09.うきうき遠足にカフェラテ

 この世界に来てから言葉を失うほどの衝撃を覚えたのは、何度目だろうか。

 かれこれ五分ほど拓真は声を出せずに居た。出したら出したで叫んでしまいそうなのも一因である。それをしてしまえば、三十メートル先にて沼に浸かって戯れる象の家族が怖がって逃げ出すかもしれない。


「う……わ……あ……わひゃあ……」


 音量を必死に抑えながら奇声を漏らした。

 長い草の間に身を隠そうとしているが、拓真の身長を覆うには少し高さが足りないので腰を落としている。


「そんなに静かにしなくても逃げたりしないと思うぞ。あれらは人間を怖れない」


 滝神の巫女姫サリエラートゥが腰に手を当てて笑う。今日は長い髪をヘアバンドでまとめ、動きやすそうな膝丈のスカートとへそを出した短いチュニック姿である。

 

「平野の向こうの木々にはゴリラが棲んでいる」


 と、サリエラートゥが指を差す。

 沼沢林は驚くほどに平坦で、青空と大地が融合しそうな線まで遠く見渡せる。所々かなり高い木が固まって生えていたり、パームツリーも混じっている。


「狩らないのか? 食用に」


 怪訝そうに訊ねたのは久也だ。こちらは明るいベージュ色の生地に黒い模様のついた上下一式の服を着用している。四角やひし形を重ねた模様にはシックなのに同時にはっちゃけた雰囲気があって、彼には似合っているのか似合っていないのか決めかねる。


「狩ってはいけない動物が何種かあるのだ。理由は私にはわからんが、それが滝神さまのご意思だというのがなんとなくわかる。なのでずっと以前から我が集落の人間は象やゴリラは獲らない」

「へえ……道徳とかよりも持続性の問題かな」

「何だそれは?」

「資源を取ってもなくならないのかどうかってことだよ。象やゴリラは成長するまでの時間が長いし、繁殖時は産む子供の数も少ないから人間が狩ったりするとあっという間に絶滅するんだ」

「む、難しい話だな」

「だが事実だ」


 話しながらも、一同は腰を落ち着けられる場所を探していた。

 辺りは多種多様に変な形の虫が飛んでいていちいち吃驚させられる。


(もうすぐ雨季に入るってサリーが言ってたっけ)


 真昼間の太陽がこの上なく眩しいのに、ちっとも空気は乾いていない。現在地が沼地であるのも関係しているのだろう。

 沼の中心は浅く、水気が溜まっていた。象たちにとっては水を飲める場所であり戯れる場所でもあるらしい。濃い灰色の巨体が鼻を絡めたりして騒がしく遊んでいる。

 ふいに拓真は肩トントンされたので、くるんと後ろを向いた。

 戦士アァリージャがにこやかに笑って何かを提案している。


「あそこ――、走る――――」


 走る動きを真似て手足を動かし、チラチラと沼の右端を伝った先へ視線を飛ばしている。


(競走しようって言ってるのかな?)


 そう解釈して拓真は大きく首肯した。面白そうである。


「いいよ!」


 更に笑みを広げて、アァリージャがサンダルを脱ぎ捨てる。

 何だかよく知らないけれど、と拓真もそれに倣う。顔を上げればアァリージャの兄である戦士アッカンモディがそこに居た。音一つ立てずに近付いてきたらしい。

 彼がパンと手を合わせたのがスタートの合図だった。


「蛭に気をつけろよー」


 久也の声が背後に遠ざかる。蛭は嫌だけど、もう走り出しているので止まらない。

 最初は草と土の上をアァリージャと並んで走ってたが、ある地点を境に草を踏む瞬間に水が足を撫でるようになった。


(当たり前だけどつっめたーい!)


 だがその衝撃もまた気持ちいい。

 足首までだった水が次第に膝くらいの高さになる。水飛沫をバシャバシャ飛ばして走った。

 水の中を走るのが少し億劫だった。しかも着地点は柔らかいばかりでなく、石や木の枝も混じっていて時々足の裏が痛い。


「だからって、負けたくはないんだけど、ね!」


 筋力が脚の長さの違いも相まって、アァリージャから少し差をつけられている。


 ――あの背中に追いついてみせる!


 上半身を前に傾け、太ももに力を集中させた。

 こう見えても高校生時代は陸上部員だったのだ。トレーニングでプールの中を走らされたことだってある。

 風が髪をめちゃくちゃにする。

 視界は滲み、息が切れ切れになる。

 一歩前へ飛び出して地に着く度に、身体が揺れて震えた。


(あと二、三歩の差――紙、一重、なのに……!)


 茶と緑が迫った。

 これ以上走ったら木々に激突する――


 ――ドン!


 本当にアァリージャは減速せずに木にぶつかっていた。


「あ、やば!」


 一瞬意識を取られ、拓真も隣の木にぶつかった。

 激痛と共に目の前が真っ暗になった。

 そして視界は星を散らしながら徐々に回復する。

 あちこちが痛くて頭がぐわんぐわんしているのに、水に濡れて感覚は麻痺していく。


「あーっはっはっははは!」


 笑いが波となって体中を指先まで流れていった。隣のアァリージャも爆笑している。

 がっしり肩を抱かれ、二人して立ち上がった。笑いが全然止まらない。もう何が可笑しかったのか思い出せないくらいに笑って、それでもまだ全身を痙攣させた。

 この人とは仲良くなれそうな気がする。


「楽しそうだな」


 肩を抱き合ったままほか四人の元に戻ると、石に腰をかけて足を伸ばしているサリエラートゥが微笑みかけて迎えてくれた。アレバロロとアッカンモディは黙々と石を運び集めていた。つまり座席を確保している。


「楽しいよ!」

「拓真、ふくらはぎスゲー蛭がくっついてるくっついてる」


 久也は呆れ笑いをしながら額を押さえている。

 目線を下ろすと、確かに黒い小さな生き物が何匹も脚に吸い付いていた。


「わあ超キモい」


 石に腰をかけ、アァリージャともども蛭を引き剥がす作業に入る。指の間にぐにゃっとした感触を捉えながら、何故か「ごめんね」と一匹ずつに丁寧に謝って引っ張った。

 いつしかふくらはぎが血だらけになっている。足の裏も少し切れている。それを、親友が睨むように見ていた。


「どしたの久也」

「……化膿しそうだなと思って」

「えー、一つ一つは傷口小さいんだし大丈夫じゃない」

「まあお前が気にしないなら俺も気にしない。デコのたんこぶもな」


 久也は自分の額を指差した。それを見て拓真も自分の額を触ってみる。さっき木にぶつけた箇所がこぶと化して敏感になっている。

 気にするほどではないと判断して、拓真はにかっと笑った。


「うん、ほっときゃ治るでしょ」


 全員が座席を選んで落ち着くと、今度は持参してきた水筒の水を少量使って手を洗い、籠から食べ物を出して分け合った。

 バナナの葉を開くことにはまるで誕生日プレゼントを開けるのと同じわくわくがあって、妙に得した気分である。

 六人は雑談を交えながら食事した。


(おいしー。汁が辛いけど、この舌の痺れに耐えながら食べる新鮮な魚がまたイイ。ユマちゃんさまさま)


 掌サイズのナマズみたいな魚を頭部から尻尾まで残らず食らい尽くす。

 瓜の種から作ったンビケの方も辛いソースと何かの肉が混じっていて、パンや米と同じ立ち位置の食べ物らしい控えめな味ながら、思わず悶絶するほど美味い。主役の魚とは相性抜群だ。


「はー、何でこんなに尻尾近くの肉って美味しいんだろ」

「俺は頭派だな」

「ねえ、同じ魚なのに、どんな大きさでも頭と尻尾で違う味がするのは何で?」

「魚の頭と尻尾周りじゃ造りが違うからじゃないか? 筋肉の質によって味が違うんだよ」

「へえー! 久也は何でも知ってるね!」

「今のはただの仮定だ。どうせ異世界にとぶんだったら、もっと勉強してからがよかったな」


 久也の呟きに拓真は目を瞬かせた。


「じゅーぶん勉強してきたんじゃない? 少なくとも適当にやってるおれなんかより」

「実用的な話だよ。俺は将来は医学の研究に進みたかったんだけど、こんなことなら医師免許があればもっと役に立ったろうなって」

「あ、そっか」

「元の世界に戻れなかったら今まで払った学費がパアになるんだな。途中退学だろうな、修め終わってもいない内に。いや……修士号や博士号の一つ二つ持ってたって、この世界で役に立てたとは限らないか。朱音の為にもっと貯金しとけばよかった」


 そうは言っても自分に何が起こるのかは先見能力でもない限りはわからないものである。

 別世界で一生を終えるかもしれないとわかっていたら、拓真だってこれまでの人生で違った選択をしてきたであろうことは間違いない。


「現代社会って不思議なもんだねー。分業の思想が確立されてない社会だとこうも違うんだね。個人や家族単位で色々できなきゃならないんだよね」

「マルクス……いや、アダム・スミスか。人は社会という全体を機能させる為の歯車であればこそ、何かの技術に特化できる。同時に他のスキルや知識が全く身に付かないんだな」

「そういう意味じゃあ『集落』という単位も社会だよね。ただ、おれらはこの社会で生きていくに必要な物を持ってないってだけかな」

「知識や技術は身に着ければいい。生きる為に本当に必要なのは、学習能力と発想力と機転だ。……と、信じたい」

「そーだね!」


 そこでサリエラートゥが口を挟んだ。


「とてつもない話をしているようで私には何がなんだかわからんが、とりあえず精神力と体力は何事にも必要だぞ」

「ごもっともな意見だな」


 と久也が答えた。


(あ、珍しい笑顔)


 たまに見る朝霧久也のこの笑顔は、勉強を教えてもらっている時にこちらの飲み込みや受け答えが良かった時に出る。誇らしげだったり満足げな感じである。

 突然、戦士の三兄弟が何かに気付いたように警戒の糸を張り巡らせた。


「姫さま! 後ろに」


 アレバロロたちがサッと巫女姫の前に立った。すぐ近くの茂みの向こうを、まるで獲物を狩る猛獣のような、落ち着いていながらも意識を最大限に解き放った状態の双眸で見据えた。

 長男が何かを低い声で呟いた。


「アレバロロなら今『どうやら北の部族です。殺意は無いようですが』と言ったぞ」


 サリエラートゥが小声で通訳する。

 間もなくして草が掻き分けられた。

 姿を現したのは腰布のみを纏った成人男性が五人。体中に派手なピアスをつけていて、特に鼻輪が印象的だ。肩までの長さの黒髪を細かい三つ編みに結んで垂らし、ビーズや鳥の羽で彩っている。

 ちちちちち、と男たちは舌を鳴らして音を立てている。

 姿勢や目線から察するに、こちらを馬鹿にした雰囲気である。

 サリーの眉が釣り上がった。

 瞬間、双方のグループの間に緊張感が張り詰めたようだった――

 が、あることに気が付いた拓真は堪えきれずに口を開いた。


「ねえ久也! 滝クニの人が肌がちょっぴり濃い目のミルクチョコレートなら、この人たちはカフェラテって感じだね!」


 場にそぐわない明るい声に驚いたのか、それとも耳に慣れない言語だからなのか、招かれざる客たちが身構えた。リーダーと思しき一人が弓矢に手を付ける。

 声を出したらまた彼らが驚くとわかっているからか、久也は答えないように我慢しているようだった。それも数秒後には折れて叫んだ。


「――――シャレてて美味そうなたとえだな!」

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