を込めた声で訊き返す。


「そ。北の領域に通じてるってさ。英兄ちゃんは昔、そこを通って北へ逃げたんだ。そこにあるって知らなければ見つけられない場所にあるらしいんだけど」


 彼が何年もこの谷で独り生き延びながら掘り続けて繋げたトンネルだとは、今は言わないことにした。


「これで奇襲をかけられるかも」

「しかし相手も見つかるのを予測して道を塞いでいるのではないか?」


 アレバロロが疑問の形に眉を吊り上げた。


「その時はその時だ。奴らが橋を落としたからには我々を誘導しているという線もあるが、これほどの谷をわざわざ降りてトンネルに至るとは思わないだろう。人魚の助言が無ければ素通りしてしまうし、まさか奴らも我々が人魚と物々交換をするとは思うまい」

「確かに、本来ならば谷を降りようとはしませんでしたね。タクマが率先して闇に飛び込み、その直後に彼を助けるという目的が生じて、初めて我らは踏み出せた。敵方もこの展開は予想できないでしょう」

「兄者がそう言うなら間違いない! 行こうぞ!」


 サリエラートゥが賛成の意を表した後、アッカンモディとアァリージャがそれぞれ意見を呈する。アレバロロやその他の戦士たちの同意を得るにそれ以上の時間はかからなかった。そしてアレバロロはこう指摘した。


「姫さま、連れてきた戦力の内、まだ半数以上は谷の上に残っています。おいおい降りてくる者もいれば、決してその場を動こうとしない者もいますが」

「わかった。少しだけ待とう」


 その時間、三十分前後。谷を降りてくる人間と合流しつつ、戦士の何人かをトンネルの場所を確認しに行かせた。

 ラフィアパームの平べったい木々が何列も並んだ場所の奥に、大きな岩棚が潜んでいる。岩の隙間の深く狭い陰の中に、入り口があった。


「待って。おれが先に入る」

「タクマ、それは許しかねるぞ。お前はもう今日は十分働いた、アァリージャに行かせればいいだろう」


 巫女姫は即座に反対した。


「できればおれもそうしたいんだけど、一人分しか通れない狭さだったら、一番体格の小さい人が行くべき――」

「その理論で行くなら、私が行くべきであろう」

「姫さま、いけませんっ!」

「何がいけないと言うんだ。事実、私が一番肩幅も小さい」

「いけません、巫女姫はあなたさましかおりませんのだ」


 そのまま論争に発展した。

 拓真は喧噪に構わずに手を伸ばした。ひんやりと濡れた岩肌に、得体の知れないぬめりを感じる。

 奥からは切なげな水音が遠く響いている。


(英兄ちゃん……同情するよ。ううん、同調してしまう――)


 谷底で尋常ならぬ日々を過ごして、人が変わってしまったのだと、わかっている。

 彼はただただ、か細い正気を手放さぬように必死だったのだ。

 わかっていても、許すという選択肢はきっと何処にもない。女性をこの闇に誰よりも先に踏み込ませるのもあり得ない。

 何故なら――


 トンネルからは死の臭いが漂っていたからだ。

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