26.フリーフォール
川魚の煮物、炊き立ての短粒米、香草オゼイユの漬物と生姜汁をのせた盆を両手に、ユマロンガは集落の端にひっそりと建つ家に近付いた。出入口は垂れ幕と足元に立てられた木板によって遮られている。木板は動物が入るのを阻む為のものだが、今のような昼間なら使わない人間も多い。夜の間に立てたまま放置されているとすれば、太陽が最も高いこの時刻でも、家主がまだ寝ていると予測できる。
(あたしはどうしてこんなことを……)
などと疑問を抱いたところで遅かった。声をかけるのを躊躇していたらせっかくの料理が冷めてしまうし、それは作った本人としては許せない事態だ。たとえ起こすはめになったとしても、そもそも昼まで寝ている方が悪いのだ、とユマロンガは開き直ることにした。
「ごめんください」
「あ、はい」
驚いて半歩後退った。声をかけてすぐに返答が返って来るとは思わなかったのだ。
木板がギリギリと音を立ててどかされた。
「どうも」
垂れ幕の向こうから現れた青年は、外の眩しさに目を眇めた。そして視線を下へと滑らせ、ユマロンガの顔を認めると、意外そうに目を見開き、次いで小さく会釈した。
眉間に寄った皴からは気難しそうな印象を受ける。天真爛漫なもう一人に比べるとこっちの異邦人は未だによくわからない。人の多い場所を避けて通ったり、誰も知らない内に怪我をしていたり。不気味と言えば不気味だった。とはいえ、巫女姫さまと一緒に居る姿もよく見るので、害は無いはずだと信じている。
あまり会話した記憶もないけれど、それでもユマロンガは気圧されまいと盆をずいっと前に押し出した。
「こんにちは。差し入れを持って来たの、食べられそう?」
「ああ、悪いな、ありがとう」
真っ直ぐな黒い髪をした青年のマクンヌトゥバ語はゆったりとしていて「間」が多い。発音も自信なさそうに控え目だった。聴き取るこちらは結構神経を使ってしまう。
自分の喋る速度も意識的に緩めた。
「どう、いたしまして。中まで運ぶわ」
ユマロンガは青年の左腕の袖下から見え隠れする包帯に目をやった。この盆は意外に重い。傷に響いてはいけないから代わりに運んでやろう、との申し出だ。察しの良い青年が視線に気付き、頷く。彼は怪我をしていない方の手で垂れ幕を引いて、ユマロンガが入室しやすいように横に身を退けた。
「えっと、気――……気が、利くな」
彼が言葉を探っていた間にはもうユマロンガは中に入っていた。パームの藁で編まれた屋根からは陽光が漏れて入り込んでおり、十分に周りを見回せるほど明るい。
「散らかってて、ごめん」
「い、いいえ」
「この、箱、の上……置いてくれ」
導かれるままに、部屋の隅の木箱の上に盆を置いた。そこに至るまでに、床をほぼ覆い尽くす布切れの山をいくつか踏み越えねばならなかった。散らかっているなどというのは事実を軟らかくした表現だった。
(やっぱりちょっと不気味な人)
このヒサヤという青年は、仕立て屋が捨てる布切れを定期的に持ち帰っているらしい。確かに綿布は遥か南の部族から賜っている貴重な品物ではあるが、どうも本来の使い方とは違った用途にあてがっているとの噂である。
その噂によれば「文字」という妙な物を使って情報を集めたり整理したりしていると言うのだ。なのにユマロンガには足元の布の上に連なるごちゃごちゃとした曲線や直線が、他部族が使えるという「黒魔術」か「呪術」の類にしか思えなかった。
突き詰めればどれも未知の存在であるがゆえに、どれだったとしても自分には同じに見えるのである。
「それじゃあ、どうぞ食べてね」
そう声をかけてから、彼女は献立を事細かに説明した。そうしないと食べてくれないかもしれないのはわかっている。もう一人と違って、ヒサヤは食べ物に対して警戒心が強い。魚や鶏や山羊は食べるのに、一体何が気に入らなかったのか、ヤマアラシのシチューを出した日には一口も食べてくれなかった。全くもって、界渡りの物事の基準は謎である。
「ありがたく、食べさせてもらう」
と彼は答えた。
(さて)
食事だけ置いて帰っても良かったけれど、ユマロンガは敢えて居座ることにした。食器を回収するという口実がある。
ヒサヤが黙々と食べている間、自分は腰を落ち着ける箇所を探し求めた。やがて、住人二人のどちらかの寝床の縁を選び、膝を揃えて座った。
(この寝床、まるで主が飛び出してったみたいに、掛け布が乱れてる)
もしかしたらと思ってもう一つの寝床を見比べると、あちらはちゃんと敷き布も掛け布も折り畳んで一箇所にまとめられている。そういう習慣でもない限り、きっとこっちの寝床は何処かへ慌てて出かけたアイツの方の――。
そう考えると何やら奴の臭いが漂っているような錯覚に陥り、ユマロンガは腕の肌が粟立った。何だ、この感情は。必要以上に意識している自分が気色悪い。
ふと、生姜汁を飲み終わったヒサヤが声を発した。何を言ったのか判然としないので、繰り返すようにとユマロンガは促す。一つずつ言葉の節を分解して聞き出し、ようやく通じた。
「そういえば俺、アンタとはあんまり絡んだことないな」
と、言ったらしかった。ユマロンガは顔をしかめた。
「絡むのは糸などであって、人間が絡まるのは男女の営み――…………とにかく、何かの言い間違いかしら」
「あ、そうか。そういう使い方は、しないんだな。えーと……あんまり、『関わった』ことがない」
「そういえばそうね。アナタの相棒の方はよく顔を見るのに」
「見せてる……から、だろ」
「……そういう言い方もできるわね」
そう返すと、ヒサヤは口元を手の甲で隠して笑ったらしかった。何がおかしいのかはさっぱりわからない。
「それで? 何か俺に訊きたいこと、あるんじゃ、ないか」
オゼイユの漬物を木彫りのスプーンで口に運びながら、さりげなく彼は問うた。
「え……」
不覚にもドキッとした。何故わかった?
この男、どうやら鋭いのは目付きだけではないらしい。そこもまた、気味悪さを増長させる要因にもなりうるけれど。
「別に訊きたいことってほどじゃ――」
「アイツが、夜の間に何処行ったのか、とか?」
ぐっ、とユマロンガは歯を噛み合わせた。否定するのも馬鹿馬鹿しく感じる。
「ええ。だって今朝にはもう戦士たちが一握りほど居なくなってて、残された者は戦の支度に没頭してる。斥候に行かせたんだって思うのは自然でしょ?」
と熱弁したものの、ヒサヤは「その言葉、知らない」と困ったように言った。
――ああ、もどかしい。
しかし諦めずに、五分以上もの時間をかけて「斥候」が何なのかを伝えた。それでようやくヒサヤは納得したようだった。
「斥候か。それは、仕方ない。集落の民は新しい場所、考えに、弱い。タクマは、違う」
考えに対して弱いとはどういう状況だろうかと腕を組んで首を捻りつつも、なんとなく言わんとしていることはわかった。
(確かにあたしたちは新しい物が苦手ね)
挑戦心に欠いているというより、たとえ挑戦したくなっても未知への恐怖や既知への甘えの方が勝ってしまうのだ。
それに比べて、異世界の青年たちは面白いくらいにどんどん行動範囲を広げている――ヒサヤの食への態度は別として。
「ねえ、あなたたちは、不思議ね。どうして知り合って間もない人間の為に、命をかける気になれるの」
気が付けばそんなことを訊ねていた。
「それは是非私も聞きたいな」
唐突に入口の方から若い女性の声がした。
「姫さま!」
滝神の巫女姫が、一束にまとめた美しい髪を揺らして無遠慮に踏み込んできている。床の上の布を押しのけて、立つだけの場所を陣取っている。
「げっ」
何故かヒサヤは目に見えて怯んだ。まるで発酵しかけたピリ辛ソースを誤って口にしてしまった人間の表情のようで、可笑しい。が、次の瞬間には元の気難しそうな顔に戻った。
「知り合って日が浅いと言っても、情が沸くだけの濃い日々を過ごしてきたといえば過ごしてきたけどな」
青年の言葉が急に流麗になった。きっと母語に切り替えたのだ。姫さまがいらっしゃることで、神力の効果に頼ることにしたのだろう。
「単に、他に誰もいないからだろ」
「他に誰もいないとは、どういう意味だ?」
巫女姫が食い下がる。
「ここには血縁者も元々の知り合いも居ない。だったら、新しい知り合いに心が移るのは当然だ。別に俺も拓真も、孤独死したいとは思ってないし、心を閉ざしたり周りの親切を拒絶し続けてたら疲れるだけだ。幸い、アンタらはもれなく親切にしてくれたからな。一人ぐらいは嫌なヤツに会いそうなもんだったのに、でも考えてみれば、騙し取るような財産も持ってきてないんだった。悪意で接するメリットねえな」
「そ、そう……騙すって……」
苦笑いと共に、ユマロンガは揃えていた足を少しだけ崩した。
母語に戻った途端に饒舌になったヒサヤは、見た目通りに難儀な考え方の持ち主だった。そこに、巫女姫は反論を繋げた。
「実際そんなあくどい奴は居なくても、お前たちはこんな問題、見過ごせばよかったはずだ。我々だけでも北の部族と戦える。大体、聞けばあの長はお前たちと同郷だと言う――」
「まあ、俺らは多分そんなに器用じゃないんだよ」
「……器用?」
「腎臓移植に同意した時、言われた。本当にこれでいいのか、いつか結婚して自分の家庭を持って、その人たちが病気になって移植を必要とした時の為に取っておく選択もあるって。でもそれはなんか、違うと思った」
「そういえばお前の腎臓は片方、妹にやったのだったな……」
「遠い未来の『いつか』じゃない、今目の前で助けを必要としてる人がいるなら、何を迷う?」
ヒサヤがスプーンで短粒米の入ったお椀をコン、と叩いた。それきり部屋の中がしんと静まり返る。
巫女姫は口元を引き結んで、これもまた随分と気難しそうな顔になって黙り込んだ。
その静寂の中でユマロンガは息を飲んだ。
目の前に助けを必要としてる人がいるなら――そうだ、そこで手を差し伸べるのは人として当然の行いであるはずだ。ましてや、相手が生活を共にしてきた仲間であるなら尚更のこと。
(血の繋がった家族だけ助ければいいなんて言う人もいるけど、あたしはそうは思わない。隣人は大事にするものよ)
気味が悪いなんて思ってごめんなさい、とユマロンガは心の中で謝っておいた。なかなかどうしてよくわかっている青年ではないか。
「とにかく、拓真のこと気にしてくれて、ありがとうと言うべきか。なんか、心配ばっかりかけてるみたいで悪いな」
「え? 別に大して心配なんてしてない……してないけど。どこかでヘマやりそうでね。一つのことに熱中しすぎてうっかり大事なトコで足滑らせちゃったり、そんな気がするのよ」
「否定できないのがまたなんとも……」
ヒサヤは苦笑で応じた。
否定して欲しかったのかはわからない。してくれてもきっと心は休まらなかっただろう。ユマロンガはやはり微妙な気持ちのまま、あのへらへら笑ってばかりの、色素の薄い青年の身を心配するのを止められなかった。
*
自分に関してそんな会話が交わされているとは露知らずに、小早川拓真は谷の側面を滑り落ちていた。
ふと、胃の中身が持ち上がるような感覚に襲われた。斜面が切れ落ちたのだ。足元から世界が崩れ去ったかのような喪失感を覚えた。
(命がけの自由落下再び!?)
最初にこの世界に来た日の記憶が呼び覚まされる。しかしあの時は世界の境界を超える前に意識が途切れたのが救いだった。
今回ばかりは、落ちても落ちても終わりが来ない――!
(この谷は地獄に繋がってるの!?)
息が苦しい。涙が出る。髪が風に引っ張られて痛い。
周りはいつの間にか真っ暗で何も見えない。いや、視覚がぶっ飛んでいるだけの可能性もある。
(ヤバイ。走馬灯が見えそ――)
――ドサッ。
落ちた衝撃よりも、足首に走った激痛の方にすぐに注意が行った。反射的にさすって、折れていないかを確認すると、一応大丈夫そうではあった。
「とりあえず利き足じゃなくて良かった。でも骨にヒビ入ってたらどうしよう……」
そして他にも、左脇腹の皮膚が五センチほどジグザグに切れていた。深くは無いけれど、妙にじんじんしている。挫いた足とはまた別種な、しつこいタイプの痛みだ。
だが谷底に落ちてこれだけで済んだのだから、文句が言えるはずも無かった。
「化膿してアレになったりしないよね……はいけつ、はいけつびょー……敗血症?」
傷薬を求めて腰周りの革のポーチをまさぐった。中身は落下した時に思いっきり混ぜられてしまったようで、この暗がりの中では見つけるのに時間がかかる。
「あっ」
弾みで何かがポーチから落ちた。それを拾おうと手を伸ばすと、指先が冷たい窪みに触れた。濡れた土の中の定まった形の窪み、それは即ち足跡である。
拓真はそこに慎重に指を這わせた。
(これって、大型動物の足跡)
落下の衝撃も収まり、頭も落ち着いて来た頃合いだ。
やっと彼は、周囲に漂うそれに気付いた。
噎せるような獣の臭い。
(でも、一体何の獣?)
そう思考した瞬間、拓真は息をすることも忘れていた。
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