32.stagnant

 キチャンガチュイ、という愉快そうな響きの名前の女性が偵察から戻ってきた。

 集落には珍しい女戦士である。髪を短く剃り、拓真と大差ない体格で、男性に及ばぬ筋力の代わりに柔軟性を活かした体術を特徴とする。

 トンネルの中に誰を行かせるかで巫女姫と論争していた途中、彼女は名乗りを挙げたのだった。声が小さくあまり自己主張をしない女性だが、ひとたび組み合えば恐ろしく固い関節技を極められると有名で、拓真自身も何度か稽古中に苦しまされた経験がある。


「這って進まねばならないような狭い箇所はそう長く続きません。それに思いのほか壁は柔らかく、アレバロロほどの者でも無事に通れるでしょう」


 ぼそぼそとキチャンガチュイが報告をした。皆は彼女を取り囲んで真剣に話を聴いている。そこで巫女姫サリエラートゥが問うた。


「狭い部分を抜けると何があるんだ?」

「人が二、三人歩いて通れる長い路。歩いて三十分ほど後には空洞、そこから先は二方向に枝分かれし、もっと広い路が続くようです。私は空洞より先は進みませんでした。空気の流れからして、数十分程度で戻れる距離ではないと判断しましたので」

「どれだけ広いんだ? ここに居る全員が一同に集まれるほどか?」

「それは問題ないでしょうが、空気が足りるかは自信ありません」

「空気か。それは困るな……」


 大人数で入ればしばらくして酸素不足に陥りかねないということなのだろう。何人までなら送り出せそうか、途中で更に小隊に分かれて進めばいいのではないか、風通しを良くするなんてどうだ、などと話し合いは展開した。

 それがひと段落すると、拓真はそっとキチャンガチュイに近付いて声をかけた。


「チュイさん、あのさ……中の空気、どうだった? 臭くなかった……?」

「別に、気になるような異臭は嗅がなかったと思うが」

「そっか。ありがと」


 やはりおかしい、と拓真は考え込みながら親指の爪を噛んだ。

 入り口から漏れる死の臭いに集落の戦士たちの反応が無い。今やキチャンガチュイからもその臭いは漂っているというのに、獣の痕跡を的確に感知した彼らが、どうしてここでは何も言わないのか。

 まさか実際の臭いの素粒子ではなく「予感」のような物を感じ取っているとでも言うのか? なんとも信じがたい可能性だった。すぐるに対する思い込みで、自分だけの幻覚を作り出していると考えた方が納得できる。


「臭さは気にならなかった。が、息苦しいと思ったことは何度かあったな」


 キチャンガチュイがふと漏らすと、周りの戦士たちの注目が集まった。


「しかし一応向こう側からも空気の流れはあったし、急に壁が崩れたりしない限りは平気なはず」

「よし。では大体十五人で中に入るとしよう。枝分かれの部分では二小隊に分かれて、それぞれアッカンモディとアレバロロが率いるように。人選は任せる」


 彼女の分析を受けて、巫女姫サリエラートゥが決断を下した。指名された二人は承諾し、少々話し合った後、部隊の人員を選んだ。


「では、ルング=ワ、ントンガニ、ナマユニ、ウフゥル、ンゲレカ、そしてムヲンゴゾ。お願いしますね」

「キチャンガチュイ、ンヤカ=スウィ、エマラブピナ、イデトゥンジ、ビフムロ、アァリージャ。ついて来てくれ」


 アッカンモディとアレバロロがそれぞれチームを構成する者を選んだ。呼ばれなかった拓真は、やんわりと抗議した。


「おれ、モディについて行ってもいい?」

「あまり気が進みませんね。あなたは休んでいた方が」

「そこをなんとかお願い! 絶対足手まといにはならないから。『界渡り』だった、北の部族の長とは抗えない因縁って奴があるんだよ。今行かなかったら、おれは一生後悔する」

「……仕方ありません。その決意を尊重しましょう」


 糸目のアッカンモディが僅かに目を見開く。その瞳にちらついていたのは、心配の他に、信頼の光のように見えた。それだけで胸の内が温まる。

 できれば全身まで温まって欲しかった。


(これも思い込みかな。それとも貧血のせいかな)


 手足は小刻みに震えていた。雨雲が育って気温が下がっているのも確かだが、それだけじゃない気がした。


(ううん、がんばろう)


 こうしている内にも着々と戦士たちの支度は整っている。彼らに倣って拓真も軽量化を図った。服は下半身のみを残し、実用性に乏しい装飾品の類を全てこの場に捨て置いて、余った荷物は居残る戦士たちに預ける。

 そうして数分間隔で一人ずつ入り口を通った。まずはアレバロロ含めた七人、次にアッカンモディ含めた八人が順番にトンネルに入っていく。穴の中へ登る寸前に、巫女姫が一人ずつに言葉をかけたり神力を浴びせたりしている。

 拓真は最後尾から二番目で、自分の番が回ってきた頃には天からは大粒の雨が降っていた。


「すまない」


 ぽんと肩に巫女姫の手がのった。美しい顔が苦悩に歪んでいるのが、見ていて心苦しい。


「謝るのはナシだよサリー。いってらっしゃい、だけで十分」

「……そうか、そうだな。お前たちの覚悟をないがしろにするつもりは毛頭無いんだが、もっと何かしてやれることがあれば、といつも思う」

「誰も多くは望まないよー。なんつーか、綺麗な女の子に笑いかけてもらえてその分だけ帰りたい気持ちも強くなるんじゃないかな」


 そのように明るく答えると、彼女は小さく微笑む。


「お前の言う通りであれば私も救われる」


 サリエラートゥは更にこう続けた。中で何かあったら、迷わず戻って来るように。神力でどんな怪我も治すから絶対に諦めるな、と。そしてこの場に残る人間でトンネルの入り口を広げる作業に取り掛かるから、空気の不足も何とかしてみせる――と。


「うん。それじゃあ行ってくるよ」


 拓真は雨を吸った前髪を指先で払って、満面に笑みを浮かべた。頼りになる人間がこんなに居るのだから、これ以上恐怖に打ち震えてなどいられない。

 巫女姫は一瞬驚き、次いで笑い返してくれた。


「お前たちに滝神さまのご加護があらんことを」





 ――窒息しそうだ。


 肘ばかりを使って闇の中を這っているという窮屈な状態だけでも気が滅入りそうなのに、死臭は一時も嗅覚を放っておいてはくれない。手ぬぐいを鼻周りに巻いていても大差ない。


(あと……どのくらい……?)


 這っても這っても終わりが来ない。腕、肩、首周りへと、疲労は広がってゆく。

 何匹めかの蜘蛛が背中の皮膚を伝っている。払いのける術が無く、刺されても気色悪くてもどうしようもない。たった一つの心の支えとなっているのは、前後に聴こえる衣擦れや吐息の音、即ち仲間の気配だ。

 しばらくして、先頭のアレバロロが広い空洞へ出たとの報告が口づてに伝わってきた。

 人々のやる気が燃え上がり、進む速度も上がる。


(あっ)


 左の肘を持ち上げて進もうとしたその時。腕は捉える対象を得られずに宙を泳いだ。


(狭いトコが終わった!)


 穴から両腕を突き出して伸ばし、下の壁を掌で押した。サナギを突き破る蛾にでもなったみたいで、ちょっとした得意気分だ。

 狭い通路から飛び出し、一メートルほど下の地面に崩れるように落ちた。衝撃と痛みが臀部を襲う。


「いってて」

「掴まれ」


 誰かが手を差し伸べている。顔を上げると、空洞の中で松明が四本ほど点いているのが見えた。

 拓真は差し出された手の手首に指を巻きつけて引っ張り上げてもらった。向かい合って目線が合うと、明かりの中で相手の顔を確認した。


「ありがと、ウフゥル」

「おうよ!」


 戦士ウフゥル、細面でギリギリまだ二十代の長髪の男だ。気さくで誰ともすぐに友達になれる良い奴だが、稽古に対してサボり癖があり、酒が入ると喧嘩っ早いのが短所である。

 今度は拓真が後ろを振り返ってしんがりのントンガニに手を貸した。こちらは長くて量の多いフサフサの睫毛が印象的な三十路男性である。ついでに言えば、魚を捌くのが非常に巧い。


「ントンガニで最後だな。全員着けたか」


 一本道だったとはいえアレバロロが一度頭数を確認する。

 十五人揃ったとわかると、小隊に分かれた。これから先の通路は枝分かれしているからだ。アレバロロ率いる隊は左に、アッカンモディ率いる隊は右に進むことになった。

 隊は縦に列を組んで黙々と歩き出した。ひたすら、何十分もただ歩く。

 鼠の鳴き声やどこからか響く水音だけが響く。

 そんな静寂の中、拓真は一層異臭が気になってきた。ついつい足元が覚束なくなる。


「おい。しっかりしろ」

「さっきから大丈夫っすか? 人魚の呪いが実を結びましたか?」

「ほっとけって。こいつが自分で足手まといにはならないって言ったんだぜ」


 先を歩く何人かが気付いて振り返ってくれた。この暗さでは顔ははっきり見えないし、声からは誰が誰なのかわからない。元々、隊の半数はよく知らない人間で構成されているのだ。唯一人、人魚の呪いを口にした人間は、先刻もそのことを気にしていた頬に母斑のある若者だろうと思った。


「だって、すっごい臭いんだよ。死んだ魚に腐ったチーズをかけてもっと腐らせたみたいな。みんなはなんともないの?」

「知らん。気のせいじゃないのか」


 戦士たちは次々と否定した。段々とこっちの頭がおかしいみたいな流れになりかけて、拓真は口を尖らせたが――

 突然、前方から短い悲鳴がした。緊張が走り、顔を見合わせること一秒。すぐに戦士たちは列を崩して前へと走り出した。


「なんてことだ……」


 アッカンモディの呻き声が続く。

 追いついて、松明が照らす先に目の焦点を合わせた。

 ここからは天井が随分と高くなっているようだ。目測、十メートル以上。もしかしたら元々あった洞窟にトンネルが繋がっただけなのかもしれない。

 天井の曲線をなぞって視線を地に落とした。


(な!?)


 驚愕した。

 列になって、人と思しきモノが全裸で横たわっている。老若男女さまざまな人間が十人だ。

 信じられなくて何度も瞬いたが、瞼の裏に焼き付く像は変化しない。変化しない、つまり、誰一人として微動だにしていないのだ。それが意味するところはそう難しくない。


「死、死んでいるのか?」

「眠っているだけとも――」


 戦士たちが戦々恐々と歩み出る。ある者は呼吸を確かめ、ある者は脈を探し求める。結果は芳しくないようだった。誰もが頭を振り、吐き気と戦っている。

 拓真は押し黙った。頭の奥から沸き起こる怒りを表す言葉が見つからないからだ。

 口の中に、戻りかけている胃液の酸味が広がる。


「待て! この者はまだ息があるぞ!」


 松明を片手に、戦士の一人が皆を呼ばわった。

 すかさず拓真は駆け寄った。戦士の名は確かナマユニ、アァリージャの酒飲み仲間で耳の大きい男だ。どうやら自慢の耳で微かな呼吸音を拾ったらしい。

 彼が抱き起こしている小さな身体を凝視した。

 まだ年端もいかない、ほんの少女である。


「どうしてこんなっ」


 拓真の叫び声は地鳴りによってかき消された。

 何もかもが振動している。


(なにこれ。地震!?)


 あちこちで喚声が上がっている。

 やがて揺れに耐えきれず、前のめりに倒れた。

 後頭部に衝撃が走る。


 そうして世界は暗転した。

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