20.美少女ご乱心

 ジュワァア――と、鍋から立ち上る音はまるで歌のように楽しげだった。

 少女は高らかに鼻唄を歌いつつ大きなおたまで鍋の中身をかき混ぜている。小麦粉にバナナを混ぜ込んだ甘味系の揚げ物を作っているらしい。地球であればドーナツかベニェという菓子に該当するはずだ。

 そんなユマロンガの真後ろにて、拓真は木の切り株を我が席としていた。

 時々パチッと勢いに弾ける油と鼻腔を掠める甘い香りが食欲をそそる。唾液腺が反応するも、唇を引き結んでよだれが垂れるのを防いでいる。

 外は例によって雨だ。数分ごとにゴロゴロと雷が鳴るが、あまり近くに落ちそうな気配はしない。

 即席の屋根の下の空間は料理の濃厚な芳しさと爽やかな雨の匂い分子がひしめき合っている。

 だが拓真の思考の中枢は五感が読み込んでいる場面とは別の場所にあった。本来ならばワンピース越しに窺える少女の美しいくびれや折り曲げた腰を堪能しているはずなのに、それ以上に他に気がかりなことがあるのだ。

 先日、「戦うよ」宣言をした会話に遡る。


 ――お前ならそう言うと思ってた。俺は戦闘は無理だけど、自分なりに出来ることを探してみる。

 ――ホント? 久也って団体行動あんま好きじゃないんじゃないの。

 ――好き嫌いの問題じゃない。生かして貰ってる恩がある人たちを、あんなマトモじゃない連中に好き勝手にされるのはなんか耐えられないんだよ。

 ――うん。おれも同じ気持ちだよ。だから死にそうな目に遭うかもしんないけど、止めないでね――


「ちょっと!」

「うわっ!?」


 目の前で、パン! と一度だけ拍手を打たれた。身体が勝手に跳び上がる。


「ぼーっとするなんて失礼ね。ミカテ、できたから食べないかって訊いたのだけど」

「ご、ごめんユマちゃん。勿論食べるよ。ていうかその為に待ってたし」

「知ってたわ。さ、どうぞ」


 皿代わりの葉っぱの上にきつね色の玉が五個、ちょこんと置かれている。こうして間近で見るとやっぱりドーナツだ。この世界ではミカテという名らしい。


「熱いから気をつけなさいね」


 葉っぱを受け取った拓真を、ユマロンガはじと目で見下ろしている。まるで保護者みたいだと思った。


「わかってるよー、おれそんなに子供っぽいかな」

「うん」

「がーん。はっきり頷かれるなんてちょっとショックだよ」


 そう言って肩を落とす。


(確かユマちゃんの方が年下なのに)


 そういえば昔付き合った彼女が、「男の人は永遠に子供なんだわ。私たち女が世話を焼かないと、ほっとけばすぐダメになるの」みたいなことを言っていた気がする。

 それは全ての男に当てはまることではないと思う、と反論したものだが、言い合いになって最後には根負けした。

 そのやり取りを話したら、「逆に女は自分が居ないとダメになるようにどんどん進んで男の世話をするんだろ。他の女に逃げないように束縛するってのもあるけど、自分に依存させて得られる一種のハイみたいなもん」と誰かが言ったような気もする。


(あれ、その誰かは久也だったかも)


 首を捻りそうになった所で、ユマロンガがクスリと笑った。


「冗談よ。聞き分けのない弟たちに比べたらよっぽどマシだわ」


 少女はふと頬を緩めた。ぱっちり黒目の目元が優しくなり、ふっくらとした唇も笑みの形になった。

 彼女はいつも被っている手ぬぐいを片手で解き、次いで髪留めも解いて、少し頭を振る。ボリュームたっぷりのぬばたまの髪が、胸辺りまで流れる。


(おぉ。カワイイ、ていうか色っぽい)


 思わず瞬くのを忘れてしまうほどの美少女っぷりに驚いた。


(サリーにばっか気を取られてたけど、ユマちゃんもよく考えたら集落で見る女子の中でトップ5に入れる可愛さじゃ……人の好みによってはトップの座に君臨できそう)


 従来の拓真の女性の好みといえば、健康的な肌色に程良い筋肉、欲を出せばつり目美人でうなじとくびれの綺麗な女の子だった。顔立ちはシャープと言うのか、彫りが深い方が好きだ。胸やヒップについてはとやかく言わない。

 肌色は別問題として(何故なら集落の人の肌色は地なのか焼けているのか判断できないから)ちょうど巫女姫サリエラートゥみたいな人が好ましいのである。元気、活発、サバサバ。

 だが、盲点だった。こういう女性の魅力も味がある。家庭的な子とはあまり縁が無かったから新鮮に感じるし、話していて悪い気はしない。


(そっか、きっと密かにもてるよね。何せ巨乳は正義だし!)


 柔らかい曲線と小柄な体型からは跪きたくなる美しさよりも守りたくなる愛らしさが感じられる。もっと野郎どもがまとわりつきそうなのに、あまり見ないのは何故なのか。

 長い時間見惚れているからだろうか、段々とユマロンガの表情が怪訝そうになっている。拓真は速やかに話題を提供した。


「そういえば弟君、あれからどうなの」


 一瞬だけ、拓真は視線を逸らした。北の部族との会合の際に、毒矢でやられた戦士の一人はユマロンガの弟だったのだ。まだ十六歳かそこらの、ほんの少年なのに――。

 対するユマロンガはうっと顔を歪めた。


「あのバカなら元気過ぎるくらい元気よ。鬱陶しいものよ。下の弟たちとまたバカやってるわ」

「そっか。ならいいんだ」


 拓真はへらっと笑った。


(だって君の悲鳴がどういう風に響いたのか、今でも思い出せるから)


 ――とまでは言わないで置いた。

 もういいかな、と思って拓真はミカテの一個をそっと指先で掴んで息を吹きかける。未だに熱すぎて何度も取り落としそうになった。


「…………でも、それもこれもアンタやヒサヤさんのおかげね。感謝してるわ」


 腰の後ろに両手を組み、照れ臭そうに彼女は呟いた。


「え? あ、うん。おれより久也だね。酸素云々がわかって対応の仕方もわかったから……」

「サンソ? まあよくわからないけど、助かったわ」


 ユマロンガの次の行動にはこれまた吃驚した。危うく、お菓子の載った葉っぱを膝から落としそうになった。


「……ユマちゃん……?」


 彼女は両手で拓真の左手を握って俯いていた。

 連日の家事のせいか少し肌がざらついていて、肉付きの良い手だ。力強くて、信じられないくらいに温かい。

 その手ははっきりと震えていた。そして、声も。


いくさは嫌いよ。どんなに小さな諍いでも。父は昔、些細な揉め事の為に命を落としたわ。弟たちも、もしかしたらこれから無残に死ぬかもしれない」

「……そっか」


 他に何と答えればいいのか、わからなかった。そうならないように頑張るよ、の言葉は喉に突っかかってしまう。

 ユマロンガは地面に膝をついていた。震え出した小さな肩に、拓真は慰めるようにそっと手を載せた。

 そして思考は不安の種の方へと向かう。


(英兄ちゃん、わかってる? たくさんの人にこんな想いをさせてるんだよ。たくさんの人が死ぬかもしれないんだよ。何も感じないの?)


 両の民に戦を強要するだけの理由を持っているとは思えない。彼の口ぶり、振る舞いからは、私怨の炎しか感じなかった。

 昔はあんなに良いお兄ちゃんだったのに。惜しいと思いながらも、心身ともに離れていた年月を埋めるのは不可能だと拓真は悟っていた。


(年月……)


 気が付けばユマロンガは立ち上がり、踵を返していた。涙を隠しているのだろうか、鍋の片付けに没頭していて振り向かない。

 その間に拓真はまた以前の会話を思い返していた。


 ――お前には藍谷英が三十路ぐらいの歳に見えたか? 髪が払われた状態で見たらあの顔、もっと年上に見えたぜ。


 久也の観察眼は何かを捉えていたのだ。それは、意味のあることのはずだ。

 なので既に知れたことであっても再び訊ねてみることにした。


「ねえユマちゃんって幾つだっけ?」

「……何をいきなり。十九歳だけど」

「じゃあ、十年前に生きた界渡りが来たとしたら、覚えてる?」

「当前でしょ。そんなレアなイベント、新生児の耳にだって入るわ。無かったわ。十年前にそんなこと」

「うーん、そっか」


 ――十年前に生きた界渡りは来ていない、二十年前には来ている。それらの事柄を踏まえて、じゃあ藍谷英は「何年前に失踪して、何年前にこの世界に来た」のか? 案外解答は簡単だろ。

 ――でもさあ久也、前に立てた仮定と逆になるよ。

 ――いいんだよあれは。粘土板から読み取れる情報に間違いは無くても、視た映像に順番があると考えたのが間違いだったんだ。あの仮定は無かったことにしてくれ。


 そこまでの会話を思い出して、拓真は知恵熱を出しかけた。心なしか耳から湯気が漏れている。

 これ以上は今日は無理だと諦めて、大人しくミカテの素晴らしさに身を委ねることにした。バナナの甘味、もっちりとした食感、抜群の歯ごたえ。この料理の腕前だけで何度衝動的に「よし! 結婚してくれ!」と叫びそうになったことか。

 なんとなく、口が開いた。


「女の子の十九歳ってもう結婚してる歳じゃないの」


 それまでしばらく背中を見せていたユマロンガは機械仕掛けの人形みたいにキリキリと不自然な動きで振り向いた。その表情――


(――般若!? やば! なんか地雷踏んだ!?)


 青ざめ、拓真はまだ手を付けていない最後の二個を葉っぱに包んで横の岩の上に避難させた。

 そして切り株から腰を浮かせ、後退りした。


「……てた……」

「え、えーと……何でしょうか……ごめんなさいなんか知らないけどおれが悪うございましたすいません」

「――――してたわ、結婚!」


 紅潮した顔で彼女は怒鳴る。思わず拓真は肩を竦めた。


「集落の一番西側に大きな家を建てた、体力があって狩りも得意な良い男だったわ! 親同士も納得した良縁だと思ったのに――アイツ、結婚しても浮気癖が治らなかったのよ!」

「は、はあ」

「二人目の妻を迎えるとか、たま~に誰かと遊ぶくらいなら赦してやったっていいわ。男だもの、それくらい当然でしょう。でもアイツ、あたしのことは絶対家から出さないように家族に見張らせたりしたくせに、自分は毎晩のようにどっか別の女を渡り歩くのよ!?」

「それは最低なクズ男デスネ」


 そのまま素直な意見なのだが、たとえそう思っていなくても話を合わせるべきだと直感した。


「騙された、騙された! 何か月も我慢したけど、ある時頭に来ちゃって! ひっぱたいて逃げ出したのよ。もう一生の恥! あんなヤツ死ね! 死にたい! 殺してやりたい!」

「わー! ちょ、物騒な言葉が飛んでるけどー! 落ち着いてユマちゃん! せ、せっかくの可愛い顔が台無しだよ!」


 どう宥めるのが正解なのかさっぱりわからなくてとりあえず手を振る。言葉が届くとは思えないが、かといって肩を揺さぶれるはずも無い。怒り爆発中の女性に触るのは絶対にいけない、これは経験談だ。


「男なんてバカばっかり! 何が『君の美しさはどんな花にも勝る。僕を飾る永遠のただ一つの花にならないか』よ! 『君が居ればもう他の女は要らない』よ! こんな過去があってもアイツにはこれからも女はいくらでも寄って来る。なのにあたしは男を縛ろうとして癇癪を起こした女として語られる。不公平、こんなの不公平だわ。でもいいの、夫なんて二度と要るもんか!」

「はい! ごめんなさい! 雄ですみません! 結婚なんて単語は二度と出しません!」

「今出したわね!」

「わー、ごめんってばー!」


 それからの拓真は飛んでくる鍋や食器を避けるのに必死な数分を過ごした。

 雨の所為で近所の人たちはこの騒ぎが聴こえていたとしても介入に来ない。仕方なく、互いにぐったりと疲れるまで走り回った。勿論、先に根を上げたのはユマロンガの方だった。二人は今度は数分の間、荒い呼吸が鎮まるのを待った。

 その頃には雨の勢いは弱まっていた。

 昼間なのに妙な静けさだ。そして周囲には白い霧がかかっている。


「また霧? 最近よく見るわね。特に朝」

「違うよ」


 ただの勘だった。いつしか拓真は霧を凝視していた。


「朝の霧とは違うよ。何でかはわからないけど」

「そう? あたしには違いがわからないわ」


 違う、最近よく朝に出る霧とは何かが違う――。

 そこまではわかるのに根拠を人に説明できない。自分の中の何かが曖昧過ぎて、空しい気持ちになる。


「なんか……嫌な予感がする」


 としか言えなかった。

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