36.真意、はかり知れず

(おい。壁の地図が、九州なんだが)

(ほんとだ。何で九州?)


 辿り着いた先は、幾つもの机に資料が散乱する共同オフィスか職員室みたいな部屋だった。自分たちの声が誰かに届くかもしれないので、拓真と久也はお互いにしか聴こえない「小声」で会話した。イメージとしては、直接魂に微弱な電波を届けているようなものだ。


(ここが九州だってことか? つーかこの地図、赤ペンでの書き込みすごいな)

(英兄ちゃんはこんな所にどんな用があるんだろね)


 疑問府を飛ばしながら部屋を何度か見回しても、当事者を見つけることができない。そんな時、扉が鋭く軋んで開いた。


「先生、いますー?」


 両手に何冊かの分厚いハードカバーの本を抱えた女性が顔を出した。掛けた声は普通に日本語だ。

 姿を視認される心配はないはずなのに、思わず拓真たちは手頃な椅子の後ろに屈んだ。


「誰も居ないわね。先生ったらまた屋上に一服しに行ったのかしら。頼まれてた検索表やっと見つけたのに……まあ、椅子の上に置いて行けば気付くでしょ」


 女性は独り言通りにずかずかと部屋に踏み入った。真っ直ぐにこちらが隠し場所に選んだ椅子に向かってきている。

 実体の無い青年たちは無言で顔を見合わせ、誰かがわざわざ提案するまでもなく屋上を目指して上昇していた。





「言いがかりだ!」

「お前が私を崖から突き落したんだろう。奨学金を独り占めする為に!」

「違う……! 何を言っているんだ、そんな汚い真似をするわけがない!」

「さあ? あの金は二分して異国からの特待生に与えるものだったが、急遽一人減ってしまった場合は一人が二人分を受け取る決まりになっていた」

「だからって――普通、殺人まで犯すか!? 君は僕をなんだと思っているんだ! 共に輝かしい学生生活を送る予定だったルームメイトを、そんな目で見るわけがない。仲良くやっていきたいと願いこそすれ、貶めるなど!」


 殺伐とした言い争いを耳にしつつ、全ての階層をすり抜けた感触があった。むしろ、行き過ぎたらしい。

 久也と拓真は屋上の地面より五メートルは離れた上空に停止する。


(いた! いたよ!)


 拓真が指差した先には黒縁眼鏡をかけたワイシャツ姿の東洋人男性と、彼に向かい合う異様な立ち姿の男が居た。後者は凝視するまでもなく、藍谷英その人だ。

 二人の間には張り詰めた空気が流れている。


(もう一人は誰だ?)

(わかんない。もっと近くに行こうよ)

(ああ)


 上空から見下ろす形のまま、そっと近付いた。

 東洋人男性の首から提げられたIDカードには、中国風の名前と「准教授」の文字が記されている。三十歳前後に見えるのに准教授であるなら、かなり優秀な人物といえよう。


「大体あの日、君は一人で散歩に行ったんだ。突き落とそうにも僕はその場に居なかった」


 准教授は腕を組んで抗議した。それに対し英は一歩踏み込んで人差し指を指した。


「いいや、誘ったはずだ。電話口で風車の丘まで一緒に行かないかと誘ったのを憶えている」

「ああそうだ! 憶えているよ、確かに誘われた! だが午後の予報は大雨だからと、僕は断ったんだ」

「なんだと……言い逃れはできんぞ!」


 准教授はまた何か叫びたそうにした。面持ちに激昂の予兆が過ぎったが、ふと我に返り、彼は組んだ腕をほどいた。


「そっちこそ、言いがかりはよしてくれ」


 売り言葉に買い言葉では埒が明かないと判断したのか、彼の声は急激に冷静さを取り戻していた。


「僕はこの十年間、一日だってスグルを思い出さなかった日は無かった。ずっと後悔していた、何故あの日引き止めなかったのだと! どうして一言『行くな』と口にしなかったのかと……!」

「こんな時ばかり調子の良いことを言う――」


 歯軋りしそうな形相だった英が唐突に言葉を切った。両目を瞠った後、握り拳が小刻みに震え出す。


「十年、だと?」

「そうだ。十年も失踪していたではないか。大丈夫か? 君は一体今までどこに居て、家族に連絡の一つも寄越さずに、何をしていたんだ?」


 浴びせかけられた質問が聴こえなかったかのように、英はよろけて額を押さえた。


(やっぱり英兄ちゃん、こっちとあっちとで時間の流れが違うって気付いてなかったんだね)

(まあ俺らだってアイツという「生きた界渡り」に関する証言の矛盾が無ければ気付かなかったかもしれないけどな)


 准教授は同情の混じった柔らかい声色で再度、大丈夫かと問いかける。


「記憶があやふやだと言うなら、ちゃんと専門家に診てもらった方がいい。それになんて身なりをしてるんだい。その染みは血か? よかったら一緒に近くの病院に行こう」


 彼の優しさは、伸ばした手は、即座に相手の掌によって打ち落とされた。

 続く威嚇気味な上目遣い。低く落ちた声。


「ヒトを『きちがい』を見るような目で見るな。不愉快だ」


 旧知の人間の応対は、藍谷英の逆鱗に触れた。

 異世界の太陽によく日焼けた顔から人間らしい感情が引っ込み、入れ替わりに、神官として儀式を執り行っていた時のような妖しい雰囲気が舞い戻った。

 瞳に紫色の燐光が宿っている。

 そんな異質な男を、准教授は露骨に隅々まで眺めやった。徐々に表情が強張っていく。


「仕方が無いだろう。今の君は、何もかもが異常だよ! それに、何十年も老け込んだように見える。僕たちは同い年のはずなのに……どういうことだ?」


 叫びながらも彼は警戒に身構えた。


「そうだな。言われてみれば、そうだったな。別に、どういうことでもいいではないか。もう、何もかも、手遅れだ」


 刹那、英の双眸に狂気の閃光が走った。

 瞬く間に彼は准教授に殴りかかっていた。その拍子に黒縁眼鏡が宙を飛んで地面を打った。最新技術を盛り込んだであろうプラスチックのレンズは、ヒビが入ったものの割れなかった。


(なっ……!)


 衝動的に屋上まで降下しそうになった拓真の肩を、久也はきつく掴んで制した。


(ダメだ! 滝神が俺たちを実体化できるのはたったの五秒だ。出て行ってもどうにもできない!)

(でもあの人が危ない!)

(わかってるけど、我慢しろ!)


 地上の二人は取っ組み合いの喧嘩にエスカレートしていた。

 准教授は見た目通りのただの中肉中背のインテリ系らしい。格闘技を会得していたわけでもないようで、反射神経や攻撃・防御のキレは一般的現代人の域を出ない。対する英は二十年の月日をジャングルで生き延び、精神的にも肉体的にも並々ならぬタフさを培っている。

 時間が経てば経つほどどちらの生傷が増えるのか、結果は目に見えていた。


「くそっ!」


 ところが彼は運が良かった。

 英の右ストレートを鼻で受けて血をダラダラと垂らしながらも、後ろ手に武器と使えるものを探った――そして偶然にもそこには鉄材があった。二人で揉み合っている内に屋上の物置として使われている一角に迷い込んだのである。

 ただのインテリ系でも、鉄棒を持てば忽ち脅威になる。

 それを両手で振り被った。


 ――ガツンッ!


 たまたま英の動きが止まっていたため、額に直撃した。

 一筋の赤が流れる。

 鼻の頭まで流れたところで、ポッ、と地面に滴った。

 本来ならばもう失神しているものだが、仁王立ちのまま、紫色の燐光を放つ瞳だけがぎょろりと動いた。


 ――敵手の眼差しを、追い求めて。


「ひ、ひいっ!」


 たまらなくなって、准教授は逃げた。何度も足をもつれさせながら、屋上の入口まで走る。

 英は追わなかった。まるで気が抜けたかのように肩を落としている。


 ――ばたん!


 屋上の扉が大げさな音を立てて閉まった。後には慌てて鍵をかけるガチャガチャとした音、そして急ぎ足で遠ざかる足音。

 そうして束の間の落ち着きが訪れた。

 時折、鳥の鳴き声やクラクションの音がそれを破るだけである。


(よかった、なんとか何事もなく終わったぁ……)

(ああ)


 一部始終を見守っていた拓真と久也は胸を撫で下ろした。

 これで連れ戻す隙が開くかな、とぬるい期待が芽生え――次の瞬間には氷水をかけられたようなゾッとした感覚に替わった。

 藍谷英のあの気味悪い双眸が、真っ直ぐにこちらを見上げたのである。


(げっ。コイツ、視えてやがる)

(えぇ!?)


 仰天した二人に直接言葉がかけられた。


「いや? かろうじて声が聴こえる程度だ。儀式の効力がまだ全身にみなぎっているからな。視えなくても存在は感じ取れていた」


 そこまでの力を秘めていながら何故先程の喧嘩では手加減していたのだろう、と久也は密かに疑問に思った。心身ともに人知を超えた力を備えているだろうに。現に、割れた額は何事も無かったかのように元通りだ。


「なんにせよ、今のを目撃されたのは屈辱だな。笑うがいい。どこまでも愚かで、卑劣で、臆病な私を……笑えばいい」

(おい。自覚あったんだな、アンタ)


 思わず久也は悪態をつかずにいられなかった。


「当然だ。私はいたって理性的だよ。少なくとも一日の四割ほどはね」


 あれ、と今度は拓真が疑問を抱く番となった。英の口調がどことなく崩れている。まるで昔の、まだ好青年だった頃の彼を彷彿とさせた。


(じゃあ残りの六割はなんだってんだ)

「さてね。残りの時間は、思考もできないぐらいにぐるぐるしてる」

(……正気じゃないってことか)


 久也の質問に英は自虐的な笑みを口元に浮かべた。


「君たちはあの世界に行った最初の日、最初の夜のことを憶えているかい」


 いきなり何を言い出すのかと、久也たちは目を点にした。しかし一拍置いてから素直に答えた。


(最初の日? 俺は巫女姫に銛でぶっ刺されたな。んで夜は蚊や蛇に怯えながら浅い眠りについた気がする)

(おれは家建ててる最中に食べた塩漬けの魚がとびきり美味しかったのを憶えてる。夜は、蚊避けに燃やしてる植物がすっごい変な臭いだなーって思ったかな?)


 後になって思い返すと、喜劇を見るような軽い気持ちになれた。その当時は何をするにも必死だったのに。


「僕はあの苦しみを永遠に忘れない。きっと他の人からしてみればばかばかしい悩みばかりなのに、僕にはあの時の心細さが深く根付いていて消えないんだ……二十年経った今でも」


 それから物悲しそうに英は語った。

 最初の夜、言葉が通じなくて困っていたのに、巫女姫の口から零れた「生贄」の単語だけ意味がわかったこと。逃げ出して走り回っていた際に、前庭で生ごみを燃やしている民家を数多く通ったこと。夜に響く動物の鳴き声、その声の主がただの蛙だったとしても、いちいち震えあがったこと。

 水を飲んだり何かを食べたら不治の病にかかるのではないかと怯え、空腹と脱水症状に一晩耐えたこと。


「朝になったら慎重に木の実を取ったりマンゴーを剥いたけど。あの最初の夜、僕は水分補給の足りていない、熱に浮かされた頭でうだうだ悩んでいつまでも眠りにつけなかった」

(まあ、そうなるのも頷けるけどな。俺たちはそういう意味では運が良かった)

(うん……)


 初対面では攻撃してきたが、巫女姫サリエラートゥはその後はちゃんと一から面倒を見てくれたのだ。彼女だけではない、戦士三兄弟やユマロンガ、他大勢の集落民たちも言葉が通じなくてもよくしてくれた。感謝してもしきれない。


「あの世界での夜は、暗かっただろ?」

(電灯が無いもんね)

「あの中を走り回った私の気持ちがわかるか? 家庭のゴミを燃やしていただけの……勢いの無い炎を見る度、自分を焼く業火が追って来ていると思い込んだ私の気持ちが?」


 いつの間にかまた、口調が崩れている。北の部族の長をしている時の彼の傲岸さが戻っていた。

 紫の瞳に新たな狂気の閃光が過ぎった。


「ああ、わかるぞ。憐れみと憎しみの間で揺れ動くお前たちの感情が」

(英兄ちゃん……)

「全て無意味だ。毒を食らわば皿まで、という日本語のことわざがあるように、私はとうの昔に、後戻りできなくなっていたのだよ」


 ――俄かにその男の姿は消えた。


 残像も無く、そこに残ったのはおかしな紫色の燐光だけである。

 拓真は驚愕に仰け反った。


(瞬間移動!? 実体あるのにそんなことできるの、英兄ちゃん!?)

(ったく、油断した! 混乱してる場合じゃないだろ。追うぞ!)

(う、うん!)


 そうして二人はまた空間を駆けた――。

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