19.社交的に生きるのが本質

「けむしー!」


 日暮れ時の公園にて、男児が嬉しそうに叫んだ。小学校低学年に該当するくらいの歳だ。

 小さな公園は普段あまり賑やかな方とは言えないのか、今は利用者は二人しかいない。男児の他には、同年代の女児がブランコの上に立っている。身体を仰け反らせたり前屈みにしたりと重心を巧みに動かす彼女は、一人でも上手にブランコをキコキコと漕いでいる。

 男児はブランコを支える鉄の柱に右手を寄せ、虫を掌の上へと誘う。


「どこ? けむしさん!」


 ツインテールの女児が羨ましそうに身を乗り出す。


「ほら」

「すごーい! おっきいけむしさんだぁ!」


 差し出された手に魅入られるように、女児はブランコから飛び降りて男児に近付く。


「さわらせて」

「やだよ。おれがみつけたんだ! かおちゃんはじぶんでさがせば」

「たっくんのものは、かおちゃんのものなの! かおちゃんもけむしさんさわりたい!」


 ジャイアニズムという単語をまだ知らない彼女は、自己中心的な理屈を振り回す。かといって男児はそんなものに従順に沿うはずも無く、全力で抗う。どちらか片方が折れれば円満に終わるはずのやり取りが、どちらも一歩も引かないからこそ悪化する。

 取っ組み合いの喧嘩に発展しかけた所で二人の子供たちの上に人型の影がかかる。


「コラ! 二人ともいい加減にしなさい!」


 現れた少年はそれぞれ子供たちの脳天に拳骨を叩きこむ。当然、手加減している。

 いったぁーい! と子供たちは頭を押さえて涙目で訴える。


「毛虫さんが怪我しちゃう前に放してあげなさい。ひとつしか無い物を二人で楽しむにはどうすればいいか、ちゃんとわかってるだろ?」

「かわりばんこ……」


 ぼそぼそと男児が答える。少年に言われた通りに、そっと毛虫を元の場所に戻している。


「そうそう。たっくんはいい子だね。喧嘩はだめだからね。毛虫さんとかおちゃんにごめんなさいして」

「ごめんなさい」


 たっくんと呼ばれた男児は素直にぺこりと頭を下げた。おそらく、自分が何故謝らなければならないかまではちゃんとわかっていない。わかっていないけれど、少年が言うのだから従おうと思った。少年の言うことは大体いつも正しいような気がするのだ。


「はい、かおちゃんも毛虫さんとたっくんにごめんなさいして」

「やだー! かおちゃんわるくないもん! おにいちゃん、おんなのこぶっちゃだめなんだよー!」


 女児の方はもう少しぐずる。

 お兄ちゃんと呼ばれた少年はにっこり笑った。四角いフレームの眼鏡をかけ、短く髪を切りそろえた、若干落ち着いた雰囲気を纏う少年だ。部活帰りなのか、制服姿でスポーツバッグを肩にかけている。


「善悪と礼節は男も女も平等に覚えるべきもの。正しい躾の為ならば女の子だろうと僕は容赦しないね」

「すぐるにーちゃん、きょうもなにいってるかわけわかんなーい」


 既にお許しを得た男児が楽しそうにぴょんぴょん跳ねる。


「香! ごめんなさいするまで帰らないからね。おなか空いても知らないよ?」

「おにいちゃんのいじわるー!」

「意地悪ではありません、愛のムチです。僕は香にまともな大人になって欲しいんだよ」


 ぽかぽか殴りかかる妹を軽くあしらいながら、やはり少年も楽しそうに歯を見せて笑うのだった。





 シャボン玉が弾けたのと似た要領で、小早川拓真は覚醒した。

 周囲には物凄い霧がかかっている。


(あれ、夢? 超懐かしいなぁ。中学生の英兄ちゃん)


 先日確認できた彼の変わり果てた姿と「まともな大人」というフレーズを思い浮かべ、唇の間から乾いた笑いが漏れる。

 拓真は寝ぼけ眼を擦りつつきょろきょろと辺りを見回した。自分を見下ろせば、麻を縫い合わせただけのシンプルな寝巻き姿のままなのがわかった。裾はローブのように開いていて、袖も広くて短い。


(夢遊とか、こんなん生きてて初めてだけど)


 空気は少し冷えているし、集落は静寂に包まれている。

 日も昇り切らない早朝で誰も起きていないのだろう。妙な状況だ。背筋が冷たい手で撫でられたような感覚があったが、理由はわからない。

 霧が引いて頭も冴えて来たそんな頃、背後の自宅から物音がした。同居人が口元を押さえてふらっと出てきたばかりだ。


「あれ? おはよう……? って、異常に早いね」


 声をかけてみるも、久也は振り返らずに手をパッと短く振っただけだった。まるで「こっち来るな」と言いたげだ。よく見ればかなり青ざめている。

 家から少し離れた茂みまで早足に進んで、彼は片膝ついた。後姿しか見えないが、音から察した。


「え、ええ? 大丈夫?」


 嘔吐しているのだと気付いて、拓真は傍まで走り寄った。吐き終わるまで背中をさすってやった。

 朝一番に吐いたからか、吐瀉物はほぼ透明な胃液のみである。となれば消化不良ではなさそうだ。


「具合悪いの?」

「…………マラリアだったりして」


 返ってきた視線は虚ろに湿っていた。背中は寝汗がべっとりとついていて熱っぽい。

 蚊対策には気をつけていたのだが、それでも刺されることはあった。マラリアにかかる可能性は十分にある。真面目に心配になってきた。


「サリー呼ぼうか」


 症状の緩和には神力が一番だ。拓真は巫女姫サリエラートゥが住まう家がある、台地の中心の方へチラッと目をやった。


「いいよ。アイツ、日が昇るまで起きないだろ。自力で洞窟まで行って――」

「だったらおれ背負って行くよ」

「それは……パス」

「じゃあ休んでなよ。日が昇ったら速攻でサリー呼んで来るから」


 結局そういうことに落ち着いて、二人は家の前のベンチまで歩いた。ベンチの上で久也は横になった。


「悪いな。片付けはしとくから――」

「いいっていいって。適当に埋めときゃいいでしょ」

「……変な気分だな。うちでは大体体調崩すのは朱音や母さんで、世話をしてたのは俺だったのに」

「そんなこともあるよー」


 そう言って、拓真は木製のシャベルを取った。吐瀉物の量はそんなに多くないので、埋めるにしても大して時間はかからなかった。片付けも終われば拓真はベンチの前の草に腰を下ろした。

 久也は眠ってはいないらしく、半分だけ目が開いている。

 台地の上から見下ろせる景色はまだ薄暗い。遠くから鳥の鳴き声が響いた。カラス系かな、と拓真はぼんやり考える。

 早朝なせいか思考回路は割と静かなものだ。数分経ってやっと拓真は口を開いた。


「なんかさ、ばあちゃんが作る牛丼が無性に食べたいんだけどどうしよう」


 半ば独り言だったが、返事が返った。


「朝から牛丼かよ。まあ、俺も朱音のしじみ味噌汁が恋しい……今はどうせすぐ吐き出すにしてもだ」

「あはは。確かに朱音ちゃんのしじみ料理って、ふわっと優しい味が良いよね」


 朝霧朱音の料理にはほとんど外れが無い。本人のふわっと優しい性格をそのまま表していたかのようで、いくらでもおかわりができた。もう味わうことはできないのだろうか、とふとしんみりと思った。


「帰りたいなぁ」

「…………そうだな」


 無意識に目頭が熱くなった。


「おれらっていつ死ぬんだろう」

「明日かもしれないし、数年後か数十年後かもしれないな」

「日本でもそれは同じだったはずなのに、時々たまらなく怖く感じるのは何でだろ」

「リスクが数値化できないからじゃないか」

「そんなもんかな」


 言われて見れば、日本に居る間はどの道を通れば危ないかとか、どうすれば病気にならないのかとか、情報はいくらでもあった。年間、交通事故でどれだけの人が死ぬのか、先進国でならばそれを知識として得ることは簡単だ。

 だが発展途上国は違う。ふとしたことで人は亡くなる。予報にも出ない突然の天災はあるし、原因不明の病もありふれている。だからこそ人々は呪いや天罰を信じやすいのかもしれないが。

 でも、と拓真はまた口火を切った。


「独りじゃなくてよかった。久也と一緒でよかったよ。この世界で骨を埋めることになっても、元々の『小早川拓真』って人間を知ってる人が一人でも残ってるってのは、なんかわかんないけど心強いんだ」

「聞き捨てならないな。お前、俺より先に死ぬ気か」

「うーん、どうだろう」


 拓真は曖昧に笑った。

 病でぽっくり逝く危険が常に生活の中にあるが、危機はそれだけではない。物事の全容を見つめている久也ならきっととっくに気付いているはずだ。


「元々の自分も何も無いだろ。今ここに居るお前だって十分にお前だ。集落の人間が知る『タクマ』はお前そのものだ」

「えー、うーん。久也は我が強い? からそう思えるんだよ。それって結構難しい考え方だと思うよ。これまで築き上げた関係とか、自分が所属してるグループとか、人はそういうのに執着しちゃうから。それに相手が違うと接し方も違うじゃん」

「己の内側の性質だけでなく、周囲との関わり方が人を構築するって話か。それはわかる……が、お前に限ってその心配は無い。いつ誰が相手でも自然体だろーが」

「あ。そうかもしんない」

「元々の自分のことだって、こっちの人に語れば済む。そりゃあ実際に共に過ごした人と感覚は違うだろうけど」


 自分のことを語るにはまず誰かに心を開くことが前提だ。それも難しいことであるはずなのだが、拓真は集落に来てからの日々をざっと思い返した。自分たちは殻に篭もって顔見知り二人だけで生活してきたのか――?

 答えは否だ。成り行きのままに、言葉が通じなくとも老若男女構わず集落民と関わってきた。言葉がある程度喋れるようになった以上、そうと決めたらいつでも誰かに自分のことを語れると思う。


「うん。おれらは大丈夫かな」


 人見知りじゃなくて良かった、と拓真は内心で思った。社交的に生きるのは霊長類の本質だ。どんな状況だろうと他人との関わりを拒むことはできない。

 たとえたった一人で生きていくことが可能だったとしても、長い間全く誰とも会わないのはストレスとなりえる。


「英兄ちゃんは独りでどんな気持ちだったんだろうね」


 久也からの返答は無かった。熱で答えるのも億劫になったのだろうか、それとも寝てしまったのだろうか。構わずに話を続けた。


「世界の境界を越えた時に人格が歪んだのかな。それとも状況に耐えられなくなって変質したのかもわかんないけど……」


 話し合いたい気持ちは勿論ある。彼の身に何が起きたのか、自分たちは知らなければならない。結果、分かり合えるならそれに越したことは無い。

 しかし敵対しているのも確かだ。集落の――今の生活や仲間たちの敵であり、拓真にとっても敵だ。

 過去はどうだったとしても、そこを譲るわけには行かない。


「もしも北の人たちと戦になったらさ、おれ戦うよ」


 見つめた両の拳をぎゅっと握る。


「ああ」


 一大決心を親友に伝えたら、全く驚いていなさそうな声が返ってきた。思っていた通り、とっくに気付いていたらしい。

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