35.追跡

 肉体という名の殻を脱した瞬間の手応えを、どう表したものか。

 明確な解放感を覚えたのではない。感覚そのものを、総て脱ぎ捨てたと言えば最も適切だろう。結果、何も感じなくなったのだ。

 しかしそれはある意味では解放だった。肉体に納まっている――そんな、生きた人間の絶対的な限界を越えられたのだから。

 あらゆる苦しみは形を保てない。脳への信号、五感というインプット機器が、そもそも働いていない。

 加えて、窒息しそうに空気が重苦しかったあの祭壇の前から去ったのである。

 身体から切り離され、心が軽くなった。

 その一方では心の思う一切が拡張されている気がした。いわば「集中」している。気を散らせる他の感覚が取り除かれればこうなるのかと、小早川拓真は得心がいった。

 意識のみの現象となった彼は時空と次元の狭間を漂う。滝神の手回しだった。ここからは目的地を思い浮かべるだけで済む。

 途中、同じように精神体を飛ばした親友と合流した。合流したいと思うだけでそれは果たされた。実際の肉体同士はかなりの距離を離れているのを考慮すれば、いかに便利なシステムかが実感できる。


「やっほー、久也。またまたすっごい久しぶりに会った気がするね」


 相手の姿が視えるわけではないが、そこに居るのは確かに感じ取れた。

 口には出さないものの、相当な安心感を覚えた。拓真にとって親友は、トリップ以来の異常だらけの世界での唯一の「通常」の象徴であるからだ。


「……コレ、『会った』って言えるのか?」


 返事があった以上、意思だけで話しかけることは可能なようだ。相変わらずの冷静な突っ込み具合にも安心した。


「ややこしーからそういうことにしとこうよ」

「まあ、深く理解するのは無理だろうな」

「こっから地球までってどのくらいかかるんだろーね?」


 拓真の質問に答えが来るまで、しばしの間があった。


「ここに時間なんて存在しないんじゃないか。未だに辿り着けないのって多分、俺らの心の準備ができてないからだ」

「心の準備かぁ……」


 五感の使えない狭間の世界を無理矢理に視覚化するなら、それは闇と光が同時に宿ったマルチカラーの空間だった。何も見えないし、何もかもが見える。遠近感なんてまるでない。

 こんなことで大丈夫だろうか。本当にこれで、藍谷英を見つけられるのだろうか。

 見つけて、そして――


「おれ人殺しを頼まれたのって初めてだよ」

「当たり前だ。俺だって初めてだぜ。大体あれは、頼まれたというよりは命令されたって感じだろ」

「う~ん、まあ神サマからしてみれば、人間にああいう命令するのなんてどうってこと無いんだろうけど。された方は結構こたえるね」


 戦闘をした結果で相手を殺してしまうのとは違う。

 初めから殺すつもりで、対象の息の根が確かに止まるまで手を休めることなく、追い縋らなければならない。

 想像してみた。思念体となった今では、その想像がまるで現在の出来事のように鮮明に感じられる。皮膚があれば、鳥肌が立っていたはずだ。


「サリーは連れ帰りさえすれば自分が始末してもいいって言ってたよ」

「それはダメだ。北の部族との事態の収束がこじれるかもしれない。異世界人の俺たちがやる方が、わだかまりも軽いはずだ」

「うん……」

「その時にならないと何とも言えないが、俺はやれると思う。お前が無理だってんなら」


 会っていなかった時間の間に何かただならぬ出来事があったのか、久也の中では確固たる意志が育っていたようだ。詳しく聞いている暇は無い。

 取り残されたと感じている暇も無い。


「ううん。めちゃくちゃ嫌だけど、無理じゃないよ」


 良くも悪くも、あの面倒見の良かった青年に遊んでもらった昔の思い出は一生残る。それだけで十分な気がしていた。

 たとえ血生臭い方の記憶にうなされる未来が今後も続くとしても。祭壇の上の――痙攣していた少女の手足や噴出した血液も、英のあの狂気じみた笑い方も、記憶に刻まれている。

 何であっても、決着はつけねばなるまい。

 覚悟を決めるしかない。


「……そうか」


 久也はそれ以上その話題を引っ張らなかった。


「で、どこから捜す?」

「んー、手始めに藍谷家とかどう?」

「賛成」


 短いやり取りの直後、ギュンと見えない引力に引っ張られる感覚があった。





 視界が晴れた。

 途端に、浮遊感のような感覚が芽生えた。鳥の目線で人間界を見下ろしているようだった。

 薄い雲が出ているだけの、ほぼ晴れ渡った空。地球に戻れた途端に、焦点が合わない程度の視覚が戻った。隣の久也の輪郭も、薄ぼんやりと見える。


(幽霊ってこんな気分なのかな)


 妙な空間から一転して、そこはもう日本だった。見事すぎる移動手段である。とはいえこのやり方の精度はいまひとつなのか、もう少し移動が必要だった。

 見覚えのある幼稚園、横断歩道、並び立つ一軒家。公園の並木からは葉がそっと散っている。この頃は熱帯っぽい場所で乾季雨季しか経験していなかったので、秋の風景が懐かしいとすら感じる。現代の文明機器もだ。自転車、信号機や車、駅など、そういえばそういった複雑な物を生活の中で毎日使っていたんだな、と今更ながら思い出す。

 やがて見知った表札の前で、二人は静止した。


「って、何を律儀に玄関で止まってんだ。俺たちは幽体離脱状態だ。窓から入ろうが屋根から入ろうが、誰にも見咎められないし邪魔されない」

「あ! そうだったね。でも屋根は、天井通るイメージがマジで幽霊だからやめよう」


 二人は窓から入ることにした。

 寝室や居間、台所などと浮遊してみた。が、家の中には何の気配もない。


「誰もいないね」


 壁のデジタル時計に注目した。気温十七度、時刻は午後二時半。


「仕事か授業中か」

「一応、かおりちゃんの大学行ってみる? もしかしたら、可愛い妹に会いに行ったのかも」

「わかった。お前が先導しろ」

「いいよ」


 イメージするだけで精神体は流れるように進んだ。視界も段々とはっきりしてきている。

 道中、かの有名な人魚がトレードマークの珈琲店や黄色いM字が派手なチェーン店などの上を通った。


「ス○バにマ○クか。懐かしいなぁ」

「コーヒーもファーストフードも向こうには無いからな。こうして見ると恋しくなるな」

「久也コーヒー好きだったもんね」

「仕方ないさ。もう手に入らないものを欲しがるのは往生際が悪い」

「うん」


 とりあえず、この状態では視覚は使えても嗅覚は使えないらしい。コーヒーやフライドポテトの匂いなどがわかれば、これ以上に後ろ髪を引かれる想いで通り過ぎたかもしれない。

 そこから大学の敷地に着くまで、そう多くの時間はかからなかった。ちょうど授業の合間の移動時間に当たるのか、行き交う多くの生徒の姿が見えた。

 その中から藍谷香の姿を視認した途端、拓真は殴られるような衝撃に見舞われた。台湾旅行の途中で別れた時に比べて、茶色に染められた髪がやや伸びている。美女なのは変わらないが、記憶に比べて頬はやつれており、肌や服装、身だしなみからは色彩が欠いている。数ヶ月過ぎても眼前で友人を失くしたショックは残るのだろう。それでも普通に生活を保ち続けているのには安堵した。

 しかし拓真が受けた衝撃は香の様相とは無関係だった。


「どうやらこの近くにも居ないようだな。どうする?」


 あくまで冷静な久也が呟いた。


「……英兄ちゃんが戻ってきてるってこと、教えるべきか教えないべきか、どっち」


 質問への直接の返事はせず、独り言に近い返し方をした。ややあって、久也が答えた。


「教えるのは酷だ。わかるだろ」

「そう、だね」


 英は家族に会いに来るかもしれないし、来ないかもしれない。再会できたとしても、確実に捕えて殺すように命令を受けている側としては、家族から彼を再び奪う予定だ。それを穏便に告げる方法など、存在しえない。


「おれ本当はさ、英兄ちゃんの後を追ってあの亀裂を通ろうと思ったんだ」

「…………」

「違うか。後を追おうってより、ただ現状から逃げたかった。逃げたかったんだよ。滝神サマは胆力とか言ったけど、そんなもの、ホントは持ってない」

「お前があそこで魔がさしてたとしても、誰にも咎める権利は無い」

「だからこそ余計に辛いんだよ……もしかして今、望めば家族に会えるのかな。あの家に戻れるのかな。温かいお風呂に入れるかな」


 久也が押し黙った。そんなことしてたら間に合わない、と言いたそうにしていることはなんとなく汲み取った。


「でもさ、もう死んだことにされて思い出が埋められてたらどうしよう、とも考えるんだ。そしたらこっちの世界にもあっちの世界にももう居場所が無いのかって――」


 いきなり「足」と思しき辺りに激痛が走った。拓真は仰天した。


「いったぁ!? ちょ、精神体なのに何で痛いの!?」

「さあ、多分俺が痛くしたいと念じたからじゃないのか」


 察するに、足で足を踏む時の感覚を肉体なしで彼は再現したらしい。確かな怒気を向けられているとわかる。


「弱気になってんなよ。後ろ向きな文句をダラダラ並べるのは俺の役目だ。お前は、前だけ向いてりゃいい」

「カッコいいこと言うなぁ」

「忘れてたけど、伝言があったぜ。あの女――ユマロンガから、『帰りを待ってる』ってさ。なんだっけ、あのドーナツ……ミカテ? お前に、吐いて戻すくらい大量に食わせたいって言ってた」

「え、えええ……ミカテは嬉しいけどなんかやだなぁ……」

「そういう愛情表現なんだろ。有り難く受け取って、心おきなく吐け。ったく、『滝神さまの御座す郷』に居場所が無いなんて、何をどう間違えればそう思うんだよ」


 だって、と拓真は存在しない口を尖らせた。


「結局囚われてた人たちを救えなかったし。仲間の戦士もたくさん死んじゃったし……」

「それは何もお前一人の責任じゃない」


 何故だかため息が聴こえた気がした。心の声以外を聴き取る聴覚など無いはずなのに。


「もういいだろ。俺たちは結構頑張った」

「それは、そうだけど」

「ここまで来て、犠牲の上でしか叶えられない願いなら、俺は願いの方を諦める。アイツと同じ轍を踏むわけには行かない。故郷に帰れなくても、もういい」


 この発言にハッとした。

 体の弱い妹を含めた母子家庭をやむなく置いて行った久也が諦めを口にするのが、どれほど重いことかは当然知っている。


「なんだかんだで愛着は沸いてる。あの世界で骨を埋めるのも、悪くなさそうだ」

「おれだって、愛着あるよ。皆を受け入れたいし、受け入れて欲しいもん」

「だったら神サマの依頼を果たすとこから始めようぜ。そんでさっさと日常ってヤツを取り戻そう」


 うん、と力一杯答えた。故郷への未練を、迷いを、今度こそ断ち切るつもりで。

 二度と、逃げたいなんて考えてなるものか。

 そして次の瞬間ピリッとした悪寒に撫でられた。雷に打たれた経験は無いが、そんな表現が似ていると直感した。


「波動! 感じたよ。これ、きっと英兄ちゃんだ。なんかすんごく怒ってるっぽい」


 強い感情が信号みたく位置情報を発信している。いや、むしろ引きずられるようだとも言う。


「この気配を追えばたどり着けそう!」

「んな抽象的な……。まあいい、お前に任せる。俺は着いて行くだけだ」

「オッケー、行くよ!」


 これからやらねばならないことが心に引っかかったが、緊張感だけを残して躊躇は捨てた。


 ――二人の精神体は、浮遊感も振り落すほどの全速力で空間を駆け抜けた。

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