31.歪む境界線

 さっきまでこんなモノは無かった。

 清涼な滝の水の流れをせき止めんとするこの塊は、「界渡り」の山で間違いないのだろうか。

 久也は緩慢になった頭を無理やり働かせた。いつの間にか地面にへたり込んでいたのか、掌の下にある土の柔らかさに意識が行った。

 腰を抜かしている猶予なんて無いはずなのに。


(まさかこの人たちは自ら望んで死んだのか)


 平時であればそう推測していた。

 生贄となる人間は洞窟のどこかか滝の下に現れるのが常であり、たとえ滝の下に現れてもその穢れは薄められ洗い流される。下流にもなればもう風呂や洗濯物に使っても良いくらいには綺麗になっていると言われている。

 だがこの尋常ならざる人数を見て、「普通」の範囲内と結論付けることはどうしてもできない。洗い流す水の中には、血の暗い色も混じって見える。清めきれない恐れだってありそうだ。

 よもやこれだけの人数が――三十人は重なっているだろうか――全員、同時期の自殺者だなどと考えるには無理がある。こちらとあちらの世界の交差点は全部で幾つあるのか把握していないが、少なくとも数週間に数人のペースは保たれてきたはずだ。

 一体どうしたものか。


(こんな事態に限ってサリエラートゥは不在だし。間が悪いな)


 苛立ち、久也は雨水を受け流す前髪を乱暴に後ろに撫で付けた。

 どう対応するのが最善なのか、巫女姫の知識や神通力なしで見極めなければならない。


 ――まず急いで死体を河から取り除く? そしてその後は、新鮮な生贄と同じく扱う?


 自分にはそんな腕力も体力も無い。しかも生贄を扱うということは、祭壇の間に臓物を捧げるということだ。それができるのは滝神の巫女姫ただ一人である。

 何はともあれ下手に動いて状況を悪化させたらと思うと、全身が痺れるように動けなくなった。儀式を間違えたらどんな罰が当たるのか知れない。


(俺に何かできるとしても、助言が必要だ……他に頼れるのは……滝神か!)


 適切な道具なら持ってきている。残る壁は、一人で肌に紋様を描けるのかどうかである。

 やってみるほか無いだろう。以前に布に手写しでメモを残したことはあるし、全部は無理でもせめて六割ぐらいは再現できる。

 膝が笑うのにも構わず、なんとか立ち上がって重い足を持ち上げた――


「待っ……て。何を、するつもり」


 洞窟の中に戻ろうと踏み出した直後、切羽詰った声がした。振り返り目を凝らすと、よろめきながらも河辺を歩く小柄な集落民がいた。大きな布を頭上で両手で広げて雨除けに使っている。その下から見えるのは手ぬぐいを頭に巻いた若そう女性。大きな黒目が印象的な、見知った顔。ユマロンガだ。


「何でここに」

「たまたま、戸締りしてたら、あなたが、この天気、の中……出て行くのが……見えた」

「それだけで追って来たのか!?」


 崩れそうな天候を前にしても家を出て追って来てくれた――そこまで心配してくれるとわかるだけでもかなり嬉しいのに。

 ユマロンガの息遣いは苦しそうだった。それもそのはず、集落の人間は巫女姫と一緒でなければ神力に当てられて、滝神には近付けないのである。


「手伝う、わ」

「無理すんなよ、フラフラだろ。俺が何をするかもまだわかってないくせに」


 そう声をかけてやると、少女の足取りは何故か力強くなった。ようやっと洞窟の前まで来ると、彼女は岩壁に肩を付き、苦しげな深呼吸を何度か繰り返した。


「あなたは、他の誰も知らないことを、知ってる。同じ場所で同じものを見ていても、何かが、違うの。きっとあたしたちにはできない考え方ができる、から」

「そりゃあ考え方が違うってのはあるかもしれないけど。買い被りだ」


 思考することを放棄したらそれは人間でいるのを諦めるのと同じだ――それが、久也の持論である。格好つけているみたいで恥ずかしいからあまり口にはできないが。短所と捉えるなら考えすぎて肩に力が入りすぎていると言えるし、長所と捉えるなら思慮深くて良い意味で慎重、とでも言える。環境と評する人間によりけりだ。

 ユマロンガは河の方を見つめて唇を噛んだ。彼女も場面の異常性を感じ取っている。唇を噛むことで嘔吐の衝動を必死に堪えているのがよくわかる。


「あなたを手伝うことがきっと皆を救う手になる。何でそう思うのかなんてわからないわよ。なんとなくよ。今は他には何もないんだから、賭けるわ、それに」


 宣言の後、ユマロンガは布を下ろして真っ直ぐ見つめてきた。思わず息を飲まずにいられない真摯な瞳だ。


「その思い切りの良さ……アンタも大概、オトコだな」

「? 知らない単語だわ」

「いいんだよ。ゴタゴタが終わったら拓真にでも訊いてくれ。それより、奥の祭壇まで入るのは賛成できないが、今すぐに手伝って欲しいことならある」

「任せて」


 承諾を得たのと同時に彼女の手首を掴んで、洞窟の入り口にまで連れ込んだ。ここでなら雷雨の勢いに晒されなくて済む。

 大急ぎで久也は滝神と対話する手筈を要約して説明した。


「で、手伝って欲しいのは、例の塗料での祝詞? だ」

「………………………………そう」


 突拍子もない話をしてしまった所為か、聞き手のユマロンガは放心しかけている。


「すごい間だな。嫌なら、無理にとは言わない」

「別に、無理とは言ってないでしょ。ちょっと信じられないと思ってただけよ」

「まあ俺も未だに信じ切れてないしな。やってくれるか?」

「いいでしょう。服脱いでそこに膝立ちになって。滝神さまへ奉る紋様は描いたことないけど、内容は憶えてる。戦士のならよく弟に描いてるもの、そう勝手は変わらないはず」


 久也はすぐに言われた通りにして、塗料の入った筒をユマロンガに手渡した。早速彼女は蓋を開けて指を濡らしている。

 全く慣れとは恐ろしいものである。これが元の世界であれば、何のプレイが始まるのかと突っ込むか歓喜すべきところだ。


「つっ」


 何の予告もなしに柔らかい指が肌の上を滑った。伝わる感触や体温を気にしている間もなくどんどんレッド黄土オーカーが塗られていく。

 流石に、戦士の紋様を描き慣れているだけあって手際が良い。数分後には、ほとんどブレの無い紋様が仕上がっていた。


(指先が震えてるのは伝わってたけどな)


 それを制して、短時間でこのクオリティ。頼んだのは正解だった。


「どう?」

「カンペキ。言うことなしだ、マジでありがとう」


 腕を裏返したりふくらはぎまで確認したが、妙な点は何処にも無い。

 するとユマロンガがほっと胸を撫で下ろすのが見えた。緊迫した状況下でなんとかやり切った達成感と安心感からか、彼女は一気に饒舌になった。


「親族以外の男の素肌に触ったのは久しぶりだわ。なんていうのかしらね、ちょっと気持ち悪かった。ヒサヤさん、やっぱりあなた、もっとご飯食べて陽に当たった方がいいんじゃない? 骨の周りに肉が足りないし血管も透けてる」

「余計なお世話だ! ていうかこの暗がりでよくそこまで見てたな」

「だって、かみなり……が……」


 急に脚の力が抜けてきたのか、ユマロンガはつんのめった。華奢な両肩を掴み、倒れそうになる上体をそっと支えてその場に座らせた。強がっていたのだろうが、それでもこの場所は集落民にとっては神力が濃すぎる。


「待っ、て。さっきの話だと、あなた、また血肉を削いで滝神さまに……それなら、あたしが……」

「そこまで気にしなくてもいいから」


 既に瞼が下りてきている。一瞬、ここで寝かせてしまっていいのか、起きた後もっと具合悪くなっていないだろうか、と逡巡した。

 が、何処かへ運んでやる暇も無い。諦めて、久也は己の脱ぎ捨てた服を畳んで積み重ねた。それをユマロンガの枕代わりにして、横たわらせる。


「休んでろ」


 あの闇の中を突き進むのは自分一人で十分だ、そう思って久也は酒の小瓶を手に取った。ナイフは忘れたので、ユマロンガの帯から提がっているのを拝借する。

 そうして闇の中を神の元へと歩き出した。迷いは無かった。

 何せしばらく前から、大いなる存在に呼ばれている気がしていたから――。





「来たな、青年」

「ああ。もしかして呼んでた――」

「よいのだ、細かい話は後回しじゃ。そなたの訊きたいことはわかっておる」


 最初に対話した際と同じ手順で、滝神は姿を現した。水を本体とする神は此度もサリエラートゥの姿を模したが、表情は以前と打って変わって硬い。腕を組んで仁王立ちの体勢だ。


「境界線が、不鮮明になりつつある。あのにえの山は、同時に命を絶った人間をそなたらの世界中からかき集めたものではないぞ」

「は? じゃあどこから来たって言うんだ」

「言い方が悪かったな。確かに各地の交点を通ったのだが、時間の流れにも歪みが生じたのじゃ。あれらは、本来なら何か月もかけてこちらに渡るはずであった。元々こちらとあちらでは時間の流れが違うしな」

「そんな、こともあるのか……?」


 つまりはこの先じっくり時間をかけて起こるべきだった現象が、まとめて早送りされて起きたと。そう考えるとまるで、地球の方がこっちの世界に追いつこうとしているようにも思えた。時空が捻じ曲げられるなど、SF世界のようだ。いや、ここは敢えてオカルトの一言で片付けるべきか。


「あの者は望む場所へ点と点を繋ごうとしている。現在と過去の己の居場所を。一度試みただけでうまく行くほど、境界線は正確に扱えるものではない。試行錯誤を繰り返し、そして目的を成し遂げんとする傍らでは、こうした副作用が生じる。そなたや他の者が視ていた向こう側の風景、あれは新たな穴が空く予兆じゃ」

「あ……な……? 穴って何だよ!? まさか自殺の名所でなくても人がぽろぽろ『落ちて』来る可能性が出るってのか!」


 聞けば聞くほど頭が痛い。あれが予兆であるなら、妹もこの世界に渡るかもしれないと言うのか。他にも、普通に生活しているだけの人間が続々巻き込まれるとしたら、もはや収拾が付かない。混乱、資源争い、意思疎通の困難、感情の爆発、摩擦。多くの人死にが出るのも容易に想像できる。

 胃の底が見えない手で握り締められた気がした。


「そうさな。だが、副作用をこちらから利用しない手は無いぞ。あの贄があれば、わらわは歪みを正す為の力を蓄えられる。事の元凶を摘んだ後、穴を塞げばいい」

「元凶って藍谷か……」

「案ずるな。そちらの方は、そなたの片割れとわらわの巫女がどうにかするじゃろ。それより贄よ。早くしないと鮮度も効力も失われる。青年、もしもやる気なら、一時的に巫女姫に代わることを許す。わらわへの呪文の奏上は要らぬ。儀式もある程度は簡略できよう」


 曰く、いつもであれば服や残った身体組織を取り分けて処理するのを、臓物だけ抜き取って後回しにするらしい。

 そうは言っても生贄は三十人は居たように見えたのだ。


(正気の沙汰じゃねーな)


 たった一人だけでも気が遠くなりそうなのに、初めてで三十回もあの作業を繰り返すなど。滝神がなるべくフォローしてくれるらしいが、それでも不安が残る。


(検察医でもあるまいし。トランス状態なら耐えられるか?)


 久也が考え込んでいる横では、床の松明立てに挿された松明が、ぼうぼうと音を立てて燃えている。


「一つ忠告じゃ。そなたではわらわの巫女のようにはなれない。儀式のさなか、トランスが不完全だと、正気を失う怖れもある」


 そう言った滝神は、よく見るとあまり同情している風には見えなかった。人間の表情をそこまで真似られないだけなのかもしれないが――どうにも違う気がした。

 きっとこの局面に於いて、神にとって我が子である民の存続の方が、異邦人の心持ちなどよりもずっと大事なのだろう。

 別にそれは間違っていないし、同情して欲しいとも思わない。

 久也だって集落の人間を大事に想っているし、故郷にも関わりのある問題だ。やらない、などと逃げられるわけがない。

 こちらが断らないのを知っていて教えてくれたのなら、半ば嫌がらせみたいな忠告だ。だったらいっそ教えてくれなくても良かったのに、神は人間にそんな細かい気遣いをしないのかもしれない。そう思うと妙に晴れ晴れとした気分になった。


「いいぜ、やってやるよ」

「ほう。案外決断が早いな」

「これでも俺は医学に携わりたいと思ってたんだ。死んだ人たちのことは可哀想だし一人一人丁寧に弔ってやりたい気持ちもある。でもまだ助けられる命を優先するのは道理だ。抵抗はあるけど、克服してやるさ。でないと、この先延々と後悔する結果になりそうだ」


 後悔どころではない。ここで行動しなければ、今後は普通に生きることすらできなくなる。


「ならば入り口のあの者も招き入れてやれ。多少の手助けにはなろう」


 滝神は笑んで祭壇の台に飛び上がった。


「けど、神力に当てられるんだろ」

「そなたが『巫女姫』に代わるのじゃ。そなたが神力を一身に集めていれば、周囲の者も多少は楽になろう」

「ああなるほどそういうことか」

「さあ青年よ! 走れ!」


 大げさに両手を広げてから、ぱしゃりと滝神は水飛沫と化して散った。


「消えるの早っ! しかも走れとか、俺がふくらはぎの肉削いだってわかってるくせに! アンタ実は鬼畜属性だろ!」


 相当に場違いな罵倒を返してやるも、勿論返事は無かった。


(右腕とかにしとけばよかった。でも左手じゃうまくナイフ持てないし)


 これからしなければならない末恐ろしい作業から、思考の焦点を逸らそうと必死になっているのは、自分でもわかっていた。

 だがすぐに気を取り直して歩き出した。謎の酒の効果で痛みはあまり無いが、出血が止まらない。止血しよう、とは何故か考えなかった。


(平穏が恋しい)


 出された食事を口に入れるか否かがその日で最も重要な決断だった頃が。当時は平穏とも思えなかったのに――毎日の生活に順応する為に右往左往していたのが、マラリアに警戒しながら寝床についた夜が、今となっては随分と可愛い思い出だ。

 拓真も、サリエラートゥやユマロンガや他の大勢の集落の民も、おかしなことが続く日々とオサラバしたいはずだ。


(ああくそ、やってやる……! 俺だって、さっさとこんな面倒なこと終わらせて、どうしたら将来は生贄エンドを退けられるかの研究に戻りたいからな!)


 気付けば走り出していた。

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