30.山なりに
「うげ」
仮眠から覚め、外の空気に当たろうと家から足を踏み出した途端、塞がっていたはずの傷口が開いた。鮮血がじわじわと流れ出て足元の小石を赤く染める。その様を眺めていると、もやっと不吉な予感が胃に広がった。
包帯を片手で巻き直すのは面倒だな、と心の中で毒吐きながら朝霧久也は空を仰いだ。
「やばそうな天気だ」
どす黒い雲が渦を巻いている。細い稲妻が一定間隔を置いて光っているようだった。
首を絞められていると感じるほどの蒸し暑さを、異様に冷えた風が吹き抜けてかき乱す。
(何か来るのか……?)
何か、とは一体何であろうか。暗雲を根拠にするなど馬鹿げている――そう笑い飛ばしたい自分と、拭い去れない漠然とした気味悪さを覚える自分は、同じ体に同居していた。
以前の久也はオカルトの類は信じない方だったが、今となってはすっかり考えが変わってしまっている。というよりオカルトが生活に染み込んでいる世界観の下で生きているのだから、拒絶のしようが無いのだ。
立ちすくんでいても嫌な予感は深まる一方である。こんな場合にどうすればのいいのか。巫女姫に相談したいと真っ先に思っても、彼女は遠出した戦士たちと合流する為に既に集落を発っている。一体いつ戻るのかは予想が付かなかった。
数分の間だけ、やり場のない不安を持て余した。
やがて足は勝手に歩き出した。目的地は決まっている。
(あ、待てよ。その前に)
家を囲む伸び放題の草をグシャリと踏みしだいた瞬間、忘れ物に思い当った。急いで家の中に飛び込み、散らかった床を踏み越える。枕の下に保管している、小物入れの木箱へと手を伸ばした。
箱の中には小瓶と筒。小瓶の中身は特殊な酒、大きめの筒には溶かした黄土が入っている。試しに瓶の蓋を開けて軽く中を嗅いでみたら、先日飲んだ時と同じ腐った樹木みたいな臭いが鼻を突いた。久也は思わず仰け反った。この分なら鮮度に問題は無いだろう。
それらは共に滝神に通じる為に用いる代物である。トランス状態を促す酒、神への呼びかけでもある全身に描かれる祝詞のような呪文を描く為の塗料。別に今は使うつもりは無いけれど、急に必要にならないとも限らない。
蓋を戻した小瓶と筒を懐に仕舞い込み、久也は歩み慣れた道を辿り始めた。
(静かな夜だな)
台地を降りる際――人口数百人の集落でありながら――珍しく誰ともすれ違わなかった。悪天候の所為かそれとも殺伐とした展開が続いた所為なのか、民の大半はできるだけ自宅に引き篭もっていたいのだろう。平時であれば夜遅くまで弾んでいるはずの、笑い声や歌声が聴こえない。
それでいて何故自分は住民たちに倣わないのか。雷光が無ければ周囲は真っ暗になっているような時刻なのに――
外を出歩こうと決めたことを後悔するような出来事が無ければいい、と切に願う。
*
とりあえず久也は何事もなく滝の前に着くことができた。日頃の雨により膨らみ上がった河は、夜にはその迫力が倍となる。なんとなく水の落ちる音が昼間よりも大きく響いて聴こえた。
いつもながらに見事に平衡感覚を奪う音であった。しかも激しい風の音や木の葉が擦れる音が水音に混じり込んでいる。
それなのに、虫や蛙の鳴き声はしない。
(居るのはわかってるんだけどな。声を潜めてるってことは、やっぱ何かヤバイもんが来るのか)
動物の勘は信用して然るべし。天気が崩れたら迷わず洞窟に逃げよう。
小走りになりかけたその時、突然の強風に飛ばされて水飛沫が顔に思いっきりかかった。運悪く口の中に入り、飲み込んでしまう。するとそのさっぱりとした味わいに驚いた。
「生水なんて飲めたもんじゃないと思ってたけど……結構美味い」
インドなどでは明らかに不衛生な河から水を飲んでも病気にかからないと主張する地域もあるらしいが、何故安全なのかと地元民に問い合わせたところ、「神聖だから」と返るらしい。もしやこの滝の水も、巫女姫の言う通りに「清い」のだろうか。少なくとも上流から降ってくる滝の水は確かに下流の穢れを洗い流せそうな気がする。上流に何があるのかまではわからなくても、何故かそう思えた。
(俺は感化されてきたのかもな。寄生虫もコレラも気にしなくなるくらいには)
洞窟の入り口まで駆け込んだ頃には、小雨が降り出していた。いつの間にかかなり気温が下がってしまっている。岩に腰をかけ、滝の水に手を伸ばした。指先で触れるか触れないかの距離で手を止める。そうしていると謎の安心感があった。
心が落ち着かないのは、天候以外にも理由がある。
(あいつら、うまいこと進んでるかな)
久也は集落を発った人間に想いを馳せた。朝あんなに殺気立っていた戦士の連中は、どこまで行ったのだろうか。後に出た巫女姫たちも無事合流できただろうか。
特にサリエラートゥが気がかりだった。
人の上に立つことを余儀なくされている少女。彼女の愚痴を一度聞いてしまった以上、気丈に勇敢に振る舞っていても心の奥底では責務に押し潰れそうになって怯えているのではないかと疑ってしまう。それはよく考えてみると結構失礼な見方だろうに、不思議と得心が行った。
だからと言って、傍に居ても何もしてやれないが。
「拓真も、変な正義感に駆られて自己犠牲に走ったりしないだろうな」
ありうると思うからこそ気が重くなる。そしてやはりその点に於いても、何も手助けしてやれることは無い。
適材適所と言う表現がある。己にこそできることを探すべきだ。そう割り切っていても、最近では探す気力が低下している。
(この俺が考えることに疲れるとは。らしくない)
立ち上がり、ちょっと渇を入れようかなと滝に頭を突っ込んでみる。冷たさに息を飲んだのは一瞬で、すぐに髪の濡れる感触、耳の周りを水が這う感触が快感にすら思えてきた。
「……――ちゃん、お兄ちゃん!」
ふと、必死な少女の声が全身を打った。どこから声がしたのかは知れない。
「何だァ? 朱音の幻聴が聴こえるなんて今日の俺は相当キてるな」
滝から頭を引き抜き、顔を右手で覆って嘲笑した。
耳に水でも入ったのだろうか。いや、入ったからと言って幻聴が聴こえたりはしないはずだ。
「幻聴? 違うよ! お兄ちゃん! こっち見て」
「……………………返事をした、だと」
素早く顔を上げた。時を同じくして、空がカッと明るくなった。
流れ落ちる滝の水のカーテンの中に、黒髪を左右にツインテールに縛った、中学生くらいの少女の輪郭が映し出されていた。しきりに揺らぐ媒体の中には、妹のあどけない顔、腰辺りまでの部屋着姿が確認できる。
「ふざけろよ」
遅れて雷が轟いた。
人は信じられない状況に面してしまうと、たまに怒りで応じるらしい。
そういえば拓真とアァリージャも向こう側の幻を見たと言うのだから、自分が見る可能性だってあると予測すべきだった。
「その噛み付きそうに不機嫌なカオ、やっぱりお兄ちゃんだ! なんで!? どこにいるの? 拓真お兄ちゃんも一緒? この前もチラッと窓に見えて――」
「窓? そういえば背後の部屋のアングル……今鏡に向かってんのか」
察するに、鏡や窓や水が映像を映し出す媒体であろう。まさかこの音声は水から出ているのか? そんなバカな。
「そうだよ。いきなりお兄ちゃんが映ってて吃驚した! すっごい心配したんだよ……お母さんも……」
「ストーップ! 今泣かれても頭撫でてやれないから。頼む」
手を挙げて、雪崩れ込むように想いを吐露する朱音を制した。言われるがままに少女は目を見開いて硬直した。
「う、うん。ごめんね」
「いや、お前の所為じゃない。怒鳴って悪かった」
「ううん。ねえ、ホントにそこどこなの? 岩しか見えないけど……お兄ちゃん、ちょっと痩せた? 失踪した後に何があったの」
「話せば非常に長くなるから今は無理」
どれくらいの時間こうしていられるのかがわからない以上、最重要事項を思い浮かべて早口に伝えた。
「朱音、母さんに俺からゴメンって伝えて! 色々やばいけど一応元気! 拓真もだ! それから――」
「やだ。自分で言ってよ」
ふいに朱音は頬を膨らませた。素直で愛らしい性格だったはずなのに、しばらく会わなかった内に人を困らせる術を覚えていたらしい。
薄れていたはずの寂しさがぎゅっと胸を締め付ける。
思春期の著しい変化は侮れないものだ、きっとあっという間に兄にとっては知らない「女」になるのだろう。これからの成長を見守ってやれないのは残念でならない、と急に思った。
「そこどこかわかんないし、どうやって会話してるのかもわかんないけど、帰ってきてくれなきゃヤダ。幻覚じゃ、無いんでしょ……?」
泣き出しそうな顔を逸らした少女は、声を震わせていた。
ズキリと胸を突く痛みを無視してまくしたてる。
「拗ねるなって。帰れる気は正直、しない。だから俺の私物は全部売り飛ばしていいぜ。あ、机の奥の筆箱の中のヘソクリは好きに使って構わない。DVDの類は、ラベルに何が書いてあっても絶対中身を確認せずに捨ててくれ。パソコンも、できれば母さんに頼んで処分してな」
「こんな現実的なことしか言わない幻覚、リアル過ぎ……本物なの……? 嘘でも帰って来るって言ってよ……」
「ごめん。ごめん、朱音」
他にどう言えばいいのか、適切な語彙が浮かび上がらなかった。
「謝ったって許さないもん。全部話してくれないと――――」
声は途切れ、滝の流れが歪んだ。
ズン、と大地が激しく揺れる。
――地震!?
よろめき、転んだ。揺れが収まるまでの十五秒間、久也は洞窟の滑らかな地面にしがみつくしかできなかった。
落ちる水を見上げても、もう朱音の姿は跡形が無く消えていた。
諦めてため息をつく。
「にしても何ヶ月も住んでて、地震なんて初めてだな」
揺れが収まったのを見計らって、洞窟の入り口から横道へと歩み出た。雨粒に打たれながらも外の様子を窺う。遠くの茂みの中に人の姿がある気がするが、視界が悪いので判然としない。
そして両目は河に焦点を定めた。最初は暗くて何かの大型動物が来たのではないかと思ったが、目を凝らすと段々と動物にしては大きすぎる塊に見えてきた。
刹那の煌きに恵まれる。
雷の音は一秒も経たない内に続いた。すぐ近くに落ちたのだろうが、久也にとっては目の前の光景の方が意識を占めた。
「ぐっ……!?」
意識が遠のきそうになる。しかし目を閉じても残像が瞼の裏にちらつく。
そのあまりもの衝撃で再び覚醒してしまった。吐きそうになったが、直ちに手負いの腕に自ら噛み付いて、その激痛で持ち応えた。
「なん、だコレ……何だよ!? こんな、こんなことがあるのか!」
全く何の役にも立たない疑問を叫ぶ久也の頭上で、今一度、稲妻が天を駆けた。
一瞬の光が受け入れ難い現実を残酷に照らし出す。
次には雷の怒号が鼓膜を割らんばかりの勢いで、萎れた精神に追い打ちをかけた。
――聖なる滝の麓には、死体と思しき
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